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「2020年度 JOA 特別コロキウム」開催報告

2021 年 3 月 28 日 Comments off

舛本直文(JOA副会長、東京都立大学/武蔵野大学客員教授/自称:オリンピズムの伝道師)

2020年度のJOA特別コロキウムを開催しました。コロナ禍で延期された「東京2020大会」を機に、オリンピックの抱えている問題を見つめ直して新しいオリンピックの形を模索しようという試みでした。以下、開催企画趣旨およびイントロダクションなどを報告します。コロキウム全体の様子および、演者を代表した報告例は、別稿を参照ください。

 

開催趣旨

COVID-19のパンデミックにより、オリンピック史上で初めて「東京2020大会」の1年延期という事態を受け、2021年の「東京2020大会」の開催自体の可能性やその開催可能な形態に関して、様々な意見が披瀝されています。今年の10月には開催可否の一応の方向性が示され、来春には最終決定が下される見込みです。

ご存じのように、オリンピック大会自体はその120年を超す歴史の中で、「オリンピズム」という理想に支えられ、IOCによる様々な改革を経ながら、今日の形を築きあげてきました。しかし、そこにはオリンピックの政治利用や行きすぎた商業主義などの問題を抱えてきていることも周知の通りです。しかしながら、今回の「東京2020大会」の延期に伴う議論の多くは、COVID-19のパンデミックによる大会中止論や分散開催案・規模縮小案、あるいはこれまでの準備への投資額や延期による財政負担などの問題など、限定的で対症療法的な議論しか展開されていないように思われます。そのため、オリンピックそのものの存在意義や今後の在り方などに関する本質的な議論はあまり開陳されていないように思われます。

そこでJOAコロキウム委員会では、この度のオリンピック大会の延期という歴史的事態に際し、オリンピックの今後の在り方を再考する好機と捉え、自由闊達に意見交換することによって来年開催予定の東京2020大会を含め、今後の新しいオリンピックの形について話し合うために、以下のように特別コロキウムを開催することにしました。

 

テーマ:「東京2020大会の延期とPost COVID-19のオリンピックの新しい形」

日 時:2020年10月31日(土)13:00-16:00

場 所:オンライン(Zoom)

参加人数:24名(途中退場者含む)

スケジュール
●13:00-挨拶および企画主旨説明:舛本 直文(10分) 

●13:10-14:50  進行:舛本 直文

1)高嶌 遥さん(JOA会員・元アイスホッケー日本代表)「IOA青年セッションへの参加による学び」Q&A

2)佐藤 次郎さん(JOA監事・JOAコロキウム委員会):「かつてない危機、乗り越えるには」

参考:笹川スポーツ財団記事:佐藤次郎:「かつてない危機、乗り切るには――世界中で「新たな形」の模索を」
https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic_legacy/27.html2020.11.06

3)宮嶋 泰子さん(JOA会員・カルティベータ代表理事):「オリンピックで目に見えないものを見る」

4)岩瀬 裕子さん(JOA会員・東京都立大学社会人類学博士研究員):「コロナ禍におけるオリパラ開催の賛否をめぐって分断される「社会」」

5)伊藤 みきさん(JOA会員・オリンピアン):「変動し続ける東京オリンピック」

・14:50-15:00(休憩)

・15:00-16:00  Q&A 及び 意見交換

・情報交換会16:10-17:30:Zoomでオンライン乾杯・懇談会

事前意見分布
参加者の皆さんには事前にGoogle Formにて「東京2020大会」の開催に関して事前の意見を調査させていただきました。10名の方から回答を頂きました。ご協力どうも有り難うございました。ご意見では、縮小や無観客などで何らかの形で来夏に開催するというご意見が大半を占めました。来年の秋以降の年内に延期というご意見もありましたが、中止というご意見はありませんでした。今回の特別コロキウムのテーマ自体に関心がある方々のご意見のため、中止ではなく新しい形を模索すべきというご意見が多かったと推察されます。

 

◎本企画のイントロダクションとして(舛本直文)
2020年10月9日、2020年ノーベル平和賞は、国連機関の世界食糧計画(WFP)が受賞。SDGsの目標2「飢餓撲滅」だけでなくSDGsの貧困、健康、教育、水、環境、平和など多くの目標に関与し、 「誰一人として取り残さない」という「平和運動」が評価された。では、IOCはこれにどう関与し、何をしているのか? IOCは、SDGs17のゴールズのうち 11 のゴールズに連携するとしているのであるが? さらに「東京2020大会」の組織委員会(TOCOG)は、このSDGsの方針にどのように関わるのか? 「サステナビリティ」とは言っているのであるが?

・COVID-19のパンデミックの世界状況:
自国中心主義、排他主義、医療・健康環境格差の顕在化、大国の工ゴ主張、ワクチンの囲い込み(国際政治化)、途上国無視等々、様々な問題が噴出している。このような中、オリンピック・パラリンピックを開催する意義は何なのか? 「人類が新型コロナに打ち勝った証し」(菅首相)、「長いトンネルの先の希望の光」(バッハIOC会長)、安全安心な環境提供・追加経費の縮小化・大会の簡素化(TOCOG)と関係者は言うが、これだけでいいのであろうか? TOCOGは1年前イベントに池江璃花子選手が登場する動画を公表した。この1年前メッセージには「+1」とあったが、この「+1」の意味こそしっかり考える必要があるように思われる。さらに、「東北の復興五輪」という名目はどこにいったのか? あたかも、コロナ禍による経済打撃からの「復興」というような感じのみが見受けられる。

・「オリンピズム」という根本思想に照らすとオリンピックの姿は
オリンピックは、世界各国の協調・世界の連帯=平和な世界の構築に寄与=「平和思想」が究極の目標である。さらに、異文化理解=スポーツと文化の調和による心身の調和のとれた若者の育成は、重要な「教育思想」である。特に、オリンピアンだけでなく、日本や世界の子ども達の異文化体験・交流と理解、グローバルマインドの醸成が重要である。

・従来のオリンピック批判論
言うまでも無いが、これまでのオリンピック批判には周知のごとく多くのものがある。例えば、過度の商業主義・テレビマネー支配、巨大化・肥大化、政治利用、テロ標的・セキュリティ対策、経済格差(用具や練習環境格差、環境負荷、人種差別(レイシズム)、男女差別・ジェンダー問題(セクシズム)、勝利至上主義・メダル至上主義、ドーピング(薬物・遺伝子)、自国文化中心主義、分断社会、ユーロセントリズム(ヨーロッパ中心主義)、南北間格差、開催都市招致問題、IOCの貴族主義・傲慢さ、オリンピックの理想主義などである。

・オリンピックの効用論
一方、効用論としては、祝祭としてのスポーツの祭典・文化の祭典、ジェンダー平等対応、環境対策、国連協調=SDGs連携、都市開発、観光開発、自国文化発信、経済効果などが上げられる。では、世界各国の協調=世界平和はどこに? 青少年の夢と希望=心身の調和=教育思想は効用論として語られないのであろうか?

・オリンピックと他の国際スポーツ競技会との違いは?(どこまでも削っていくと残されるものとは?)
「選手たちの熱い戦い」(刈屋富士雄元NHKアナウンサー談)という意見がある。それは他の国際競技会にもあるのではないか?さらに、「4年に1度の世界最高のスポーツ競技会」とすれば、W杯はどうなるのか?また、米国スポーツのトッププロの参加はない種目や競技もある。NFL、NBAのスター選手、MLBの選手(マイナー選手の出場)、NHLのプ口など、オリンピックに参加しない選手たちがいるのに世界最高の競技会なのであろうか? 
では、「多競技の総合スポーツ大会」とすれば、どうであろうか? このような競技会は、五大陸別の総合競鉄会(アジア大会、パンナムなど)、ワールドマスターズ、ワールドゲームズなども他にある。
詰まるところ、オリンピックと他のスポーツの国際競技会との大きな違いには、選手村(共同生活、友情、異文化・異習慣理解など)、文化プログラム(異文化理解、心身の調和としての教育思想)、聖火リレー(平和メッセージの普及と確認)、オリンピック休戦決議(国連と連携した世界平和希求活動)というような、平和活動と教育活動の存在こそが重要なのである。

・では、「東京2020大会」をどんな大会に?

「東京2020大会」の延期再計画案の論議は、現状お金の話題が中心である(投資に見合う見返りを、ビジネスの論理)。例えば、1.安全・安心な環境と大会運営、2.延期による追加経費の縮小化=52項目(約300 億円のみ)、3.大会の簡素化=TV契約の縛りで開・閉会式の簡素化はできず。競技数や参加人数は据え置き、withコロナの感染対策経費増(1500億円増)、ICT活用(デジタル化)、聖火リレー計画も据え置き。
ここには、どのような大会にするのか理念が不足している。「人類が新型コロナに打ち勝った証し」(菅首相)、「長いトンネルの先の希望の光」(バッハIOC会長)、安全安心な環境提供・追加経費の縮小化・大会の簡素化(TOCOG)といっても、その具体案は見えない。さらに、「復興五輪」という最初の標語はどこにも伺えず、コロナ禍による「経済不況からの復興」が主眼のように思われる。さらに重要なのは、「オリンピズム」=教育思想・平和思想ということが忘れ去られていることである。再計画案が練られる際にも、聖火リレー、文化プログラム、オリンピック休戦、開・閉会式の簡素化などの議論の中にも平和メッセージの発信を忘れてはならない!

・2021年「東京2020大会」の開催はWithコロナ時代のオリンピック
では、来年の計画ではどのような大会開催の方策が講じられるのであろうか? 感染対策として「3密を避ける」とすれば、観客数制限、市民の参加・交流型のプログラムは不可能になるのか? 観戦もリモート参加・鑑賞型へ変化するのであろうか? デジタル活用により新企画を講ずるのであろうか?
再計画される中にも忘れてはならない重要な課題は、以下のようなことが上げられる。1.オリンピアンや参加者の異文化理解のための直接的な相互交流は可能か? 2.日本の子ども達が異文化や最高の芸術に直に触れるチャンスは保証されるか? 3.地方の合宿地(ホストタウン)でのリアルな相互交流はできるのか? 4.文化プログラムでオリンピアンたちの芸術的素養は身につくのか? というようなことである。

 

◎ポストコロナ時代のオリンピック大会(舛本私案)

 ディスカッションの終わりには、ポストコロナ時代のオリンピックの新しい姿として、私案を披露させていただきました。以下概略紹介です。

1.アテネ恒久開催
これは、アテネのオリンピック聖地化ということである。アテネをトップアスリート達の夢の地とし、4年毎に選手達が再会しスポーツの祭典を挙行する。これによって、開催希望都市の招致活動をなくし、人的・金銭的経費節減に繋がる。そもそも、クーベルタンが世界各都市の持ち回りにした理由は、「オリンピズム」の五大陸への普及である。既にその使命は終了したと言えないか(2026年YOG のアフリカのダカール開催決定により)? これまで、各都市持ち回り方式による招致活動だからこそ、招致疑惑、IOC委員の投票権確保のロビー活動とプレゼント経費などの問題が発生してきた。

大会開催のための運営人員や経費は、IOCの負担(テレビマネーの投入)とし、競技運営はIFが現行通り担当する。競技会場はTOPスポンサーが維持管理し、「VISAスタジアム」のようにネーミングライツを付与してTOPの社会貢献の機会とする。その競技施設は、4年毎の大会使用以外はギリシャ市民に無料開放し、ギリシャ市民のスポーツ振興・健康増進など地域貢献に資するようにする。

文化プログラムは、オリンピズムの教育活動として重要なものと位置づけ、参加国や五大陸の持ち寄りにするなどとし、異文化理解、文化の多様性保持の機会とする。また、大会毎にテーマ設定も可能である。これにより、文化の祭典として、世界中の子ども達による文化交流や世界のトップ芸能に子ども達が触れる機会も保証し、心身の調和のとれた若者の育成という教育思想の活動の場とする。

選手村には、大学寮を活用する。先ず、IOCがアテネ市内の大学用に素晴らしい学生寮を整備する。夏季期間は学寮を退去させて選手村など、イベントに活用する。選手村の利用料は、各NOCが負担し、途上国の選手にはIOCのソリダリティ資金を活用する。これにより、大会毎に各都市で宿泊施設建設の経費削減や環境負荷を減ずることができる。

冬季大会は、IOC本部があるオリンピック・キャピトルと自称するスイスの 口ーザンヌで恒久開催する。2020ローザンヌYOGで実施済みのように、氷のスポーツは口ーザンヌ市内、雪のスポーツは山岳地域で開催。一案としてフランスのシャモ二一(第1回冬季大会開催地)でも可能である。

ユースキャンプの実施により、国際オリンピック教育を展開し、オリンピズムの教育思想を保持する。当然、国連総会と連携した「オリンピック休戦決議」の採択とアピールは継続し、オリンピズムの世界平和思想を堅持する。聖火リレーは、五大陸を回る国際聖火リレーとし、世界平和希求、オリンピズム普及の機会とする。

パラリンピックも聖地化を考慮するのも一案であるが、オリンピックとパラリンピックの同時開催を重要視するのであればアテネで開催し、共生社会を目指す方向を堅持する。

・以上のアテネ聖地化による問題解決

オリンピックの招致や開催において、各国の政府の関与をなくし政治利用を排除することができる。招致希望都市の贈収賄等の問題を排除し、さらに各国の経済効果願望を無意味にすることができる。アテネの聖地化により、トップアスリー卜たちの憧れや夢と希望の存在に変えることができる。新規会場建設や仮設設備などが不要となり、施設建設による環境負荷を軽減することができる。教育プログラムは保持し、国際理解教育・異文化理解・友情による国際平和希求運動につなげることができる。各都市による面白主義(エンターテイメント性)やサプライズプログラムによるTV視聴率を競わなくて済むようにできる。自国文化中心主義を排し、世界協調主義に基づく匡際平和希求運動の原点に回帰することができる。

 

2.右肩上がりの成長願望の放棄

「オリンピックのモットー」=「より速く・より高く・ より強くCitius·Altius·FortiusJ には右肩上がりの成長の思想があるが、それが経済発展の論理に使われかねない。記録更新・向上、経済効果・効率、参加者数更新など右肩上がりの結果追求の経済論理をオリンピックの場で捨てることが重要である。

このオリンピック・モットーに「より美しく・より人間らしくPulchrius、HumaniusJを加える必要があると主張したのがハンス・レンク(ボートのエイトの金メダリストで世界哲学会の会長も務めた)である。この新しい要素には、人権感覚も含まれ、国連のSDGsのゴールズの多くも含まれることになる。さらに、このモットーも、他人比較や前回比較ではなく、自己比較と自己成長の指標とすべきである。それによって、多様性の尊重と共生社会や普遍的価値に基づいたオリンピアンやオリンピック大会の姿へとシフトし、多様性の中にも調和を求める共生社会を目指していく必要がある。

 

3.YOG(ユースオリンピック大会)の充実

周知のようにYOGは、2010年から始まったオリンピックの原点回帰運動である。また、オリンピックのように大都市開催でなく、小規模都市の持ち回り開催が可能である。YOGでは、この持ち回り方式を維持し、世界にオリンピズムを普及していく機会として引き続き活用する。またYOGの国別メダル競争の排除や旧CEPなどのオリンピズム教育、異文化交流プログラムを重視して、オリンピズムの「教育思想」と「平和思想」を堅持する。

以上

2020年JOA特別コロキウム参加報告(岩瀬裕子JOA会員)

2021 年 3 月 28 日 Comments off

題目:「コロナ禍におけるオリパラ開催の賛否をめぐって分断される『社会』」を発表して*
報告者:岩瀬裕子(東京都立大学人文科学研究科・博士研究員.社会人類学)

 

 本発表では、報告者が、現在の東京オリパラを控えたこの状況をどう見ているかという現状認識を共有したのち、東京大会をどう考えているかを報告した。加えて、そもそもオリパラ開催の賛否を巡る議論とは、どのようにあることが望ましいかについて発表した。

 報告者が示した主な現状認識は以下の3つである。
   ①非対称性(格差)の拡大
   ②唯一の被爆国であるという国際的な責任の欠落
   ③脆弱な人間関係と中間集団の欠落 (小さな社会と大きな社会を結ぶモノ)

 とりわけ、三つめの認識は、国内における自殺に関わる問題とその低年齢化、加えて国内の7人に1人とされる子どもの貧困(相対的貧困)問題に通じる議論である。

 こうした報告者の問題意識や現状認識の上で「東京大会をどうするか」と考えた場合、フランスで再びロックダウンが始まり、ヨーロッパの他の国々でも新型コロナの感染判明者が増加する中、現実的に、観客をフルに入れて開催することは困難であろうと考える。ただ、大会を中止しさえすれば良いかと問われれば、報告時(2020年10月31日)現在の考えでは中止すべきではない、中止したら、オリパラが抱える諸問題を棚上げにしたまま、この東京、日本を通り過ぎるだけになると考えるからである。たとえ、競技を行わないにしても、何かしらの形で、現在の日本や世界の国々が抱えている社会問題や今後のオリンピック・パラリンピックのありようを議論する場を東京が主導して設定し、それを世界に向けて発信することが重要であると発表した(2020年12月9日の拙稿整理時の思いでは、通常通り、開催されれば開催されたで、本発表で主張する議論さえなされないまま、競技大会だけが開催され、それを消費するだけになるのではないかという危惧もある)。

 核兵器禁止条約が来年1月に発効することが決まったことを受け、日本でも日本政府に対して、その条約への署名・批准を求めて署名活動が新たに始まる。一例ではあるけれども、例えば、オリンピックに賛成を唱えるならば、その議論や活動(署名賛成だけでなく反対の立場も含む)にも参加して、たとえ、オリンピックのお題目に過ぎないと批判される国際平和に対してアクションを起こすことが東京大会「賛成派」に課せられていることではないだろうか。オリパラの議論、とりわけ、「賛成派」の議論は、スポーツ内にその議論がとどまっているという批判もあり、「反対派」のような社会とつながる回路が乏しいように思う。では、報告者が「反対派」を全面的に擁護しているのかと問われれば、そうとも限らない。なぜなら、「反対派」の議論は、「賛成派」に対して、オリパラに関する諸問題を何も知らない「無知な人たち」という一括りのレッテル貼りをしている側面があると考えるからである。報告者は、オリパラ開催の議論をめぐりもたらされる分断線は、「賛成派」と「反対派」のあいだにあるとは考えていない。むしろ、その両者は思うほど遠くないように思う。なぜなら、こうした議論ができるのは両者とも少なくとも「恵まれた環境」あってのことだからである。情報格差の言葉があるように、そもそもこうした議論にアクセスできない人や無関心を含めて「スポーツ」の枠の「向こう側」に多くの人が存在すると考えるからである。「恵まれた環境」というのは、なにも金銭的なことだけを指すのではない。今日、議論されているようなオリパラに関わる知識を得られる環境やチャンスに開かれているという意味での恵み、ありがたさも指す。私たちはもっとこの「向こう側」に向けて議論を開いていくべきではないだろうか。「向こう側」に届く言葉で語れているであろうか。

 「反対派」が匂わす、「賛成派」やオリパラ開催に踊らされる大衆=「無知」という構図は、自分すらも、もしかしたら、「反対派」が批判する「賛成派」や「向こう側」だったかもしれないという想像力を欠いている。もちろん、「反対派」が主張するように、オリパラが排除する人々の存在は、到底、無視できるものではない。そこに異論はない。その一方で、自らの生活は安泰のままで言説だけの「反対派」を繰り広げる人たちには、どうしても「生活の視点」が欠けているのではないかと考えるのは私だけであろうか。
 ある学会でのオリンピック批判に関するシンポジウムの質疑応答で、報告者が次のような質問を投げかけた時のことである。会場が静まり返っただけでなく、登壇されていた著名な先生方も返答に窮していた。

 「私は、きょう、議論されてきたオリンピックの弊害に関して、全面的に賛成です。ただ一方で、限界過疎地域に指定された町に暮らす私の父-80を前にしていますけれども-孫と一緒にオリンピックの開会式に行きたいと言い出し、なかなか止められなかったたばこまで止め、そこ(オリンピック)までは何としても自分の足で立っていたいと、生きがいのように言い出したからです。そうした父の姿を、先生方は、無知として片付けてしまうのでしょうか」。

 報告者が、賛成・反対、どっちつかずの立場で煮え切らないところがあるのは、東京大会を楽しみに待つ、言説上の「無知」に位置付けられる<わたし>の父の姿と、オリパラの諸問題への批判との折り合いが自分の中で依然としてつかないからである。

 本発表の当日、スポーツ史のある大先輩が、こうした煮え切られない態度をみせる報告者に宛てて、わざわざしたためてくださったお便りを匿名で披露した。その手紙の中で、先生は、終始、オリンピック反対を訴えていた。とりわけ、オリンピックと平和を安易に結びつけて語ることへの強い違和感が述べられており、そういった語りを「欺瞞」という言葉で表現されていた。先生は、平和だからスポーツができるという点にご自身の終戦後の経験から十分な理解を示していた。しかし、その反対の影響、つまりは、(近代)オリンピックが戦争を止めたという歴史的事実はないと強調されていた。

 いまの私がこの先生に返せるとしたら、「平和」とは、なにも大きな戦争がない生活だけではなく、日々、自分が大切だと思えることや人を必死に守っていく、それを積み重ねていく、意見の異なる人との対話を根気強くしていく、そして、内輪の議論を外に広げていくための言葉と行動を手に入れ、自ら働きかける、そんな「日々の平和運動」ではないかと。
 文化・社会人類学が着目してきたのは、レヴィ=ストロースが「民衆のやりかた」と評したように、そして本年9月に急死したデヴィッド・グレーバーが「〈あいだ〉に民主主義が生まれる」と主張したように、賛成・反対の分断や対立を超えて、その時々で望ましいと思われる距離感や組み合わせを粘り強く模索していく態度ではないだろうか。

 発表を終えた報告者は、依然として、オリパラ開催の議論を前にして宙ぶらりんでいる。復興五輪の文字が消え、世界的なコロナ禍において抽象的な「生命第一」が叫ばれる中、報告者ができるのは、賛成・反対といった安易な「こたえ」に飛びつかず、どうしたら、諸課題に対して望ましい対応や関係性を生成できるか、オリパラの議論に関与し続け、日々の生活の中でそれを実際の行動に移していけるかである。そして、一般化された「生命」を尊重するのではなく、個別・具体的な肌触りのある生命のつながりで毎日を少しでも平穏な方向へと導けるように葛藤していくことである。

 特別コロキウムの最後に、報告者より若い世代の出席者数名に思い切って次のような趣旨のことを投げかけてみた。

 「きょうは、私以外にも、皆さんより上の世代の人が参加していますが、皆さんそれぞれの中に、こんな形でオリパラを渡してくれるなよ!こんな形で社会を渡してくれるなよ!といった思いはないですか。わたしを含めた上の世代に思うところはないですか。あってしかるべきだと思うけど・・・」

 我ながら、先輩方を前にして失礼な問いかけであった。しかし、黙っておけなかった。そんな不器用極まりないわたしにつられたのか、黙っておけなかった若手2人が咄嗟に応答してくれた。感謝に尽きる。

 オンラインとは言え、時に本音を携えて交わす、こうしたやりとりこそが、報告者が根気強く続けたいと訴えた個別・具体的な肌触りのある日々の平和運動、交流である。

 今回、まだまだ勉強の立場にある報告者に、拙い発表の機会を与えてくださったことに心から感謝しています。どうもありがとうございました。

*2020年度JOA特別コロキウム情報提供者の一人としての参加報告として:企画者よりの依頼