2020年JOA特別コロキウム参加報告(岩瀬裕子JOA会員)
題目:「コロナ禍におけるオリパラ開催の賛否をめぐって分断される『社会』」を発表して*
報告者:岩瀬裕子(東京都立大学人文科学研究科・博士研究員.社会人類学)
本発表では、報告者が、現在の東京オリパラを控えたこの状況をどう見ているかという現状認識を共有したのち、東京大会をどう考えているかを報告した。加えて、そもそもオリパラ開催の賛否を巡る議論とは、どのようにあることが望ましいかについて発表した。
報告者が示した主な現状認識は以下の3つである。
①非対称性(格差)の拡大
②唯一の被爆国であるという国際的な責任の欠落
③脆弱な人間関係と中間集団の欠落 (小さな社会と大きな社会を結ぶモノ)
とりわけ、三つめの認識は、国内における自殺に関わる問題とその低年齢化、加えて国内の7人に1人とされる子どもの貧困(相対的貧困)問題に通じる議論である。
こうした報告者の問題意識や現状認識の上で「東京大会をどうするか」と考えた場合、フランスで再びロックダウンが始まり、ヨーロッパの他の国々でも新型コロナの感染判明者が増加する中、現実的に、観客をフルに入れて開催することは困難であろうと考える。ただ、大会を中止しさえすれば良いかと問われれば、報告時(2020年10月31日)現在の考えでは中止すべきではない、中止したら、オリパラが抱える諸問題を棚上げにしたまま、この東京、日本を通り過ぎるだけになると考えるからである。たとえ、競技を行わないにしても、何かしらの形で、現在の日本や世界の国々が抱えている社会問題や今後のオリンピック・パラリンピックのありようを議論する場を東京が主導して設定し、それを世界に向けて発信することが重要であると発表した(2020年12月9日の拙稿整理時の思いでは、通常通り、開催されれば開催されたで、本発表で主張する議論さえなされないまま、競技大会だけが開催され、それを消費するだけになるのではないかという危惧もある)。
核兵器禁止条約が来年1月に発効することが決まったことを受け、日本でも日本政府に対して、その条約への署名・批准を求めて署名活動が新たに始まる。一例ではあるけれども、例えば、オリンピックに賛成を唱えるならば、その議論や活動(署名賛成だけでなく反対の立場も含む)にも参加して、たとえ、オリンピックのお題目に過ぎないと批判される国際平和に対してアクションを起こすことが東京大会「賛成派」に課せられていることではないだろうか。オリパラの議論、とりわけ、「賛成派」の議論は、スポーツ内にその議論がとどまっているという批判もあり、「反対派」のような社会とつながる回路が乏しいように思う。では、報告者が「反対派」を全面的に擁護しているのかと問われれば、そうとも限らない。なぜなら、「反対派」の議論は、「賛成派」に対して、オリパラに関する諸問題を何も知らない「無知な人たち」という一括りのレッテル貼りをしている側面があると考えるからである。報告者は、オリパラ開催の議論をめぐりもたらされる分断線は、「賛成派」と「反対派」のあいだにあるとは考えていない。むしろ、その両者は思うほど遠くないように思う。なぜなら、こうした議論ができるのは両者とも少なくとも「恵まれた環境」あってのことだからである。情報格差の言葉があるように、そもそもこうした議論にアクセスできない人や無関心を含めて「スポーツ」の枠の「向こう側」に多くの人が存在すると考えるからである。「恵まれた環境」というのは、なにも金銭的なことだけを指すのではない。今日、議論されているようなオリパラに関わる知識を得られる環境やチャンスに開かれているという意味での恵み、ありがたさも指す。私たちはもっとこの「向こう側」に向けて議論を開いていくべきではないだろうか。「向こう側」に届く言葉で語れているであろうか。
「反対派」が匂わす、「賛成派」やオリパラ開催に踊らされる大衆=「無知」という構図は、自分すらも、もしかしたら、「反対派」が批判する「賛成派」や「向こう側」だったかもしれないという想像力を欠いている。もちろん、「反対派」が主張するように、オリパラが排除する人々の存在は、到底、無視できるものではない。そこに異論はない。その一方で、自らの生活は安泰のままで言説だけの「反対派」を繰り広げる人たちには、どうしても「生活の視点」が欠けているのではないかと考えるのは私だけであろうか。
ある学会でのオリンピック批判に関するシンポジウムの質疑応答で、報告者が次のような質問を投げかけた時のことである。会場が静まり返っただけでなく、登壇されていた著名な先生方も返答に窮していた。
「私は、きょう、議論されてきたオリンピックの弊害に関して、全面的に賛成です。ただ一方で、限界過疎地域に指定された町に暮らす私の父-80を前にしていますけれども-孫と一緒にオリンピックの開会式に行きたいと言い出し、なかなか止められなかったたばこまで止め、そこ(オリンピック)までは何としても自分の足で立っていたいと、生きがいのように言い出したからです。そうした父の姿を、先生方は、無知として片付けてしまうのでしょうか」。
報告者が、賛成・反対、どっちつかずの立場で煮え切らないところがあるのは、東京大会を楽しみに待つ、言説上の「無知」に位置付けられる<わたし>の父の姿と、オリパラの諸問題への批判との折り合いが自分の中で依然としてつかないからである。
本発表の当日、スポーツ史のある大先輩が、こうした煮え切られない態度をみせる報告者に宛てて、わざわざしたためてくださったお便りを匿名で披露した。その手紙の中で、先生は、終始、オリンピック反対を訴えていた。とりわけ、オリンピックと平和を安易に結びつけて語ることへの強い違和感が述べられており、そういった語りを「欺瞞」という言葉で表現されていた。先生は、平和だからスポーツができるという点にご自身の終戦後の経験から十分な理解を示していた。しかし、その反対の影響、つまりは、(近代)オリンピックが戦争を止めたという歴史的事実はないと強調されていた。
いまの私がこの先生に返せるとしたら、「平和」とは、なにも大きな戦争がない生活だけではなく、日々、自分が大切だと思えることや人を必死に守っていく、それを積み重ねていく、意見の異なる人との対話を根気強くしていく、そして、内輪の議論を外に広げていくための言葉と行動を手に入れ、自ら働きかける、そんな「日々の平和運動」ではないかと。
文化・社会人類学が着目してきたのは、レヴィ=ストロースが「民衆のやりかた」と評したように、そして本年9月に急死したデヴィッド・グレーバーが「〈あいだ〉に民主主義が生まれる」と主張したように、賛成・反対の分断や対立を超えて、その時々で望ましいと思われる距離感や組み合わせを粘り強く模索していく態度ではないだろうか。
発表を終えた報告者は、依然として、オリパラ開催の議論を前にして宙ぶらりんでいる。復興五輪の文字が消え、世界的なコロナ禍において抽象的な「生命第一」が叫ばれる中、報告者ができるのは、賛成・反対といった安易な「こたえ」に飛びつかず、どうしたら、諸課題に対して望ましい対応や関係性を生成できるか、オリパラの議論に関与し続け、日々の生活の中でそれを実際の行動に移していけるかである。そして、一般化された「生命」を尊重するのではなく、個別・具体的な肌触りのある生命のつながりで毎日を少しでも平穏な方向へと導けるように葛藤していくことである。
特別コロキウムの最後に、報告者より若い世代の出席者数名に思い切って次のような趣旨のことを投げかけてみた。
「きょうは、私以外にも、皆さんより上の世代の人が参加していますが、皆さんそれぞれの中に、こんな形でオリパラを渡してくれるなよ!こんな形で社会を渡してくれるなよ!といった思いはないですか。わたしを含めた上の世代に思うところはないですか。あってしかるべきだと思うけど・・・」
我ながら、先輩方を前にして失礼な問いかけであった。しかし、黙っておけなかった。そんな不器用極まりないわたしにつられたのか、黙っておけなかった若手2人が咄嗟に応答してくれた。感謝に尽きる。
オンラインとは言え、時に本音を携えて交わす、こうしたやりとりこそが、報告者が根気強く続けたいと訴えた個別・具体的な肌触りのある日々の平和運動、交流である。
今回、まだまだ勉強の立場にある報告者に、拙い発表の機会を与えてくださったことに心から感謝しています。どうもありがとうございました。
*2020年度JOA特別コロキウム情報提供者の一人としての参加報告として:企画者よりの依頼