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第1回ユースオリンピック競技大会(2010/シンガポール)を振り返る

2011 年 4 月 12 日 Comments off


五十嵐涼亮選手(日本代表選手団 主将)

聞き手:山本尚子(Olympic Review Online編集委員)

第1回ユースオリンピック競技大会(以下シンガポールユースオリンピック大会)の日本代表選手団主将を務めた柔道男子の五十嵐涼亮選手(私立国士舘高校2年・17歳)に、大会の印象、主将としての重圧、今後に向けての抱負等についてお話を伺いました。

 ビルディングアップ・チームジャパン

五十嵐さんが日本代表選手団の主将だよと聞かされたのはいつごろでしたか。

五十嵐涼亮選手 大会の1カ月ぐらい前でした。ある大会で優勝してシンガポールユースオリンピック大会への出場が決まって、少しして「主将に選ばれたぞ」と言われました。

 

表彰台の五十嵐選手

 

でもそのときはとくに、主将だからというプレッシャーはありませんでした。大会に向けては、主将だからというより、国際大会は日本人相手とはまた戦い方が変わってくるので、そのために徹底して組み手の練習をしました。

結団式での挨拶はうまくいきましたか。

五十嵐選手 あまり得意ではないのですが、緊張しながらもなんとかやりました。

そのあとに行われた、オリンピックについて学びながらチームジャパンとしてのチームワークを高める「ビルディングアップ・チームジャパン」はいかがでしたか。

五十嵐選手 環境についてなどのお話があったやつですよね。すごい難しかったです。

財団法人日本オリンピック委員会の竹田恆和会長が話された、オリンピズムやオリンピックの歴史についてはどうでしたか。

五十嵐選手 初めて聞く話ばかりだったので難しかったです。でも参考になりました。

いちばん印象に残っているお話は?

五十嵐選手 ドーピングについてですね。気をつけなければいけない食べ物や、ケガやカゼのときの薬でもひっかかる場合があるということなどです。

 ルームメイトと協力し合う

シンガポールでの大会期間中、文化教育プログラム(CEP)が数多く実施されていましたが、参加されましたか。

五十嵐選手 自分は試合日程が最後のほうだったので、毎日調整があって、それには参加できませんでした。競技が早めに終わった選手は、いろいろ参加して、バッグや時計などをもらっていましたね。ただ自分も、ちょこちょこと各国の展示ブースは回りました。それぞれの国の個性が出ていておもしろかったです。

他の競技の皆さんとコミュニケーションを深める機会は多くありましたか。

五十嵐選手 それは多かったですね。いろいろしゃべったり、トランプをしたりとか。

高校生同士で共感し合える部分は多くありましたか。

五十嵐選手 いっぱいありました。部活動をやりながらの学校生活とか、どんな練習をやっているのとか。競技は違っていても参考になることがありました。

部屋は何人部屋だったのですか。

五十嵐選手 全部、2人部屋でした。柔道は自分と女子の田代未来選手の2人だけだったので、同室になったのはトランポリンの棟朝銀河選手でした。かなり仲良くなりました。

今回は、監督やコーチの人数がほかの大会と比べて少数だったため、競技の壁を超えた協力がいろいろと見られたと伺いましたが、それは感じましたか。

五十嵐選手 はい、とても。たとえばトランポリンと柔道はほとんど練習の時間帯がずれていたので、自分が試合に行って洗濯物がたまっていたときは、棟朝選手が洗濯をしてくれていたり、その逆もありました。そういう協力は、あちこちであったと思います。

もっと戦いたかった団体戦

五十嵐さんが出場した男子100㎏級は大会10日目。苦しい試合はありましたか。

五十嵐選手 決勝戦ですね。初戦はベネズエラのピネラ選手に一本勝ち。準決勝ではキューバのガルシア選手に一本勝ちでした。でも決勝ではベルギーのニキフォロフ選手に、一本を取れず、優勢勝ちとなりました。相手にペースを握らせないよう序盤からずっと攻めていましたが、一本が取れないと技をかけ続けなければいけないので大変でした。

それは相手の選手が、守りがうまかったということですか。

五十嵐選手 というより、自分が得意な内股という技ばかりかけ続けたからですね。優勝しなきゃ、優勝しなきゃと気持ちが焦ってしまって。「オリンピックではアテネ大会と北京大会と、選手団の主将になった選手が続けて優勝を逃していたので、今回こそは金メダルを」と監督に言われていて、全力を尽くして頑張るしかないと思っていました。

試合後、監督からは?

五十嵐選手 「おめでとう」と。あとは「同じ技をかけ続けたら相手も返し技などをねらってくる。同じ技は3度までにする。それから技のバリエーションを増やしなさい」と。

それがこれからの課題ですね。団体戦はそのあとだったのですか。

五十嵐選手 2日後でした。男女4人ずつ計8人ずつの12チームに分かれての試合でした。チーム名は、自分はエッセン、田代選手は千葉チームでした。(注:柔道の世界選手権が行われた都市名がチーム名になっており、ほかにミュンヘン、カイロ、バーミンガム、ハミルトン、パリ、東京、ニューヨーク、バルセロナ、大阪、ベオグラードがあった)
自分たちのチームは2回戦からで、田代選手のチームと当たって負けてしまいました。田代選手のチームは優勝しました。

五十嵐選手はどうだったのですか。

五十嵐選手 個人戦の準決勝で勝った相手に反則負けでした。自分は8人目で、もうその前に2-5ぐらいで負けは決まっていたのですが、でも悔しくて、それは反省点です。

団体戦の雰囲気はどうでしたか。何がなんでも勝つんだみたいな感じでしたか。

五十嵐選手 いや、和気あいあいとしていてみんな笑顔でした。ただ他のチームを見たら、勝ちながら一丸となっていくのがわかり、自分たちももっと試合をしたかったです。

なるほど。コミュニケーションは英語でとったのですか。

五十嵐選手 いや、英語は苦手なので、ジェスチャーで。けっこう通じましたけど、もっと外国の人と話したいという気持ちはあるので、英語の勉強はしなければと思いました。

オリンピックに向け一戦一戦全力を尽くす

個人戦で優勝した日、選手村に戻ってどうでしたか。

五十嵐選手 選手村には毎日、結果が紙に貼り出されて、帰ったとき、みんなに「主将おめでとう!」と出迎えられました。それは別に金メダルだったからというわけではなくて、何色のメダルでもそうでした。メダルを取れなくても、みんなが「お疲れ様」と言ってくれて、「こういうふうにほかの競技の人たちとかかわれるっていいなあ」と感じました。

第1回のユースオリンピックで、初代主将として金メダルというのは素晴らしい巡り合わせですね。

五十嵐選手 たまたまです。

それでは、これからの目標を教えてください。

五十嵐選手 国際大会に限らず、国内の小さな大会から大きな大会まで、一戦一戦、全力を尽くして、相手が強くても優勝できるように頑張っていきたいです。

その先にはオリンピックがありますか。

五十嵐選手 はい。幼稚園のときから柔道を始めて、小学生のころからオリンピックを見ていて、ずっとあこがれです。ロンドンはまだ厳しいかもしれませんが、リオデジャネイロ大会には絶対に出たいと思っています。

最後に、今回のユースオリンピックは日本ではテレビ放映されませんでした。竹田会長は、それをとても残念がって「日本の選手の活躍をもっと下の年代の子ども達に見てもらいたかった」とおっしゃっていましたが、それについては?

五十嵐選手 自分たちに近い年の人でも、ユースオリンピックであれば頑張れば出られるわけじゃないですか。テレビで見たことをきっかけに、「自分も頑張ってあのユースオリンピックに出られるようになろう」という子どもたちが増えてくれれば、日本のスポーツももっともっと発展していくと思います。

素晴らしいですね。では、今後ますますのご活躍を期待しています。

第1回ユースオリンピック競技大会(2010/シンガポール)を振り返る

2010 年 10 月 17 日 Comments off


竹田恆和(財団法人 日本オリンピック委員会 会長)

聞き手:山本尚子(Olympic Review Online編集委員)

第1回ユースオリンピック競技大会(以下シンガポールユースオリンピック大会)の日本選手団団長を務められた財団法人日本オリンピック委員会竹田恆和会長に、全体の印象、文化教育プログラムなどの新たな試み、日本代表選手団の様子、今後などについてお話を伺いました。

新たな試みがいろいろと

これまでのオリンピック大会と比較して、強く印象に残ったのはどんなことだったでしょうか。

竹田会長
最近の傾向として、オリンピックは肥大化、ビジネス化、勝利史至上主義といった課題を抱えています。それらの問題に対し、このシンガポールユースオリンピック大会は、ジャック・ロゲIOC会長が「オリンピックの原点に戻り、その理念を今一度掘り起こそう」と、正面から取り組んだ大会と言えるでしょう。
その一環として、新しい仕組みがいろいろ見られました。男女混合種目や大陸別でチームが組まれた競技があります。例えばフェンシングでは、米国とキューバがチームを組み戦いました。これはスポーツが政治を乗り越えたいい例ですね。バスケットボールでは3人ずつでプレーする3on3が採用され、非常に人気を集め、今後、オリンピック競技大会でも取り入れてはという声も挙がりました。
もう一つ、通常の大会では競技スケジュールに合わせて選手村に入村・離村しますが、今回はIOCより、大会期間中の2週間滞在するようにという参加条件が課されていました。

日本選手が積極的に参加した文化教育プログラム

理由の一つは、スポーツに教育や文化交流を融合させた文化教育プログラム(CEP)があったことでしょうか。

竹田会長
そうですね。私もいろいろ見てきました。日本選手は言葉の問題が心配でしたが、みな非常に意欲的に取り組んでいました。全部に参加するとスウォッチ製の腕時計をもらえたそうで、選手71人のうち、競技が後半にあった選手を除く約40人は全プログラムを実施したと聞いています。

CEPは五つのテーマに沿って、7種のフォーマット、50の活動があったということですが、全プログラム実施とはすごいですね。

竹田会長
どこまで理解できたかはわかりませんが、努力して、世界の選手の輪の中にとけこんでいったことで、いい経験を積めたと思います。

語学に関しては、通訳ボランティアがつくということでしたが……?

竹田会長
数人はついていました。また例え通じなくても積極的に身ぶり手ぶりで伝えようとする選手もいたようですし、他国・地域の選手が全員英語が堪能なわけでもありませんから、お互いにボディランゲージを駆使して楽しくプログラムをこなしていたようです。競技後も選手同士でふれあい友情を深め合う、そんな2週間になったようです。今回の体験で、世界に通用する選手になるためには、強いだけでなくコミュニケーションが大事で、もっと英語の力をつけたいと悟った選手も大勢いるようです。

すばらしい気づきですね。どんなプログラムが人気を集めていましたか。

竹田会長
村内では、ブブカやイシンバエワなど金メダリストと直接話すプログラムですね。村外では、小さな島で1日活動するアドベンチャー・プログラムがありました。いかだをつくり、島へ渡って、いろいろ探検したようで、「こわさもあったけど、充実していた」という感想を聞きました。そのほか、参加した205の国と地域のブースがありました。そこに行けば、世界中の文化のエッセンスを一度に吸収できるわけです。それは一校一国運動のようなもので、地元の学校がそれぞれ担当を決めてやっていたようです。

チームジャパンとして一体になれた

バンクーバー冬季オリンピック大会のときに好評だった合同事前合宿「ビルディングアップ・チームジャパン」を、今回も行ったそうですね。

竹田会長
はい、出発前日の結団式後に実施しました。そこで、「オリンピックとは」「オリンピズムとは」「オリンピックの歴史」「フェアプレー」「アンチドーピング」「JOCの歴史」などのレクチャーをしました。

選手たちにとっては、予備知識を持つ機会をもらって、心強く感じられたことでしょうね。
では、チームの成績としてはいかがでしたか。

竹田会長
今回は、具体的な目標メダル数は示さず、選手たちには「持てる力を十二分に発揮してチャレンジしなさい」と伝えていました。その中で、選手たちはよくがんばってくれたと思います。大会第1号の金メダルはトライアスロンの佐藤優香選手で、本人もとても感激をしていました。メダルは金9個、銀5個、銅が3個で計17個でした。メダルを逃したもののそれに準じた成績の選手もたくさんいました。国際経験の浅い選手も多かった中で、みな堂々と、チーム一丸となって全力を尽くしてくれたと思います。
この大会はまた、役員の数が限られていました。14歳から18歳というデリケートな年代の選手たちに何かあってはいけないですし、競技によっては何種目もあるのにコーチ1名というチームもありました。監督・コーチの方々にはご苦労があったと思いますが、競技の壁を越えて、互いにほかの競技を手伝い、競技間連携でよく乗り越えてくれました。
具体的には、競技の終わったコーチが違うチームのサポートしたり、ミーティングを開く際には本部役員が何も言わなくても、準備・片付けをしてくれたり。あとはだれか騒いでいる選手がいると、自分の競技の選手ではないのに注意をしてくれていました。これまでの大会ではあまり見られなかった光景です。

それは、「ビルディングアップ」の効果が出たということでしょうか。

竹田会長
そうでしょうね。行く前から、懇意になれていた部分が大きかったと思います。印象的だったのは、メダルを獲得した選手の「出迎え」です。ドーピング検査があるので、選手村に戻ってくるのは、夜の10時、11時になってしまうのですが、帰村を聞きつけて、みんな降りてきて、並んで祝福していました。福井烈総監督を中心に、本当によくまとまっていました。

会長は、選手団の団長として選手村に滞在されたのですか。

竹田会長
私はIOCの会議や他NOCとのミーティングなどがあり、滞在はできませんでしたが、何度も足を運びました。それから、団長賞の授与もしました。金メダルを獲得した選手にいつもは最後にまとめて贈るのですが、今回は全部、会場で応援をして、その場で手渡すことができました。選手や指導者の方たちは、喜んでくれていたようです。

次代に伝えていくことが使命

では今後に向けて、何か課題や反省はありますか。

竹田会長
今回、日本ではテレビ放映がありませんでした。しかし世界のメディアは、166カ国でテレビ放映権を購入し、広く伝えていたそうです。ユースオリンピック大会で14歳から18歳の選手たちが活躍するのを見れば、子ども達はすごく興味を持つでしょう。「自分たちも数年後、こんな大きな舞台で活躍できるかもしれない。そしてその先にはオリンピックがあるんだ」と励みにもなる。今回も我々としてはメディアの方たちに理解を得るべく努力はしたのですが、次回は是非テレビ放映を実現させたいと思っています。

最後に、この大会は2012年のロンドンオリンピック、16年のリオデジャネイロオリンピックにつながる、あるいは影響を与えるものになりそうでしょうか。

竹田会長
チームジャパンが結束して一つになり、協力し合ったこの2週間は、今回参加した日本代表選手団にとって非常に貴重なものとなったはずです。そして、この大会でいろいろ経験したことを、選手は自分の仲間や後輩へ、役員・監督・コーチの方は他の指導者たちに伝えていくことが、非常に重要であると考えています。皆さんには解団の際にもお話ししたのですが、そうすることでこの大会の趣旨が広まり、オリンピックというものの価値の見直しにもつながると思います。それは、今回出場した選手団全員の使命ですね。

そのことが、子どもたちがスポーツの楽しさを知るきっかけにもなりますね。どうもありがとうございました。

ユースオリンピック

2010 年 10 月 17 日 Comments off


執筆:結城和香子(読売新聞社 運動部次長)

◇疑問

IOCが創始したユース五輪を取材するにあたり、疑問に感じていた部分がひとつある。

五輪やスポーツの純粋なすばらしさを、勝利至上主義を離れて若者に体験してもらおう–。ユース五輪はある意味で、今日の五輪の弊害へのアンチテーゼのような狙いを持っている。けれど現実には、勝ち負けを超えたスポーツの教育的価値の再発見と、大会存続のためにプレステージや社会の関心度を保つことは、容易に両立するとは思えない。

そもそも五輪は、アマチュアリズムなど理念を前面に奉じようとした時代を経て、サマランチ前会長が五輪運動存続のために商業主義を導入、プロを含む世界のトップ選手に門戸を開いて、世界最高のプレステージを持つ、しかし勝利至上主義やその弊害がついて回る、巨大イベントに成長した経緯を持つ。

ユース五輪の理念はすばらしい。でもそれだけでは、コストを支えるスポンサーやメディア、そして一般社会の高い関心は呼びにくい。存続には、どこかで理想と現実のバランスを取る必要がある。独自の道があり得るのか?

◇象徴

プルメリアが咲くシンガポールでの第1回大会。約250億円と国家の面子をかけただけあって、組織運営はしっかりしたものだった–選手村行きのバスが故障し、代替バスは道に迷い、結局2時間かかったことなどを除けば、だが。

ユース五輪のユニークさが浮き彫りになった、象徴的なシーンがいくつかあった。

シンガポールの摩天楼を借景に、これでもかという花火が打ち上がった開会式。異色だったのが、「SOS」の手旗信号の群舞だ。背後のスクリーンに環境破壊や戦争の悲惨さが、殺し合いや死者まで描くリアルな絵で展開する。未来のために若者が立ち上がり、地球を取り巻いて行く。明日を託す強いメッセージが、打ち出されていた。

ロゲIOC会長が、開会式のスピーチでこう呼びかけた。「最初にゴールラインを越えさえすれば、勝者にはなれる。しかしチャンピオンになるには、周囲の尊敬を得なければならない」。人間性を育み、人生の真のチャンピオンを目指して欲しい。ユース五輪創始への思いが、ひとことに凝縮されていた。

ユース五輪の特徴だった教育プログラムの目玉、「チャンピオンとの語らい」。選手村で行われた初回、セルゲイ・ブブカとエレーナ・イシンバエワには、ホール一杯に350人以上の選手が詰めかけた。多くの質問が、「(競技人生で)一番落胆したことは」など、トップを目指していくための心構えや体験を聞くもの。ブブカは「故障から復帰後、好成績が望めない大会に、自分に勇気がないと思いたくなかったから挑んだ。結果は悪く、誰にも評価されなかったが、大きな壁を乗り越えた思いだった」などと真剣に語りかけた。ブブカは後日のインタビューで記者に、「大事なのは、若い選手に、僕らも同じ人間なんだと、壁や失意を乗り越え、努力を続けたんだと実感してもらうこと。話を聞いた選手の一人が、悩みがあったが、その後ぐっすり眠れるようになったと言っていたという。何かを見つけたんだと思う」と述懐した。

◇現実

一方で、取材をするうちに多くの課題も見えた。ジュニアレベルとは言え真剣に勝利を追求する選手たちの中には、教育・文化プログラムを重荷に感じる者もいること。積極的に参加した選手でさえも、英語という言葉の壁があるために、セッションの真の狙いが伝わらずに終わっていること。郊外の島でイカダを作るなど共同作業に臨む冒険授業は、まるでサマーキャンプ。共通する印象は、「他国の若者と交流して楽しかった」だ。

『50』もある教育・文化プログラムは主題として、五輪理念や歴史を知り、心身の健康の意味を学び、競技者としてのキャリアを考え、社会的責任や義務を知る、などを挙げている。

選手はロールモデルとして、自分の周りの社会問題などにも目を向けて発言をする意識も必要–という狙いで、環境問題を取り上げたセッションをのぞいてみた。結局言葉の問題もあり、環境問題の議論も、ロールモデルについての話も、ゲストとして来たパラリンピックのマルチメダリストの体験談も生かさず、参加した選手は「え、そういうテーマだったんですか」。終了後若い赤十字のインストラクターと話をしたが、「教えるのではなく、楽しみながら自発的参加を促す」手法を取っているため、うまく流れを作れず難しい面もあると明かしていた。

◇IOC

IOCの自己評価は–。会長就任前からビジョンを持ち、ユース五輪創始を推進したロゲIOC会長は、言葉の壁などの課題は認識しながらも、これほどの成功は予想しなかったと強調する。他のIOC委員は、教育プログラムを重荷に感じる選手がいることを認め、改善も必要なことを認める。ただ、理念や目的はすばらしいので、長い目で真の成果を見極める必要がある、と語る。

スポーツを通じた人間教育の場を、という信条に加えて、ロゲ会長が「(創始の)機は熟した」と言う背景には、社会の変化がある。ゲームや携帯など娯楽が多様化し、若者のスポーツ離れが進んでいる現実だ。ただ単にスポーツ人口が減るだけの問題ではない。スポーツのすばらしさを実体験する人間が減り、ひいてはスポーツへの関心度や、五輪の社会的価値にまで影響は及びかねない。

昨年の五輪コングレスが、社会におけるスポーツの価値を主題に取り上げたように、変化する社会の中で、人や社会をより良くできる触媒としての、スポーツの良さや価値を再認識しようという動きが強まっている。ユース五輪はその一環だ。人間性などを育む教育効果という側面に、注目を集めたこと自体が、一つの成果だったとは言える。

◇結論?

商業論理の数字に変換しにくい「教育効果」に対し、どうやってスポンサー企業や、それらが判断基準に使う社会の関心を集めるのか。

可能性のひとつは、五輪やスポーツの力が、私たちの社会や人生を良くするために不可欠だという共通認識を広めること。現代社会で、誰も教育自体の価値を問わないように、スポーツが社会にとって動かぬ価値を持つと見られれば、それに対する支援も容易になる。五輪開催国で、五輪のもたらす社会への付加価値を実感し、社会や企業の関心度が増すように。
もう一つは、政府や国際機関の一層の協力を得ること。国威への意識や、五輪招致の布石も良いが、ユース五輪の価値自体がそれを促すようになれば理想的だ。各国で五輪・スポーツ教育、トップ選手と社会の交流などを広めることが、一つの契機になるように思う。

「まともな五輪を開くまでには数大会を要した。ユース五輪も成長し、永く続くだろう」とロゲ会長。理想というものは、信じる人がいなければ価値を持たない。その意味で、ユース五輪とスポーツの持つ力を信じてみることも、何かを生む第一歩かも知れない。

ユース五輪を視察して

2010 年 10 月 17 日 Comments off


執筆:阿部生雄(筑波大学理事・附属学校教育局教育長)

1.はじめに:筑波大学とオリンピック教育

8月13日から18日にかけて、シンガポールで開催された第1回ユース・オリンピック・ゲームズ(Youth Olympic Games、以後ユース五輪)を視察した。嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センターの企画による視察旅行に参加し、交流センターや日本オリンピック・アカデミー(JOA)の方々と楽しい、有意義な視察を行うことができた。
筑波大学の附属学校教育局教育長という立場で、シンガポールで開催された初めてのユース五輪を視察した理由は、平成21年の筑波大学の第二期中期目標・中期計画に係る大学全体の年次別実行計画の中で、オリンピック教育の実施を検討することを掲げたからであった。そこでは、附属学校教育局は、平成22年度と23年度に「大学と連携し、・・・国際平和教育としてのオリンピック教育の実施を検討」するとし、重点施策として「大学と連携し、附属学校の児童生徒を対象とする国際平和教育としてのオリンピック教育の実施を検討する」ことを掲げているからである。

第二期中期目標・中期計画と関連付けてオリンピック教育を掲げた理由を、思いつくままに列挙すれば次のような諸点を挙げることができよう。

①国際的な大学と附属学校をつくる上で国際平和に対する理解を深めておく必要があること
②筑波大学には教育、体育、スポーツの分野での伝統と学問的、教育的蓄積があること
③本学の前身校である高等師範学校の嘉納治五郎校長は、アジア最初のIOC委員として近代オリンピックの発展とオリンピズムの普及に積極的に取り組だこと
④クーベルタン男爵との強い絆を持っていた嘉納先生から、日本で最初のオリンピック教育を学んだという伝統を持っていること
⑤日本の最初のオリンピアンの一人であるマラソンの金栗四三、大日本体育協会の創設に深く関与した十種競技の野口源三郎をはじめ、その後も数多くのオリンピアンを輩出してきたこと
⑥筑波大学には小・中・高を網羅する普通附属学校6校、様々な障害に対応する附属特別支援学校5校があり、パラリンピックなどを含むオリンピック教育の先導的試みを発信できること
⑦筑波大学は総合大学であり、体育、芸術、教育、医学、国際、人文、社会等と協働して、単に競技力向上だけでなく、国際平和教育の観点からオリンピズムとオリンピック・ムーヴメントを推進し、支援してゆく体制を整えることができること
⑧将来的には生物、理工、情報等の関係する多様な科学オリンピックとも協調してゆくことも可能であること
⑨本学は、JOCやJOA のみならずIOCとの協力関係を保っており、すでに、大学で「オリンピック」という授業を一般教育として行っていて高い評価を得ていること

等である。

2.イラン選手の対戦・メダル受賞拒否について

ここでは筑波大学の企画している「オリンピック教育」や今回の「ユース五輪」視察に関して詳述することが目的ではない。「オリンピック教育」については稿を改めなければならないし、ユース五輪の視察については他の参加者が詳細に論じてくれると思うからである。ここでは「ユース五輪」を視察して最も印象に残った点について述べることにとどめたい。

8月13日に成田空港を発ち、8月14日夕方の開会式視察、8月15日バスケット3on3観戦、8月16日水泳競技観戦、シンガポール・スポーツ・スクール見学、ビレッジ広場と南洋履行大学でCEP(文化・教育プログラム)見学、メディア・センター訪問、8月17日SYOGOC(シンガポール・ユース五輪組織委員会)のブリーフィング、徳明政府中学(実際は中・高等学校)でのオリンピック教育視察、8月18日に帰国、というように個人ではとても計画できないような充実した視察であった。ここで論じようと思うのは、ユース五輪の可能性を感じさせてくれたSYOGOCのブリーフィングでの一場面についてである。

8月17日早朝、前日のテコンドーの48キログラム級決勝戦においてイランの選手が怪我を理由に試合を棄権し、表彰式も欠場して銀メダルの受賞を拒否したということが報じられた。この出来事に対して、イスラエルの選手側は、ある程度こうした事態を予測していたものの、イラン側が政治的理由によって選手を引き上げさせたと批判した。そして、イスラエル側は、イスラエルの選手が決勝戦でイランの選手と対戦できなかったことを残念に思っている、というコメントをしたのであった。

イランの選手の引き上げの政治的意味を解読するには、幾分かの両国関係の知識を要する。両国は、アラブ諸国との対抗上、軍事的に緊密な関係を保っていたが、1979年のイランでのイスラム革命後、イランはイスラム・イラン共和国へと移行し、反米とシオニズムを敵視する反イスラエル国家となり、シオニズム国家であるイスラエル以外の国々と対等・互恵の関係を築く政策に転換した。また、近年、核開発疑惑で国連安保理の制裁決議を受けたが、平和目的の核開発であるとしてその決議の受け入れを拒否している。イラン政府にとって、イスラエルはパレスチナを占領しているシオニズム国家であり、生存権すら認められるべきではないという立場をとっている。一方、アメリカのイスラエル離れの噂は、イスラエルによるイランへの単独攻撃の危険性を高めているとも言われている。

こうした両国の嫌悪な関係は、今までのオリンピック大会でも、対戦拒否となって現れていた。17日のザ・ストレート・タイムズ紙によると、2004年アテネ五輪では、柔道の予選で世界チャンピョンであったイランのアラシュ・ミレスマイリ選手が、イスラエルのエウド・ヴァクス選手との対戦を拒否した。また2008年の北京五輪の平泳ぎ予選では、イランのムハマド・アリレザイ選手は、イスラエル選手の含まれるそのレースを腹痛により拒否したという。特に2004年の柔道でのミレスマイリ選手の対戦拒否に関しては、イランのカタミ首相は、ミレスマイリ選手こそオリンピックのチャンピョンにふさわしいとし、「イラン人の栄誉の歴史に記録される」と称えたという。

こうしたオリンピックにおけるイランとイスラエルとの対戦拒否の歴史を考えると、ユース五輪のテコンドー決勝戦(48キロ級)でのイラン選手のイスラエル選手との対戦拒否は、起こるべくして起こったと言ってよいであろう。しかし、それがユース五輪でも繰り返されたことに、大きな失望を感じざるを得なかった。理想主義的に競技を行う場としてのユース五輪で、「オリンピックは勝つことにではなく参加することに意義があり」という最も初歩的な原則が通用しなかった、ということは大きな問題だと思うのである。

われわれ視察に行った者の一部は、17日の午前中にSYOGOCのブリーフィングに参加した。私はブリーフィングが始まる以前から、こうした政治的対立がユース五輪で発生した場合に、どのような対応を組織委員会、またIOCがとろうとするのかを質問しようと思っていた。

ブリーフィングを担当したディレクター、リチャード・タン氏はユース五輪の特色と招致の経緯、組織委員会の構成と機能、競技種目とその特徴、文化・教育プログラム、開催場等について1時間ほど説明してくれた。その後、質問を受け付ける時間があり、他の人からテコンドーの決勝不参加と表彰式におけるイラン選手の出席拒否に関する質問が出るのを待った。しかしこの問題に関する質問が出ないので、「政治的理由からユース五輪で今回のような決勝戦の拒否、銀メダル受賞拒否という事態が生じたが、組織委員会はどのように考えるのか、またどのように対応するのか」、という点を尋ねた。

タン氏は、特別のことは考えていない、今回の事件は、こうした問題について若者が考えてゆく一つの重要な機会を提供してくれた、と答えた。幾分か冷静な対応に安堵する一方、今後、ユース五輪で生じるかもしれない政治的紛糾の処理の体制に不安を感じざるを得なかった。そこで、組織委員会は、IOCとの協力で、今後、同様な紛擾に対応するために、若者(ユース)で構成される問題解決のための委員会を設置すべきではないのか、という趣旨の発言を行ったが、十分な共感を得られなかった。

少し理想主義的であったかもしれない、という反省もあるが、ユース五輪なのだから、若者たち自身による国際紛争や政治対立を乗り越えるための論議の場があってもよい、と本気で思っている。次代を担う若者たちが、大人たちの古びて膠着した常識を打破するような、既存の秩序や考え方にとらわれない、斬新な解決の方法を考えてゆくことこそ、ユース五輪に相応しいプログラムだと思うのである。

ピエール・ド・クーベルタン男爵は、イギリスのパブリックスクールにおける生徒の「自治的」な活動(真に大人になるための活動)を学び、世界に広めようとした。ユース五輪は、その意味で、そうしたクーベルタン男爵の近代オリンピック創始の根本的意義を再確認する最も相応しい機会であり、また場であると思う。ユース五輪を立ち上げたロゲIOC会長は、クーベルタン男爵の最も根底にあった考え方を非常によく理解していたように思うのである。

3.おわりに

ロゲ会長は、イラン選手の出場と銀メダル受賞拒否問題について、イラン選手が実際にひじに怪我をしており、病院で診断を受けていたことを確認し、それ故の出場拒否であったとして、それ以上の問題にしようとはしなかった。しかし、若者が自ら作り上げる国際的な機関や組織で、紛争を解決しようとする試みをユース五輪が実現させれば、国際平和教育としてのユース五輪の意義は極めて大きなものとなり、現在のオリンピック大会を逆規定するような大会に成長することになると思われる。ユース五輪に対する期待は大きい。

ユース五輪を取材し続けた読売新聞社運動部の結城和香子記者は、9月4日の読売新聞に「初開催ユース五輪の成果」と題する記事を寄せている。そこでは、①スポーツが持つ人間形成の力を印象付けた、②スポンサーなどの関心を今後どこまで集められるか、③大会継続へ国際社会に価値認識させる努力を、という3点を指摘している。「まともなオリンピックを開催するまで数大会を要した。ユース五輪も成長し、永続する」とロゲ会長はやや楽観的に述べているが、若者の祭典として大会を継続し、発展させるには目に見える形での成果や開催の意義を、国際社会に広く認識させる努力が不可欠である、と釘をさす結城記者の意見に同感である。また、シンガポールがユース五輪に費やした運営費は244億円に及ぶといわれ、こうした嵩む経費が今後のユース五輪にどのように影響を及ぼすかも注視していかなければならないと思う。大きな可能性を宿すユース五輪の成長を支援し、見守り続ける義務が、われわれ教育者にはあるように思える。