リレーコラム01「東京オリンピックと私 しろうと編(仮)」
執筆:高橋玲美(編集/ライター JOA会員)
オリンピックの関連書籍や写真集を制作している最中、くり返し頭の中で甦る年上の友人の言葉がある。「おれ東京オリンピックのとき、閉会式を見ながらテレビの前で泣いたんだよ。終わっちゃうのがいやだーって」。すると、現在展開中のオリンピックを観ている大人や子ども達の姿がイメージとなって浮かぶ。絶対に忘れたくないシーン、いつまでも浸っていたい思い出を、少しでも効果的に切り取って紙に残したいという気持ちが一層強くなる。
最初にこの言葉を聞いたとき、心底うらやましいなあと感じた。スポーツ観戦好きを自認する私だが、オリンピックに限らず自分にとってそんな大会は過去にあっただろうかと考えて、思いつかなかったことが寂しかった。ただ、中学生のとき「ドーハの悲劇」の夜を泣き明かした身としては、少年の日の友人がどれだけオリンピックを楽しんだか、どれだけ別れが辛かったかは何となく想像できる。そして、ああうらやましいなあ、と思う。
私の記憶のなかの第1回オリンピックは1992年のアルベールビル冬季大会で、男子ノルディック複合団体の勇姿に憧れをかき立てられた。同年のバルセロナ夏季大会では家族じゅうでバレーボールにかぶりつきになった。ただ、振り返ってみるとなんとも断片的な印象だ。競技単体にスポットが当たり、大会全体が醸し出すうねりを受信できていなかったのかもしれない。1998年の長野冬季大会でやっと、「これがオリンピックというものか」という実感があった。みんなが開会式を生中継で観ていて、メダルが生まれた瞬間近所から歓声があがり、だれもかれもがオリンピックを話題にするという一体感……自国開催の空気はやはり違った。
スポーツ好きな人と、過去の大会で印象に残ったシーンを語り合うのは楽しい。そして古い記憶ほど掘り起こしがいがあり、相手と共有できたときの喜びも大きい。東京オリンピック世代にはきっとそんな機会がたくさんあるんだろうなあ。その一体感は長野の比ではなかったかもしれないな。日本の、この時代を生きたという共通の刻み目のようなものを、この世代の人々は各々の「1964年」に持っているのかもしれない。
一昨年、報道などを通してオリンピック誘致にかかる労力と困難さをかいま見、1964年の東京大会が奇跡であったことを知った。そして今、2度目の奇跡を起こそうとしている人々からの、東京オリンピックを知らない子ども達へのメッセージのようなものを感じている。心に刻まれるオリンピックとは語り伝えるものではなく、各々が実際に参加し、時代の空気や自分自身の生活をひっくるめた物語として人生に彫りこんでいくものだというような。ぜひ参加してみたいなと思うのだ。 了