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‘0〜5号’ カテゴリーのアーカイブ

追悼文:日本水泳連盟名誉会長 古橋広之進先輩

2009 年 12 月 5 日 Comments off


執筆:田口信教(鹿屋体育大学 教授)

“フジヤマのトビウオ”世界新記録を33度も更新し、敗戦に打ちひしがれた多くの日本人に、勇気と希望を与えたことで知られた水泳の大先輩、古橋広之進さんが8月2日に80歳で亡くなられた。イタリアのローマで行われていた水泳の世界選手権大会に国際水泳連盟副会長として出席中に亡くなられた事は、水泳一筋に生きてきた古橋さんらしい場所での亡くなられかたであっと思う。スポーツ関係者として、初の文化勲章(2008年)を受章されるなど、わが国スポーツ界の最高指導者の一人であり、古橋さんの功績は、書き尽くせないほど、沢山あることと思うが、私にとっての古橋さんは、私に金メダリストになるチャンスくれた人であった。感謝を込めてその事を書き残しておきたい。それは、1968年のメキシコオリンピックの選手選考に始まる。私は、その年の全日本高校選手権で五輪入賞圏内の記録を出し、若手として注目を集めていたが、ベテランの鶴峰先輩には4回対戦して全て負けている状態であった。オリンピックの選手選考を兼た日本選手権においても、ベテランの鶴峰先輩と松本先輩が1、2位、私は、100mも200mも選考対象外の4位となり、メキシコオリンピックは諦めざるをえない結果であった。しかし、メキシコオリンピックの監督に就任している古橋さんが、若手を育てることを提案し、選ばれて当然と思われるベテラン選手を外し、私を選んでくれた。この選考に対し批判が出た事は当然であるが、私の精神的負担にならないようにとオリンピックが終了するまでこの批判の事は聞かされることはなかった。17歳の私にオリンピック選手として参加資格が与えられることがなければ、次のミュンヘンオリンピックでの金メダルには繋がらなかった事は確かだと思う。当時、世界のレベルや技を知る手段は国際大会に参加すること以外に手段はなかった。参加出来た御陰で、世界のトップスイマーの泳ぎの違いやペース配分、スタートにターンの妙技などが分かり、飛躍的なレベルアップに役立てることが出来た。さらに、合宿中は、世界記録を世界で最も沢山更新した古橋監督から幅広いアドバイスを、ユーモアを交えて楽しく話して下さった。練習に対して「苦しいと思うから、苦しみが始まる」また、スポーツマンの心得として、「戦って勝つことだけが目的ではない、互いに相手に対して配慮や尊敬を持って戦うスポーツマンシップが大切」と選手としての品位や国際親善の重要性を話されたことを覚えている。特に、競い合う共通の目的を持った友達を世界中に作れるチャンスを逃さないように、そのためにも、英語でのコミュニケーション能力を身に付けなさいと、文武両道やマナーに厳しい人であった。また、身だしなみに気を配ってくれた。当時、高校生の私は坊主頭であったため、囚人と間違われるといけないからと言ってくれて、髪を伸ばし髪型をスポーツカットにすることが許され、うれしかったことを覚えている。

25歳で選手を引退後も、古橋さんと一緒になることが多かった。当時、全国にスイミングクラブが沢山建設され、そのプール開きに招かれ、古橋さんが挨拶、私は模範水泳をし、私の泳ぎの解説を古橋さんにして頂くといった具合であった。そんな中、君には、これからどこに行ってもスピーチは付いて回るのだから、習うより、慣れろと言って、喋る場所を沢山作って頂いた。沖縄返還本土復帰を祝う水泳教室では、古橋さんと二人で那覇のプールで担当した時に、スポーツは礼に始まり礼に終わると言われ、指導の前の挨拶、終了時の関係者への感謝の言葉から、水泳教室の仕方まで学ばせていただき、そんな中、水泳の持つ魅力を多くの人達に伝えることが君の役割だと教えられた。

余談であるが、会食や夜の付き合いでのマナー、酒の飲み方まで教えて頂いた。水泳は酔泳と言って、酔って溺れるようでは酔泳選手ではないと言われるだけあってお酒が強かった。ウイスキーを炭酸飲料で割ったハイボールを18杯までは数えたが、こちらが酔ってしまい、その後の記憶が定かではないが、30杯は飲んだのではないかと思う。最期まで乱れることなく会話もなめらかで、人を楽しませる喋りは続いた。私が、鹿児島に移ってからは、お会いすることも少なくなったが、鹿児島市内で夜遅くまでご一緒した時、深酔いされた高齢の鹿児島県水泳連盟の副会長を気遣い、ホテルの部屋まで引率されている古橋さんを見て、日本水泳連盟の会長になっていても、つねに人への気使いを欠かさない姿勢、競技会を観戦中にも、選手の記録を記入しながら選手の名前を覚えようと努力されている姿勢など、お会いする度に色々な事を教えて頂いた。スポーツ界を守り続けるために尽力されておられた姿を忘れることなく、語り続けて行きたいと思う。心よりご冥福をお祈り申しあげます。

2016年東京オリンピック・パラリンピック招致を振り返る

2009 年 12 月 5 日 Comments off


執筆:結城和香子(読売新聞運動部次長)

国際オリンピック委員会のコペンハーゲン総会。ロゲIOC会長がカードを回転させると、リオデジャネイロ陣営が雄たけびを挙げた。勝利都市記者会見で愛国歌が飛び出し、ルラ大統領が感極まって泣き出す。記者席で、ブラジル流で表現される「五輪開催の重み」に感じ入りながら、ふと思う。東京が座っていたら、どんな思いで見つめていたろう–。

後知恵は素晴らしいもの。2012年ロンドン五輪招致を勝利に導いたコー氏が、皮肉も込めてそう言っていた。IOCを担当した15年間、招致取材は何度も経験したが、確かに、結果が出てからの批判は容易だ。ただ、今回東京が努力を傾注し、計画や都市力では高い評価を得ながら、IOC委員の心をつかめずに終わった事実は、しっかり把握しておくべきだろう。東京、広島・長崎と、次回への布石が打たれつつあるならなおさらだ。

2008年の一次審査で開催能力のトップ評価を受け、09年2月には純日本調の立候補ファイルを提出した東京。この段階ではシカゴが最右翼で、能力面で東京が続くと見られていた。しかし翌3月、デンバーで開かれたIOC理事会・国際競技連盟関連会議の場で、初めて4招致都市がロビイングと招致演説を展開する場を取材し、「心をつかむ力」の差の大きさに、私は最初のショックを覚えた。

日本の記者である当方にも、向こうからインタビューを依頼し、南米初開催の意味と五輪運動にとっての意義を、ヌズマン招致委会長自らが熱く語りかけてきたリオ。未整備の社会インフラや巨額予算、14年サッカーW杯開催など、弱点とされた点にも、国際専門家やブラジル銀行総裁まで引き出し、真っ向から議論を挑んだ。招致演説でも話題をさらい、直後の記者会見には最も人が詰めかけた。ジョークを連発する知事ら、ブラジル的人間味も全開。考えてみればIOC委員にも、さまざまな経歴があり、リオに良い先入観を持つとは限らない。途上国開催のリスクや、巨額予算を支える財政面への疑問を抱いていた自分をして、なるほどと思わせてしまう大義と人間味は、今後怖い存在になる。そう感じた。

3月のIOC理事会では、米国五輪委とのテレビ放送権料等収入分配の議論が一触即発となり、シカゴ陣営は防戦一方。しかし、つけ込むチャンスと思いきや東京は、政府保証と不況に強い財政力をアピールするだけで、弱点とされた「(北京五輪に続く)またアジア」という見方に対する効果的な議論や、弱点を上回る「なぜ東京」を打ち出せないまま。海外記者の出席が最も少ない記者会見で、最も淡泊な受け答えで終わってしまった。

この時受けた各招致都市の印象は、その後6月にスイス・ローザンヌで行われたIOC全委員に対する招致演説、8月のベルリン世界陸上と、増幅こそすれ変わらなかった。ちなみにローザンヌでは、招致演説後の質疑応答で、IOC委員の関心を最も集めたのはリオとシカゴ。しかしリオが、建設的な質問を多く受けたのに対し、シカゴには懐疑的なそれで、印象の賛否が割れた。東京はマドリードと並び、質疑は最も短時間で淡泊。本命視されていないのが浮き彫りになった。

次のショックは、9月2日に公表されたIOC評価委報告書だ。55.5%の支持率などが「懸念」と厳しく断じられた東京に対し、同じトーンならさぞかしインフラ整備や散在する競技会場が斬られるだろうと思ったリオには、課題の指摘と対策への期待の併記に終始。南米初の五輪に対し「リスクはあるが、賭ける価値はある」とのお墨付きを与えた内容だった。最後の溝が埋まった、そう感じた。

東京のために言えば、東京は実は4都市中、ロゲ体制下での前回の招致体験を持たない唯一の招致委だ。12年で敗れたマドリード、ニューヨーク(米国五輪委)と、12年の一次選考で敗れたリオに比べ、東京は経験の浅さを、過ちから学ぶことでカバーして行った。実際、3月のロビイングやメディア対応、6月の招致演説での失敗を、良くその後に生かした方だと思う。最後の1か月半は、ロビイングの熱意もつかみ、日本オリンピック委員会の竹田会長ら「顔」も出来つつあった。選手が軸となって声を上げ、国際的に訴えられるようになったことも収穫だった。しかし、ロゲ体制下の夏季五輪勝利都市、ロンドンとリオに比べ、明白に異なる点もいくつかあった。

一つは、五輪運動やIOC内部を良く知る者が招致を率い、国内五輪委などスポーツ界が軸となって、勝つために最善の戦略を決められる体制とは言えなかったこと。元五輪金メダリストのコー氏と、英国五輪委のリーディー前会長(IOC委員)らが軸となったロンドン。ブラジル五輪委会長でIOC委員のヌズマン氏が率い、各委員を何度も個人的に訪問したリオ。リーディー氏は以前、「過去の失敗から我々は、英国五輪委が招致を率いる必要があるとの結論に達した」と語っていた。結局IOC委員には、五輪運動や選手のためという見方を通し、顔の見える信頼関係の上で訴えないと、環境対策も財政力も十分なアピール力を持ち得ないのだ。

今ひとつは、政府の熱意と支援。リオは、ブラジルのルラ大統領が、2年前から積極的に招致に関わり、個人的に全委員に手紙を書いたり、五輪準備を最優先するための法律を策定したりした。ロンドンも、現地に乗り込んだブレア前首相が、政府の全面支援と熱意を訴えたのが奏功した。オバマ大統領が乗り込んだシカゴが初戦敗退したことを考えると、結局カリスマ性のある指導者がいても、熱意に疑義がある場合は効果は低いということだ。

最後に、一般国民の理解と支援。1国の政府の熱意が、国民による五輪開催への支持を汲んだ結果、生まれることは間違いない。何故今五輪を開きたいのか、五輪開催は有形無形の何をもたらすのかという議論を深め、人々の関心と支持を高めていく。それが、次の招致を考える時、まず踏み出すべき一歩となる。

2016 Games BidとTokyo 2016、そのレガシー

2009 年 12 月 5 日 Comments off


執筆:桶谷敏之(筑波大学大学院)

2016年のオリンピック・パラリンピック開催をかけた戦いは、キャンペーン当初より「南米初」をスローガンに掲げたリオ・デ・ジャネイロに軍配が上がり、首都東京で挑んだ日本は三度連続の敗退を喫した。私は招致活動に直接的に携わった身であるが、オリンピック・ムーブメントの信奉者の一人として、未開催国、未開催地域での初の大会開催を心より祝福したいし、それに伴いオリンピック・ムーブメントが更なる発展を遂げることを固く信ずるところである。以下、今回の招致レースの概観に触れ、そして次にTokyo 2016が招致の過程で培ったレガシーについて簡単に振り返ってみたい。

東京は、2008年6月の書類選考でトップ通過し、またコペンハーゲンでの投票一カ月前に発表された評価委員会レポートでも高評価を得るなどその大会開催・運営能力は折り紙つきであったが、常に「何故いま東京なのか?」という問いに追い回された。特にリオが「南米初」という誰の耳にも分かりやすい理由を掲げていたため、なおさら一層東京の何故が注目されていたともいえよう。もっとも、リオ以外誰にとっても分かりやすい理由を提示できた都市はいなかったのも事実であるが・・・。(果たしてどれだけの人が、オバマ、サマランチといったファクターとは別に、他3都市のビッドメッセージをすぐに思い浮かべることができただろうか?)

東京は「Uniting Our Worlds」というスローガンを打ち出し、大会開催を通してアスリートを、人を、都市を、世界を結び合い、平和に貢献する成熟した都市における21世紀のオリンピック・パラリンピック像を提案、そのための具体的アクションを表現した「Setting the Stage for Heroes」で東京が安心・安全な都市であり、全アスリートが自己ベストを出せる環境整備を約束として掲げキャンペーンを展開した。東京の都市力、財政力を疑問視する関係者は皆無といっていいほどいなかったが、やはり、ではその先に何を東京は目指すのか、というもう一歩進んだ質問に「南米初」と同じレベルで分かりやすい回答をつくることはついぞできなかった。それはシカゴにせよマドリードにせよ同様であったと思う。東京、シカゴ、マドリードには開催能力があるものの、Whyにこたえるストーリーが薄かった。逆にリオには「南米初」というストーリーがあり、あとは都市力を証明する、ということが課題であった。事実、実際に大会オペレーションに携わる競技連盟関係者からはリオの大会運営能力を疑問視する声を多々耳にした。そういった現場の声がどこまで今回の意思決定に反映されていたのか、分からない部分も多い。しかし、書類選考の段階では4都市中最下位であったリオであるが、今年4~5月に行われた評価委員会の現地視察によって開催能力ありと認められると、一気に招致レースの中での存在感を増していった。

当初は大本命と目されたシカゴであったが、リーマンショックによりがた落ちした合衆国経済によってブレーキがかかり、更に懸案であったUSOC(合衆国オリンピック委員会)のテレビ放映権収入分配比率の問題が国際競技連盟、IOCとの間で悪化、NOCの支援どころかそのツケを払わされるかたちでシカゴは急転落していった。一方、評価委員会のお墨付きを得たリオであるが、テレビ放映の時間帯がアメリカと変わらないため、合衆国開催と同じような放映権収入が見込めるという地理的条件にも後押しされた。また、ルーラ大統領が公務の傍ら外遊先で招致アピールを積極的に行ったのもリオの大きな勝因の一つと言えるだろう。(とはいえ、ロンドンのケースと同じく、開催都市決定後に都市の安全性を脅かす事件が発生したのは何の因果であろうか…。)
いずれにせよ、IOCが大きな決断を下したことは間違いない。日本としては南米初の大会成功を全面的に支援して行くのが、同じオリンピック・ムーブメントの推進を志した者としての務めであろう。

招致レースに負けはしたが、Tokyo 2016もプラスのレガシーを多く遺した。まず挙げられるのがオリンピック教育の推進であろう。殆どの都市は開催が決定してからオリンピック教育を始めるが、まだ開催が決定する前から東京都と協力して専用のテキストを作成し、小中高の教育の現場で展開することができた。実践に協力してくださった公立学校では実に様々なかたちで授業が行われており、この事例の積み上げ自身大きな財産でもあるし、今後この結果を継承、発展させていく必要がある。

オリンピアンとパラリンピアンが手を取り合って招致活動を展開したことも大きな意味があったといえよう。近年のパラリンピックの発展により、オリンピックとパラリンピックは表裏一体である、という考えが世界で浸透してきている。招致委員会も「東京オリンピック・パラリンピック招致委員会」という名称にし、下部組織である招致委員会独自のアスリート委員会にはオリンピアンだけでなく多くのパラリンピアンにも参加してもらった。日本のオリンピアンとパラリンピアンが共通の目的に向かって力を合わせたのは恐らく初めてのことであったと思われるが、これをきっかけに全アスリートの交流を促し、彼らが協力してオリンピック・ムーブメントの推進に貢献していけるような体制づくりが進むことを切望する。

政府の全面的財政保障の表明も大きなレガシーであろう。財政が比較的盤石な東京であったからこそ、ということもあっただろうが、政府が文書にして財政保障を確約してくれた。周知のように大阪はこれを得ることができずに大きく減点された、という過去がある。前例主義の風潮が色濃い政府官僚機構にあって、本来的には民間の事業であるオリンピックに招致の段階で政府保障が出されたという意義は非常に大きいといえよう。

さて、幸か不幸かコペンハーゲン総会の前に政権交代が実現し、政権与党となった民主党は自公政権の政策見直しに着手し始めた。多くの政策にブレーキがかけられる中、鳩山総理はコペンハーゲン総会の現地に駆け付け、日本の首相として初めてオリンピック・パラリンピック招致のプレゼンターを務めた。更に麻生前総理が約束した財政保障を100%お約束する、とプレゼンの中で明言した。また同じプレゼン中、オリンピズムは総理の持論とする友愛の精神に合致し、全面的に支援するとも発言した。公の場で日本国のリーダーからオリンピズムへの理解についての発言を得られたことも重要なレガシーであろう。

また、スポーツ振興法を改正しようという動きが強まったことも見逃せない。招致の動きと連動して、自民党がスポーツ立国調査会を設立、日本のスポーツの在り方について議論を深めた。そしてそこでの議論を踏まえ、超党派でつくるスポーツ議員連盟によりスポーツ振興法をスポーツ基本法に改正しようという動きにまで高まった。何とか国会提出までこぎつけたものの、衆議院解散により廃案という結果に終わったのは記憶に新しいところであろう。しかしながら、1961年に制定されたスポーツ振興法がもはや時代の要求に応えていないのは明白である。また、行政サイドとしても行動の裏付けとなる法律の整備は必要不可欠である。理想を言えば、トップアスリート支援だけでなく、また草の根スポーツの普及だけに留まるでもなく、その両方を推進しつつ、更にスポーツの価値それ自身が高まっていくような体制づくりが必要であろう。そのためには「スポーツとは何か」、「我が国はスポーツを通して何を目指すのか」という国家戦略と連動した大きな絵を描き、単なる運動や競技ではないsportの価値を周知させていく動きが一方で求められているのも事実であろう。この点、JOAのような組織が果たさなければならない務めがまだまだ残っているのではないだろうか。

以上のように、目には見えづらいが着実に盛り上がったムーブメントが存在した。いずれも「オリンピック・パラリンピック招致」というきっかけが後押しし実現したことは間違いない。今後は、一旦盛り上がったこのムーブメントをどのように受け継ぎ、さらに継続的に発展させていくか、がスポーツ界だけでなく、日本全土で求められている。

夏季オリンピック2016東京招致失敗の反省の視点

2009 年 10 月 27 日 Comments off


執筆:内海和雄(英国ラフバラ大学客員教授)

1. 反省の声

10月2日現地夕方、「コペンハーゲンの悲劇」は起きた。IOC総会における2016年夏季オリンピックの開催地は南米のリオ・デ・ジャネイロに決定した。東京の落選を残念がる一方、リオの当選を歓迎する声も多い。それは南米初の開催が、オリンピズムのスポーツ普及と一致しているからである。

その後東京でも、日本でも、先の招致活動への反省をして、2020年への再挑戦をするかどうかの声も聞こえてくる。その中にはオリンピック開催の環境配慮への趣旨は良かったが、プレゼンテーションの技術上の拙さを指摘する声もある。

私は今、この4月から長年通い慣れたイギリスのラフバラ大学に客員教授として滞在しながら、オリンピック研究に平行してこの国の体育・スポーツ政策、そしてオリンピックを含めたスポーツ・ナショナリズムなどを研究している。その中で、先の2005年10月のロンドンの逆転的勝利の意味を痛切に考えさせられると共に、今回の東京の敗北は、プレゼンテーションの単なる技術上の問題ではなく、オリンピックの今後のあり方を含めた、深層からの反省を行わなければ、今後の東京招致、いや日本の都市への招致は実現しないと考えている。この1つの提案がそうした議論の1つの切掛けとなれば幸いである。

2. オリンピズム

オリンピズムの中心は世界にスポーツを普及させ、スポーツを通じて若者たちを中心とした友好を深めることにある。そのために、オリンピックの収益の一部を世界のスポーツ普及活動に援助してきた。したがって、オリンピックを開催する上で、その都市、あるいは国のスポーツ政策が人々のスポーツ振興にマイナスに働くとすれば、それはオリンピズムとは矛盾する。

私は常々、少なくとも過去10年のその都市、あるいは国のスポーツ・フォー・オール政策のあり方もオリンピック招致都市の評価基準として、大きく位置づけられるべきだと主張してきた。しかし、今回の東京、ないし日本の過去10年の歴史を見れば、スポーツ政策は衰退の傾向にあった。こうした状態にあった自治体や国が、突如オリンピックによって市民や国民のスポーツ振興といっても、そのアピール性は無い。都民、国民のスポーツ重視の政策を採らず、冷遇してきた日本において、1964年当時のオリンピック招致・開催の価値は形成されていない。つまり、スポーツを中心とする福祉が重視されていないのだから、未だ其の価値が共有されていない。(拙著『日本のスポーツ・フォー・オール-未熟な福祉国家のスポーツ政策-』不昧堂出版、2006)

この点で、ロンドンの、あるいはイギリスの教訓から学ぶとすれば、この豊富なスポーツ・フォー・オール政策を背景としてオリンピック招致に打って出たが故に、目立った反対運動もなく、ロンドン市民ばかりでなく、イギリス国民からも支持され、大歓迎されたのであった。

3. イギリスのスポーツ・フォー・オール政策

イギリスのスポーツ・フォー・オール政策は1972年の執行機関としてのスポーツカウンシルが設立されて以降である。近代スポーツの発祥国であると同時にアマチュアリズムの発祥国であるイギリスは、アマチュアリズムの個人主義によって、政府がスポーツに介在することを排除してきた。それ故、戦後の福祉国家化の中で、西欧諸国が政府主導によるスポーツ・フォー・オール政策を採用せざるを得なくなった中でも、頑なに介在を控えてきた。しかしそうした姿勢は許されなくなり(この背景は拙著『イギリスのスポーツ・フォー・オール-福祉国家のスポーツ政策-』不昧堂出版、2005参照)、スポーツ・フォー・オール政策の採用となった。西欧諸国がスポーツ省を設置した中で、イギリスは当時のスポーツ所管である環境省からは独立したいわば独立行政法人とも言うべき組織「スポーツカウンシル」を設立した。スポーツ省ではなくこうした組織形態になったのは他の多くの文化分野でも同様であるが、時の政権党の政策の実行ではなく、それとはやや独立に、独自な文化・スポーツ政策を推進するために作られたのである。しかしそうは言っても、政府からの財政を受けて推進するのであるから、政権党との「軋轢」は常に存在した。その典型例が1980年のモスクワ五輪への参加問題であった。当時のサッチャー首相はアメリカのカーター大統領のボイコットをいち早く支持し、イギリス選手団にもボイコットを強要した。しかしイギリスオリンピック委員会はソ連への抗議を込めて、イギリス旗ではなく五輪旗を掲げて参加した。ここでスポーツカウンシルも参加支持に立っていた。これはサッチャー政権の逆鱗に触れ、その後福祉縮小の一環として、スポーツカウンシルも縮小された。しかし、サッチャー政権発足直後の1981年には格差に痛めつけられた大都市の貧困者を中心とする大規模な都市暴動が続き、1980年代にそれらが沈静化するまで、むしろスポーツ政策は住民の不満解消の一環として推進されたのである。そして1990年代のメジャー政権はスポーツ政策をイギリスのナショナリズム重視の立場から、学校とトップスポーツを重視したが、地域スポーツは放任されたのであった。

1997年のブレア政権はその政策の重点が「1に教育、2に教育、3に教育」と、教育重視の政策をとった。もっともその中にはサッチャー政権以降の競争主義の諸政策も多く温存されていたが。それでも、ブレア首相は2002年に「体育・学校スポーツとクラブ連携戦略」を自らの政策として提起し、今後5年間で10億ポンド(1600億円,£=160円)という膨大な資金を投入し、この国の子ども、地域、そしてトップのすべてに渡って「世界一のスポーツ立国」を建設することを提唱し、実行した。

これは現在も引き継がれており、子どもたちには週5時間の運動時間保障政策、そのために特別な職種を新設し、あるいは教員の授業研究、部活動振興、地域クラブとの連携のための特別な活動を保障し、そのための授業離脱を保障し、その代用教員の給与も保障するという、羨ましいほどの政策を推進している。地域スポーツはスポーツ種目団体による2013年までの100万人の新規参加者増加作戦を採り、そのために各スポーツ競技団体に数十億円ずつの支援金が支給されている。これらの政策は世界の各国から羨望と教訓の対象とされ、視察団が後を切らない。

こうした、「世界一のスポーツ立国」建設の推進を背景にしながらロンドンへのオリンピック招致であるから、これは先述のようにロンドン市民ばかりでなく、イギリス全体からも支持されたのである。さらにそれらの政策を自ら指揮するブレア首相が、IOC会議に乗り込んだのであるから、その迫力は投票するIOC委員の心に強く響いたに違いない。

4. 反対運動とIOCの意向

オリンピックの反対運動にも歴史はあるが、近年の世界的な特徴は大きく3つに分類できる。1つはオリンピックの肥大化に伴う環境破壊への危惧からの反対運動である。これにはIOCも全面的に受け入れ、今後のサステーナブルなオリンピックのあり方を求めて、環境保護を重視している。そして環境対策を評価基準に入れている。

第2は、オリンピックやIOCが「オリンピック企業」化をして、初期のオリンピズムを忘れて、専ら利潤追求の企業に転化しており、それに公共の莫大な税金を投入することは許されないというものである。この点に関しては、より根本的な議論を必要とする。つまり、資本主義社会に存在し、発展しようとする組織にとって、一定の資本確保が必須だと言うことである。これは研究学会のような非営利団体でも、一定の活動資金を組織は必要とする。我々のJOAでも同様である。オリンピックはテレビの普及や諸国民のスポーツ普及に支えられて、そして莫大なテレビ放映権料を得ることによって、その崩壊から脱出し、現在の発展に至っている。だからといって、それらの「利潤」を溜め込んで、新たな利潤獲得のための企業の設立を推進しているわけではなく、オリンピックソリダリティを初めとする世界のスポーツ普及と発展のために多大な援助をし、またオリンピックの今後の発展の為のあり方を模索するために莫大な研究、教育を組織している。こうした運動体が他にあるだろうか。人類の遺産であるオリンピックの保護、発展とそれによる国際平和への貢献というオリンピズムの推進を旺盛に進めている。それらは一般にオリンピックレガシーと呼ばれるが、反対論者の多くはこうした広い検討をしようとはしない。もっとも、オリンピックはそれが果たしてきた歴史的、社会的役割の大きさの割には、研究がきわめて遅れている領域である。そのための研究がもっともっと高まる必要がある。

そして第3は、近年の都市開発が、特に「国際都市」への脱皮を図る上で、莫大なインフラ整備費を、比較的抵抗の少ないオリンピックを利用して遂行しようとする傾向が強まっている。これによって、都市住民の福祉費の削減、時には都市住民の市民的自由の制約、そして招致活動費の不明朗化などへの批判である。

都市振興とナショナリズムの高揚のためのオリンピック「利用」は1896年の近代オリンピック第1回アテネ大会以来行われていることであり、近代社会に於けるメガイベントの持たざるを得ない宿命でもある。また、それらがある程度なければ、おそらくオリンピックも現在まで継続はされなかったのではないかと私は考えている。しかし、都市振興に関して言えば、現在の「手段化」は、都市の利潤により大きな比重が置かれていることも否定できない。こうした傾向への批判である。その象徴的な姿が市民、国民へのスポーツ普及政策を軽視しておいて、オリンピックを招致しようという態度と行動である。

5. オリンピックの方向

IOCは先の「都市振興 vs. 住民福祉削減」というオリンピック招致のあり方をもっとも恐れている。IOCは政治との関係で言えば、政治に介入されない努力をしてきた。また一方、政治には介入しない。しかしオリンピック招致が国内外の政治と不可分であることは誰もが承知している。こうした矛盾の中にオリンピックは存在する。そして今後もそうした社会の中で活動してゆかなければならない。

かつてオリンピックが危機に直面したのは世界戦争による開催休止であり、冷戦下やアパルトヘイトへの反対の手段としてのボイコットであった。そして組織内の問題としては財政難による崩壊の危機であった。現在はドーピングなど、スポーツそれ自体の価値を根底的に否定する動向もある。

しかし現在のオリンピック招致・開催に関して直面する問題は、招致・開催都市による都市振興の手段化とそれに対する反対運動の高揚である。オリンピック招致・開催によって都市住民の福祉が削減されるとすれば、反対運動はますます高まるであろう。それは容易にオリンピック自体の否定に繋がりかねない。IOCはこの辺に注意を払い始めた。それは今回の評価委員会が各招致都市の反対派との「初めて」(私の情報は不正確かもしれない。以前からあったかもしれない。)の会合を持ったことにも現れている。
また、近年IOCはオリンピックレガシー研究に大きな精力を割きつつある。先述したように、オリンピックの果たしてきた歴史的、社会的な大きさの割にはその研究は少なすぎたからである。レガシー研究は世界的にも、2000年代に入ってからである。

今後のオリンピック招致・開催のあり方は、招致・開催都市として「都市振興と住民福祉」の両者のバランスのとれた政策のあり方を求めるだろう。IOCとしても、招致都市のあり方をそのような方向に持って行けるような、評価基準に重きを置くのではないか。その一環がオリンピック開催都市は開催前の9年前から開催後の2年後、つまり11年間のオリンピックレガシー研究に着手した。その最初が2008年の北京オリンピックである。もちろん、その一環に「住民福祉」の項目がどのように埋め込まれているかが重要である。それと同時に、招致都市の評価項目の中に、もっと住民福祉を、そして特に住民へのスポーツ・フォー・オールの施策の実施度を含めるべきである。

IOCは政治に介入しないと先述した。確かに招致・開催都市の「都市振興と住民福祉」の具体的なあり方に介入はできないだろう。しかし、そのバランスある推進の為の方策として、住民のスポーツを含む「住民福祉」的内容をもっと評価基準に規定すべきである。これは政治への介入無しに、間接的に規定することでもある。そしてこのことが、インフラ重視だけの招致とそれに対する反対運動の高揚とを克服する方法が含まれている。その一環が、先に触れたように、最低、過去10年の住民スポーツ振興、国民スポーツ振興のあり方を大きく評価する方向に転換するであろう。今その転換点であるといえるだろう。

今、オリンピックは1つの転換点に来ていると考えるべきだろう。これまでの転換点と同様に、世界の政治経済が変動する中で、オリンピックも又そのあり方が問われている。そして、オリンピックのあり方はIOCレベルだけでなく、もっともっと草の根のレベルでも議論される必要がある。そのことがオリンピックのより健全な方向を見出し、オリンピックのより広い深い支持を得る方向だからである。

イギリスに留学しながら、ロンドンの、そしてこのイギリスから学ぶべきことの1つとして、以上のように考えている。今、東京と日本が反省すべきは、単にプレゼンテーションの技術上の事ではなく、もっと住民に支持されるようなオリンピックの招致・開催のあり方を広く議論することである。むしろそうした運動を盛り上げた方が、IOCへのアピール性もあるのである。

オリンピック招致・開催はスポーツの範囲を超えた、政治経済の問題でもある。オリンピックはすでにそうした性格をいやが上にも帯びている。そうした状況にも拘わらず、スポーツ関係者がただスポーツだけの世界から「オリンピック招致賛成」を叫んでも、それではオリンピックの実態の持つ性格からも遊離してしまっている。

2016年オリンピック競技大会東京招致実現せず:弾丸応援ツアーに参加して

2009 年 10 月 25 日 Comments off


執筆:舛本直文(JOA理事・首都大学東京教授)

紅葉の始まったコペンハーゲンの市庁舎前広場のパブリックビューイング(PV)会場は2016年オリンピック競技大会開催候補4都市の応援団とコペンハーゲン市民で埋まっていた。第121回IOC総会の前半のクライマックスである開催都市決定アナウンスセレモニー。大観衆が固唾を飲んでロゲ会長の発表の映像を見守る。ロゲ会長がオリンピックシンボルマークのついた封筒を開け、「リオデジャネイロ!」と読み上げた瞬間、市庁舎前のリオの応援団が歓喜の声をあげて大喜びするとともに、リオのコパカバーナの特設会場の大応援団が歓喜する様子も大画面に映し出される。サッカーの王様ペレがルーラ大統領など招致メンバーと抱き合って歓ぶ姿が印象的であった。先ずはリオに「おめでとう」のエールを送りたい。また、東京の招致関係者にも「よくやった、ご苦労様でした」と申し上げたい。そして、弾丸応援ツアーに参加したJOAの会員諸氏にも「お疲れ様でした」と言いたい。

1. 始めからリオありき

この2016年オリンピック大会の招致レース、振り返ると端からリオありきであったといえる。5大陸中でオリンピック未開催はアフリカ大陸のみであるが、実はアメリカ大陸のうち南米は未開催であった。(リオの最終プレゼンで世界地図に南米で未開催であることを訴えたのは、強烈なインパクトがあったに違いない。)そのため、昨年の7立候補都市を絞る段階で技術的評価が5位であったリオを開催候補4都市に残したこと、今年9月の評価委員会の評価レポートで最高の評価を得たこと、また南米初のオリンピック開催を希望していたロゲ会長の思惑を組み、おそらくアフリカ大会開催を夢見るモロッコのムタワキル評価委員長など、IOCの総意が元々リオに好意的であったといえる。昨年の立候補段階で5位評価の招致計画が今年になってにわかにトップ評価になるまでに改善されることは想像しがたい。リオが抱える問題点として、中でも治安の悪さやインフラの未整備の問題は大きく報道されていた。また、2014年サッカーW杯の影響で経済が疲弊する可能性も指摘されていたのである。それにもかかわらず今回の選択によって、IOCは2014年のW杯の経験が好結果をもたらすと想定してリオの可能性にかけたことになる。これはある意味では、IOCはリスク覚悟でリオに賭けたのであり、IOCの一種の冒険やチャレンジであるとも言えなくもない。おそらく、ムタワキル評価委員長をはじめアフリカ諸国は「次は自分達の国での開催を」と意気込んでいるに違いない。

2. 東京招致の弾丸応援ツアーに参加して

10月1日深夜、ANA特別便のジャンボ機で東京オリンピック・パラリンピック招致応援団約250人が羽田からコペンハーゲンに向かった。松木、森末両団長の他、応援に借り出された都庁職員約70名、JOAの会員も7,8名参加していた。2日未明にコペンハーゲンに到着する。現地ホテルで結団式を挙行した後、冷たい雨が降りしきる中、東京招致団が最終プレゼンテーションのためにホテルを出発するのを見送るため、我々応援団は沿道に並んで声援と皆のパワーを送った。その後、市庁舎前広場のPV会場で日本のプレゼンを見ながら声援を送ったが、残念ながらツアー企画のため、オバマ大統領夫妻のスピーチなど他都市のプレゼンの様子を見ることができなかった。

さらに実は、ツーリストの時間把握ミスによりPV会場に到着が5分遅れたため、東京のプレゼンのサプライズであった冒頭部分の三科嬢の登場の場面に間に合わなかったのである。これは返す返すも本当に残念であった。しかし、東京のプレゼンは応援団には結構好評であり、各パートで応援団は大声援を送って見守った。しかし、個人的な感想を言えば、東京のVTR映像がIOC委員をわくわくさせられるものであったかと言えば、残念ながらそうとも言えなかったであろう。また、この映像がIOC委員に投票させるまでインパクトがあったかといえばどうであろうか? 日本の禅カルチャーのような白黒映像や昔の子どもたちのスポーツ活動映像、ラストの世界の子ども達の遊ぶ様子の映像などで一体何を訴えかけることができたのか? 環境保護と平和への貢献というメッセージがきちんと伝わったのかどうか? いささか心配な点も見受けられた。これはある意味で2010年から始まるユース・オリンピック大会招致向けのような映像だといえなくもないと思われた。

夕方、IOC総会における投票の様子を見守るため弾丸応援団は再度市庁舎前のPV会場に向かった。ステージ上では地元の子どもたちによる器械体操や新体操、創作ダンスやバブルダッチなどのパフォーマンスが続いている。彼らには発表のいい機会であるが、女の子が多いのは一体なぜだろう? あたりには4都市の応援団も徐々に集まり気勢をあげている。ステージに司会者が登場し、IOC総会の投票会場の様子も映し出される。しかしながら、突然会場はロックコンサートの会場に早代わりしてしまった。大スクリーンもコンサートの映像に切り替わり、そのため第1回目の投票でシカゴが落選したことはPV会場のスクリーンには映し出されなかった。我々がそのことを知ったのは、メディアによる情報からであった。大人気のオバマ夫妻が駆けつけてシカゴの応援をしたにもかかわらず、最下位という結果に皆が大いに驚く。今回、IOC委員は招致活動に政治的な関与を嫌う方向を強固に示したのかもしれない。2012年大会招致合戦におけるブレア首相対シラク大統領、2014年冬季大会招致のプーチン首相など、これまで大物元首たちによる招致のロビー活動が展開されてきており、今回も4カ国の元首がコペンハーゲンに乗り込んでいたからである。

さて、PV会場はまるでロックコンサート会場の様相を呈している。投票の様子がスクリーンに映し出されないため、シカゴに続いて東京が第2回目の投票で落選したこともメディアから伝わる始末である。スクリーン映像ではないので、さざ波のように徐々に落胆の波が東京応援団に広がっていく。その後、松木、森末ら東京の応援団長は早々に引き上げていったが、間寛平とピカチューのぬいぐるみを着た学生応援団達はまた引き返して来て、その後の投票の様子を踊りながら見守っていた。

最終投票結果の発表を待つ間、各都市の応援団の若者たちはPV会場でピースサインを示したりして盛り上がり、世界は一つと言わんばかりに一緒になって歌い踊っていた。日本の若者たちがリオやマドリードの応援団と交流している様は、まさに東京のビジョン”Uniting our Worlds”を実践するものであったといえる。マドリードの応援団から東京に「2020年がんばれ!」とエールが送られる。IOCのいうオリンピック価値とは「エクセレンス、フレンドシップ、リスペクト」の3つの価値である。東京応援団長もリオやマドリードに対してリスペクトしてエールを送れるようなオリンピック運動の応援団であって欲しかった。マドリードは最終投票で破れた後、リオにエールを送っていた。「すばらしい大会を祈る」と。

いよいよ最終発表。ステージ上に4カ国の子どもたちが自国の国旗の小旗を持って登場し、最後の投票結果の発表を見守っている。日本の子ども達は浴衣姿のようである。その後、スクリーンにロゲ会長による最終投票結果発表のセレモニーの様子が映し出される。ロゲ会長がオリンピックシンボルが描かれた封筒から紙を取り出して厳かに読み上げる。「リオデジャネイロ!」。最終投票は地すべり的にリオの圧勝であった。PV会場はリオの応援団の歓喜に包まれた。ステージ上でもブラジルの子ども達が大喜びではしゃいでいる。マドリードの応援団は落胆し、明暗を分けた。

この後もPV会場ではロックミュージックが続き、人々が踊って喜びを表す祝祭ムードの中、我々はリオの応援団に「おめでとう」の声をかけてPV会場を後にした。残念会の会場であるホテルにバスで向かったのである。

残念会の会場には石原知事も駆けつけ、敗戦の悔しさや無念さを吐露する。さらに、東京の応援団に対して感謝とねぎらいの言葉をかけ、招致委員会のプレゼンチームとしては全力を尽くした最高のプレゼンテーションであったと自負していた。猪谷千春、岡野俊一郎の両IOC委員も駆けつけ、招致活動の難しさや力不足を詫び、次回への意欲を見せるスピーチもあった。3日の帰国フライトの機内でも、石原知事は機内を一周して弾丸応援ツアーの参加者に感謝の言葉を述べて回った。目にはうっすらと滲むものが見られた。

3. オリンピック招致活動のレガシー

今回の招致失敗を受け、今後、おそらく招致活動の敗因の分析や総括が行われるであろう。150億円もの招致活動費用の使途も公開されていくに違いない。しかし重要なことは、今回の招致活動が一体どのようなレガシーを日本のオリンピック運動に遺すことができたか、この検証と活用が必要であろう。それが2020年を含む今後の招致活動にもつながって行くことになるはずである。

「オリンピックとは何か」、このことが都民にどれだけ理解されていたのであろうか? 世論の支持率が低いことが東京の弱点であるとされた。それは、オリンピックの真の意義が「スポーツを通して心身ともに調和の取れた若者を育てるという教育思想であり、それがひいてはより良い世界の構築に貢献する平和思想である」ということが十分理解されていないせいかもしれない。そのためには今後、東京都教育庁を中心としたオリンピック教育の展開、嘉納治五郎記念国際オリンピック研究・交流センターの活動など、教育面のレガシーが十分機能していく必要がある。都民へのオリンピック教育やスポーツの普及活動も重要な課題である。そうしないと、いつまでたってもオリンピック競技大会やメダルにしか関心のないイベント主義のオリンピック愛好家であって恒常的なオリンピック運動には全く関心のない都民を再生産し続けることになりかねない。これはさらに、全国レベルのオリンピック教育へと広がっていかなくてはならない。学習指導要領の改訂に伴い、教師研修と教材開発も急がれねばならない。

また、カーボンマイナスなどに配慮した環境オリンピックの構想も実現して欲しい環境面のレガシーである。「10年後の東京」構想が志向する環境への配慮は、今回の招致計画によっても大きな意識変革や行動のきっかけとなったはずである。

さて、2020年大会の招致に向けては、今回の招致活動の検証を踏まえて再検討されるであろうが、今回の招致活動から生まれた様々なレガシーを無駄にしてはならない。リオやマドリードが見せたような何回にもわたる連続の招致活動のみならず、都民や国民が継続的にオリンピック運動を支援し続けていけるような姿勢をはぐくむことが重要なのである。

今回、2016年オリンピック開催のための基金が4000億円積まれているとされるが、それを今回蓄積された様々なレガシーの継承とその更なる発展のために活用する道を考えて欲しいものである。

(付記:本報告は10月06日付「都政新報」の記事を元に加筆したものである。)

PV会場の東京応援団(ピカチュー隊も)

PV会場の東京応援団(ピカチュー隊も)

リオ決定の瞬間(ステージ上の各国子ども達)

リオ決定の瞬間(ステージ上の各国子ども達)

PV会場のスクリーンにはロックコンサート。投票は映し出されない

PV会場のスクリーンにはロックコンサート。投票は映し出されない

2007年オリンピック休戦センター作文コンテスト入賞作品から

2009 年 10 月 10 日 Comments off

2000個の赤鼻


作品紹介と和訳:和田 恵子

※この記事は2008年9月に執筆されたものをJOA Review アーカイブ(第0号)に掲載しています。

オリンピック休戦センター(本部アテネ)が2007年に行った作文コンテストの入賞作品から、コソボの子どもたちのもとを訪れた国境なきピエロ団の作文を紹介したい。この作文コンテストの応募資格は、アルバニア、ボスニア&ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、キプロス、エジプト、F.Y.R.O.M、ギリシャ、イスラエル、ヨルダン、レバノン、マルタ、モルドバ、モンテネグロ、パレスチナ、ルーマニア、セルビア、スロベニア、トルコの居住者のみ。五位までの作品は、ギリシャの学校生徒に配布され、2008年の北京オリンピックのギリシャ・ハウスでも展示された。(和田恵子)

作 コスタス・ハララス
英訳 ブライアン・ホラビー

「なぜ、コソボの子どもたちは笑わないのだろう?」
「君たちが初めてここにやって来たときに説明したはずだがね」コソボ自治区平和維持軍のノルウェー人司令官は言った。尋ねたのは『国境なきピエロ団』の責任者、ゲーリーだ。ここはコソボの首都プリシュティナ。二人は指令本部の建物に入って行った。いい加減なつづりで「ようこそ」と壁に銃痕で穿たれた言葉が彼らを出迎えた。彼らはコーヒーを淹れ、話を続けた。
「ここは狙撃兵や密輸業者が暗躍する国境なき危険地帯だ。こんなところまでやって来る君たちの気が知れんよ」
司令官は修羅場をくぐり抜けてきた百戦練磨のつわものだ。
そもそも、コソボの学校に『国境なきピエロ団』を派遣するなどというのは、国連当局が言ってきたときから気に入らなかった。
この二人には何ひとつ共通点があろうはずもなく、戦う術はまったく違っていた。しかし、この軍人と芸人の間にもある共通の使命があった。一人にとっては停戦決議を実行して戦いからコソボを解放することであり、一方にとっては笑いと手品で子どもたちの恐怖と不安を解いてやることだった。
平和は投票などでもたらせるようなものではなく、自らの行動で獲得するもの。ロンドンから来た若いゲーリーはそのことを十分に分かっていたようだった。
「子どもたちを笑わせるには、まず大人が笑うことだ」と、司令官が言ったことがあった。いつも黒い縞々ズボンにサスペンダー姿のゲーリーは、この言葉に返した。「大人を笑わせるには、子どもたちが笑うことが必要なんです。笑うことはピアノを弾くようなもの。弾き方を忘れてしまったら、一からおさらいし直さなければならない。でも子どもなら学ぶことにかけては天才ですから」と。
ゲーリーはそう言いながら続けた。「あなたが正しいのかもしれない。私たちはここで何ひとつ成果は上げられていないんですから。パントマイムも手品も、ピエロの赤い鼻だって何の役にも立たなかった。世界中を回ってきたが、こんなことは初めてだ」。彼の声からは明るく情熱的な響きは消えていた。
多彩なメンバーでチームを組み世界各地を訪れるようになる前、ゲーリーはロンドン屈指の名門校で演劇を学ぶエリート学生だった。世界の舞台から降るほどの誘いがかかっていた。ロンドン演劇界の若きスターは引く手あまたで、雑誌の表紙を飾ることだって夢ではなかった。しかし、たった一つの赤信号が彼の人生を大きく変えてしまうことになる。
ある日のオーディションの帰り道、ゲーリーは激しい交通渋滞に巻き込まれた。疲れきっていた彼は赤信号に苛立ち、その場で車を乗り捨てた。目の前を通り過ぎた黒い衣装の一団になんとなくついて行きながらふと、自分もまた黒い服を着ていることに気づいた。まるで、教会へと向かうこの無言の列に加わることが運命であったかのように。ゲーリーは葬儀の最後列に紛れ込んだ。隣には一人の少女が座っていた。前列席に座らせようとする両親に逆らって頑固にそこを動こうとはしない。少女の目は、先ほどから棺に釘付けになっている。ゲーリーは何気なくポケットから硬貨を1枚取り出し、手のひらに乗せて見せた。次の瞬間、硬貨は消えたかと思うと、もう片方の握った手の中から現れた。硬貨は現れては消え、消えてはまた思いがけない所に現れる。靴や帽子の中、むく犬の毛の中などから。この手品を教えてくれたのは誰だったろうか。子供の頃だったようにも思うし、違うかもしれない。
少女の気を引こうと披露した手品だったのに、当の本人は微笑みすらしなかった。だが、ゲーリーには分かった。ほんの一瞬だったけれど、少女の視線を棺という悲しい現実の光景から逸らしてやることができたことは確かだった。
このとき、若い役者の卵は天から授かった自らの使命を悟った。絶対的な恐怖の前で笑いをもたらすこと。この出来事は彼の未来をすっかり変えてしまった。役者としての名声やらゴシップで週刊誌を賑わす代わりに、彼は手品の腕を磨き、プロの道化師たちとともに「国境なきピエロ団」を結成した。国連の保護のもと、彼らは世界中の戦争や紛争で引き裂かれた地域を回り、ほんの数日前までは子どもでいられた人々に、ささやかな平和と安らぎをもたらした。
ところが、どういうわけかここコソボでは、どんな手品をしてみせても何の効き目もないのだ。
その日ゲーリーは空色のヘルメットの兵士たちで溢れる国連の司令本部に立ち寄った。ピエロ団が帰国することを報告するためだ。
「最後にもう1度だけ、挑戦させてもらえないだろうか」。ゲーリーが言った。
「まったく君は、国境なき強情っ張りとでもいうところだな」。見上げたやつだ、とでも言いたげに司令官は苦笑した。いかめしい軍服に隠された彼の素顔がちらりとのぞいた。
ゲーリーは、いつ果てるとも知れぬ紛争のなかでコソボでも最も孤立した学校に向かった。なんとか子どもたちを笑わせようという彼の最後の挑戦だった。護衛として平和維持軍のトラックが同行した。
ゲーリーが校舎の前でトラックを降りたその瞬間、狙撃兵の銃弾が彼を撃ち抜いた。防弾ジャケットを着ていたら助かったかもしれない。が、ピエロが防弾ジャケットなど着ていたら誰も笑ってなんかくれないよ、とゲーリーは常日頃から言っていた。机の下に隠れなさいと叫ぶ教師を無視して、子どもたちが校舎の窓に押し寄せてきた。その熱気で窓ガラスが曇り、倒れたゲーリーの姿はやがてかすんで見えなくなっていった。
「国境なきピエロ団」はその日のうちにコソボを去っていった。後にはゲーリーの亡骸と2000個のピエロの赤い鼻が残された。荷物の中に赤鼻を入れる隙間など、もうどこにもなかったのだ。
やがてゲーリーの両親がプリシュティナに到着した。両親は彼をコソボに埋葬することにした。戦乱の中にあってもなお、笑いと生きる力と希望に溢れる子どもたちの姿を取り戻そうと、ゲーリーが強く願い続けた、このコソボの地に。
その日、プリシュティナの共同墓地にはどんよりとした鉛色の雲が重く垂れ込めていた。と、突然、平和維持軍の駐屯地のあたりから金属音が轟いた。ノルウェー人司令官率いる装甲車部隊が街路を行軍し始めたのだ。
それだけでも突飛な出来事だったが、疲れきった市民の手を止めさせてブルーヘルメット姿の兵士たちに目を向けさせたのは別のある光景だった。若者も年寄りも、セルビア人もアルバニア人も、男も女も、全員がわが目を疑った。女たちはパイを焼いていたのを忘れ、子どもたちはペナルティキックの途中でサッカーの試合を中断し、男は髭剃りの手を止めた。人々の口元に微笑みが浮かんでいた。
いかにも軍人らしい威厳を漂わせた司令官が、先頭のトラックから現れた。なんと彼の顔の真ん中には、ピエロの赤い鼻が誇らしげに鎮座しているではないか。彼の後には、赤い鼻をつけた何百人という兵士が続いていた。「国境なきピエロ団」が残していった、あの赤鼻だ。
銃声は響かず、悲鳴も聞こえない。軍靴の鋲の響きが重くよどんだ空気を切り裂くこともない。あたりには静寂が戻っていた。ただ子どもの幸せそうな歌声だけが響いている。停戦の種は蒔かれた。あとは、それを花開かせる希望の慈雨を待ち望むだけだ。
赤鼻をつけた青ヘルメットの国連部隊は、ゲーリーに対する心からの敬意をこめて一斉に敬礼を捧げた。コソボでの「国境なきピエロ団」とゲーリーの活動は、決して無駄ではなかったのだと。

メルボルン大会閉会式を演出した少年の話

2009 年 10 月 10 日 Comments off


執筆・写真:和田 恵子

※この記事は2007年7月に執筆されたものをJOA Review アーカイブ(第0号)に掲載しています。

ジョン・ウィングと出会ったのは、英国オリンピック・ファウンデーション(英国NOA)のセッションだった。2007年2月23日から3日間にわたって行われたセッション最後の全体会で、司会に促されてジョン・ウィングは話し始めた。参加者は、メルボルン大会閉会式での自由行進を提案した中国系オーストラリア人の話に聞き入った。国別の整然とした行進にならず、それがかえって感動的だったいう閉会式は1964年の東京オリンピックが初めてだと思っていた私は、1956年のメルボルン大会の閉会式ですでに自由な入場行進があったことを知って驚いた。その経緯に興味を持ち、帰国後ジョン・ウィングに依頼して資料を送ってもらった。

ジョン・ウィングと筆者

ジョン・ウィングと筆者

メルボルン大会が行われた1956年は、スエズ危機、ハンガリー動乱が発生した年だった。そんな不穏な世界情勢の中で、第16回オリンピック競技大会が開催された。ティーンエージャーだったジョン・ウィングは、メルボルンオリンピック組織委員会のケント・ヒュー委員長に宛てて手紙を送った(1)。

メルボルン・オリンピック組織委員会に送った手紙(オーストラリア国立図書館の許可を得て掲載)

(1)メルボルン・オリンピック組織委員会宛手紙(オーストラリア国立図書館の許可を得て掲載)

「私は17歳になったばかりの中国人です。(中略)私は閉会式では、全員が1つの国になることを考えています。戦争、政治、国籍をすべて忘れて、1つの国になる。それには、各チームがばらばらになって、選手達が自由に歩いて、観衆に手を振る・・・。」この手紙には、絵も添付されていた(2)。

提案者の名前も素性もわからないまま(署名判読不能と当時の新聞には書かれている)、この案が組織委員会により採用されたのだ。閉会式では彼の望んだとおり、旗手だけが整然と行進し、選手達は混ざり合って行進した(3)。

メディアはすぐさま提案者は誰かと騒ぎ始めたが、ジョン・ウィングはヒュー組織委員長に名前を明かしたくないとの二通目の手紙を書き送り、それ以来沈黙を守り続けた。家族にさえも自分が発案者であることを話さなかったという。

メルボルン大会から30年後の1986年、オリンピック大会をテーマに論文を執筆していたシェー

(2)手紙に添えられていた絵(オーストラリア国立図書館の許可を得て掲載)

(2)手紙に添えられていた絵(オーストラリア国立図書館の許可を得て掲載)

ン・コーヒルが故ヒュー卿の資料の中からウィングの手紙を発見。これをきっかけに「John Ian Wing」にメディアが注目し

he Herald and Weekly Times Ltd Melbourne

(3)The Herald and Weekly Times Ltd Melbourne

た。ハリー・ゴードンが執筆した1986年9月22日付けのTIME誌(4)発行の24時間後にはウィング探しが始まり、1969年からロンドンに居を移していたジョン・ウィングの存在は、その翌日にはオーストラリア中の知るところとなった。

米ソの冷戦で世界が不安定な当時、ジョン・ウィングが求めていたのは、世界中のアスリートが笑顔で、観衆に手をふり世界の友好・平和・調和のメッセージを送ることだった。オリンピックを通じて平和のメッセージを送りたいという当時17歳の若者の提案を組織委員会が受け入れ、さらにIOCの承認も得て実行する-現代ではとうてい考えられないようなエピソードを当の本人から直接聞く機会を得たことはとても幸運なことだった。

(4)Harry GordonによるTIME誌記事

(4)Harry GordonによるTIME誌記事

世界の若者に向けて、ジョン・ウィングは次のメッセージを送っている。
“Don’t write a letter of complaint. Offer a solution”
(不平不満の手紙を書くのはやめて、解決策を示そう)
ジョン・ウィングのウェブサイトは以下の通り。
www.johnwing.co.uk

第29回オリンピック競技大会(通称・北京オリンピック)は、2008年8月8日(金)より24日(日)までの17日間、中国の首都・北京市を主会場にして開催された。この北京オリンピックには史上最多の204の国と地域から11,000人近い選手が参加し、28競技302種目が実施された。前回のアテネ大会の参加国・地域は202、実施種目は301なので、そのいずれにおいてもアテネ大会を上回り、史上最多を記録した。

2006ワールドカップを取材して

2009 年 10 月 10 日 Comments off

-ドイツのオリンピック施設訪問-


執筆・写真:白髭 隆幸

※この記事は2006年7月に執筆されたものをJOA Review アーカイブ(第0号)に掲載しています。

2006年7月9日、FIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップ決勝戦が行われたベルリン・オリンピックシュタディオンには、オリンピック旗が翻っていました。

観客で埋まる2006年ドイツ・ワールドカップ会場

観客で埋まる2006年ドイツ・ワールドカップ会場

なぜワールドカップ決勝戦の場にオリンピック旗なのか? その理由は定かではありません。
6回連続でワールドカップを取材することができました。6月5日に日本を出発、7月13日に帰国するまで39日間、全12会場で22試合を取材することができました。
28年ぶりに訪れたベルリンを中心に、ドイツのオリンピック施設の現在をリポートします。

1936年、第11回オリンピックのメインスタジアムになったオリンピックシュタディオンでは、決勝戦を含む6試合が行われました。
メディアセンターは、1936年のオリンピック当時、マイフェルト(5月広場)と呼ばれた大きな芝生の広場にありました。ポロや2万人のデモンストレーション・マスゲームを行ったところに巨大なテントを建てて臨時にこしらえられたものですが、さすがに決勝戦の会場だけあって立派なものでした。
メディアセンターからの特設階段、通路を通りスタジアムに入りました。回廊が意外と狭いのにはビックリしました。
わたしにとっては28年ぶりのベルリン・オリンピックシュタディオン。屋根はついたものの基本的な骨格はそのままです。なんでも今回のワールドカップのために大理石に番号を振って分解掃除し、再び元の位置に戻す工事を4年間かけておこなったそうです。

基本的な骨格が1936年当時のままのオリンピック・シュタディオン

1936年当時の骨格を残すオリンピック・シュタディオン

オリンピックシュタディオンを1周ぐるっと回ってみました。スタジアム後方の鐘楼(グロッケンタワー)上に釣り下げられていた大きな鐘(『わたしは世界の若人を招く』とドイツ語で彫ってあります)も昔通りメインスタンド後方に置いてありました。ナチスの鍵十字が鋳潰してあるのが印象的です。

バックスタンド後方には、オリンピック・スイミングシュタディオンが健在でした。スタンドは古色蒼然としていますが、プールには奇麗な水が張ってありました。現役のプールのようです。
ベルリンオリンピックの優勝者が彫ってあるマラソンゲートの壁にも近くまで行けました。「SON JAPAN」の文字が印象的です。サッカーはベルリンオリンピックではイタリアが優勝しています。今回のワールドカップでもイタリアが優勝したわけですから、ベルリンのイタリア不敗神話は生き続けているようです。

オリンピック・スイム・スタディオン

オリンピック・スイム・スタディオン

ワールドカップ決勝戦前のアトラクションは、聖火台前の階段で行われました。グラウンドを痛めないので良い趣向であると思いました。試合中はボランティアの人たちが階段に座って試合を観戦していたようでした。

決勝戦の2日後、ブランデングルグ門近辺のお土産屋に1936年オリンピック開催時のベルリンの地図が売っており、それを買い求めてから、現在のオリンピックと比較しながら歩くことにしました。決勝戦直後は、後片付けのためにオリンピックシュタデイオン周辺が閉鎖されており、シュタディオン自体には近づけませんでした。
1万人収容のテニスのセンターコートは、子供の遊び場になっており、その周辺で道に迷う一幕もありました。もう帰ろうと逆にまわりSバーン駅前のレストランでビールを一杯飲んだら元気が出まして、裏に回ってみると、なんとマイフェルトのグロッケンタワーが登れるとのこと。しかもエレベータでかなり高くまでいける(お代は3ユーロ50=約500円)というではありませんか。さっそく登ってみました。
いやあ~、ベルリン市内が一望できました。目のまえにはオリンピックシュタディオン。感動です、古地図で確認したところ、さきほど道に迷ったところ以外は、ほぼ1936年から変わらず施設は残っているようです。
決勝が行われたオリンピックシュタディオンの芝生は奇麗に剥がされていました。多分希望者に少しずつ小分けにして頒布されるのでしょう。

メインスタジアム裏に移動された鐘

メインスタジアム裏に移動された鐘

塔には新しい鐘(本来付けられていた鐘は、戦後イギリス軍が塔を爆破した際に地上に叩き落とされ、それをメインスタジアムの裏に移動した)も釣り下げられていましたし、塔の内部は博物館になっていて、いろいろとドイツの資料が詳しく解説されていました。ここらあたりも歴史を残すのか、それとも負の遺産だからすてるべきなのか、むつかしいところですね。

ブランデンブルグ門の横にある、あのホテルアドロン(1940年、東京が第12回オリンピック開催国に選ばれた際、IOC総会が開かれた老舗ホテル)にも行きました。東ベルリン時代は二流ホテルになり下がっていたようですが、統一後、戦前と同じように超高級ホテルに復活したようです。ちなみに1泊ルームチャージが5~6万円するそうなので泊まるのは断念。テラスでご当地名物のベルリーナヴァイセのグリーンを飲んでみました。白ビールに木苺のジュースを混ぜたもので、ちょっと甘いのですが、とても美味しかったです。

ベルリンにはオリンピックの痕跡をたくさん見つけられましたが、1972年のミュンヘン・オリンピックの会場は、まったく今回のワールドカップとは関係していませんでした。パブリック・ビューイングの会場には使われていたようですが、本番は新しく建設されたAOLアレナが会場になっていました。
1974年の西ドイツワールドカップの際には決勝戦が行われたミュンヘン・オリンピックシュタディオンですが、老朽化がひどくて現在のイベントでは使えないそうです。70年前、1936年のベルリンのスタジアムが復活したのに、34年前のスタジアムが使用できないというのは皮肉ですね。

準決勝戦と決勝戦のインターバル休みの2日間を利用して、チロルに行ってみました。1936年の第4回冬季オリンピックが開かれたガルミッシュ・パルテンキルヘンと1964年の第9回と1976年の第12回冬季オリンピックが開かれたインスブルック(オーストリア)のシャンツェ(ジャンプ台)を訪問しました。
ガルミッシュ・パルテンキルヘン駅裏にあるアイスシュタディオンは、フィギユアスケートとアイスホッケーの会場になったところ。木の板で作られたアリーナは今でも現役のスケート会場です。夏の間はコンサートの会場になるため、中には入れませんでしたが、屋根がつけられて現役バリバリの競技場です。
そこから、いかにもチロルという雄大な景色を眺めながら町外れに移動。オリンピックシャンツェがあり、開閉会式会場にもなったスキーシュタディオンを訪問しました。

子どもたちがサッカーを楽しむシャンツェのブレーキング・トラック

子どもたちがサッカーを楽しむシャンツェのブレーキング・トラック

シャンツェのブレーキングトラックは奇麗な芝生が植えられており、そこでは子供たちがサッカーを楽しんでいました。その横のノーマルヒルシャンツェではサマージャンプをやっているし、日本の大倉山や白馬よりも、ずっと有効利用をしているようです。オリンピック開催は80年前のことですから、ドイツという国は一筋縄ではいきません。
わたしにとって収穫だったのは、オリンピック金メダリストの刻印を見つけたこと。門柱にベルリンのオリンピックシュタディオン同様、優勝者の名前がドイツ語で彫り込まれていました。過去2回の訪問時には気が付きませんでしたから、大きな成果です。
シャンツェ正面には、その名も「オリンピックハウス」というロッジ風の建物があり、1階はレストラン、2階はホテルのようでした。1936年当時から大切に使っている建物のようで、そこのテラスで食事を摂ったのですが、夕暮れのシャンツェを眺めながらのディナーは、なかなか雄大で気持ちがよかったです。すっかり暮れてしまうとラージヒルのジャンプ台がライトアップされ、なかなか良い感じでした。

インスブルックの一つ手前の駅近くにべルクイーゼル・シャンツェが見えました。インスブルック駅のインフォメーションで手に入れた地図によるとそれが1964年と1976年の冬季オリンピックの開会式とラージヒルジャンプ(当時は『90m級純ジャンプ』と呼ばれていました)が実施されたシャンツェです。

ベルクイーゼル・シャンツェのジャンプスタート地点

シャンツェのジャンプスタート地点から

ギリシャの円形劇場を思わせシャンツェは、思っていたより小ぶりでしたが、なかなかコンパクトなものでした。入場料を払って入れば、ジャンプのスタート地点までゴンドラとエレベータであがることができます。
二つある聖火台の下には2大会の全種目の金、銀、銅メダリストの銘版がはめ込まれていました。
2002年に新設されたスタートハウス上まで登ると、インスブルックの街は一望のもとです。そこでアイスシュタディオンの位置が確認できたので、行ってみることに。横には2年後のサッカーユーロ2008(ヨーロッパ選手権)で会場の一つに選ばれているチロルシュタディオンが改修中でした。アイスホールの横にスピードスケートの会場があることもわかりました。

以上が、今回のワールドカップの際に見て回ったオリンピック関連施設のレポートです。ぜひ機会があれば訪ねてみてください。

トリノ便り

2009 年 10 月 8 日 Comments off

執筆・写真:舛本 直文

※この記事は2006年2月に執筆されたものをJOA Review アーカイブ(第0号)に掲載しています。

移動日
2/8(水)

夕方、飛行機が遅れながらもトリノ空港着。今回はトリノ市内のホテル代があまりに高額なので、フォート・岸本さんの取材拠点にお世話になることにした。空港から岸本さんにTELしてタクシーでホテルに向かう。乗ったタクシーは英語が分からない運転手で困るが、ぶっ飛ばしてもらい何とかレジデンス・サッキに到着する。早速24時間警備のお巡りさん?に尋問され、パスポートを見せろと言われる。そこに丁度岸本さんのところの若い人に来てもらって助かる。車の音がしたので出てきてくれたのだ。この夜はピエモンテのワインをごちそうになり早めに休む。

2/9(木)
今朝は冬季オリンピック大会(OWG)のシンポジウム。朝、岸本さんに起こしてもらって草々にトリノ大学へ向かう。マダーマ宮殿の近くのはずだが、場所がよく分からない。通行人に大学を聞いて行ってみると全く違うところに大学があるという。そちらのキャンパスに行ったがオリンピック・シンポジウムなど開催されていないという。また、マダーマ宮殿近くに戻って探してみる。あった、あった。古いバロック風の伝統ある建物だ。結局、遅れて会場に到着するが、また問題。建物の入り口には何もでていないのでよく分からないのだ。居合わせた学生に聞いてようやくホールの建物がわかる。会場に入ると丁度、開会の挨拶中。約50人強が歴史ある大学の建物の中に集まってシンポジウムが始まった。レジストレーションをすませて会場を見渡すとJanet Cahilがいて手を振っている。懐かしい顔だ。コーヒーブレークで久しぶりの挨拶を交わす。

シンポジウムの開始は前IOCマーケティング部長のマイケル・ペインのキーノートスピーチから。「OWGのDNA」という興味深いテーマで話している。VTRを使うが、それはIOCのHPのCelebrity Humanityから見せている。あまりたいしたものではないが、やはり映像の力は大きい。OMERO(Olympics and Mega Events Research Observatory, University of Turin, Italy)というトリノ大学のオリンピック研究チームはトリノ大会による地域に活性効果やアルプス地域の再開発にテーマの照準を絞って報告していた。政治家や経済学者が中心の研究チームだからそうなるのだろう。

昼食からワインがそろえてある。ケイタリングを使って豪華な食事を楽しむことができるという配慮だ。午後は2会場に分かれて発表が続くが、テレビとコミュニケーションのセクションの方が人気だ。しかもカナダのCBCテレビが取材に入るので盛況である。私たちのセクションは歴史、文化、教育がテーマなので聴衆も少ない。しかし、歴史あるすばらしいホールでのシンポジウムだ。ドイツのマインツ大学のオリンピック研究チーム(このシンポジウムの共催チーム)のボスであるDr.ミューラーが病気で欠席したのが残念。代読でOWGの歴史研究の報告があった。英国の研究者であるガルシアとアンディにも会う。ガルシア女史とは本当に久しぶり。シドニー以来だ。彼女はオリンピックの文化プログラムについて報告したが、夏の大会の報告が多い。文化プログラムは規制がないので自由だが、様々なねらいがある多様性を持っている。

私はリレハンメルの冬季大会の終了後にこれまで3回実施されてきた「環境、平和、若者」へのメッセージリレーの現状について報告した。ほとんどの人が知らない世界の話題である。夏の大会はこの手のリレーをしていない。草の根の活動でヒーローやヒロインがいないためメディアの関心がないのが知られない大きな理由である。質問は、「夏の大会にはないのか? IOCは何故関与しないのか?」というものであった。夏は長野のチームが考えていること。IOCにはお金の関心しかないので、サポートはしないだろうというのが私の回答であった。

夕食のディナーはバスで1時間以上も走ったレストランへ。ピエモンテ州の郷土料理を堪能する。ドイツの友人でオリンピックの経済学者であるホグラー・プロウスとトリノ大学のチート・グアーラ教授にお礼の意味で法被を送る(JOAの佐藤さんにいつもお世話になっている法被だ)。これはハッピにかけてHappy Coatというのだと教えてあげる。デザインがコミカルで2人ともずいぶん喜んでくれた。記念写真もなかなかいい感じのものがとれた。メイルで送っておいた。遠くのレストランで夜遅くまで盛り上がった。実は、岸本レジデンスに帰ったのが夜中の1時半であった。帰り際にIOAのオリンピアの参加者でつくっているIOAPAという会合が翌々日の夕方にポルタ・ヌォーヴァ駅近くのホテルで開催されると聞くが、残念ながらその夜はフィギュアスケートのペアのショートプログラムのはず。残念。

2/10
今日は開会式。午前中にJapan HouseとMIZUNO caféを訪問する。水野社長は不参加とのこと。残念。その後、オリンピック・ストアに防寒コートを買い求めに行くがいいものはない(実は日本を発つ前にバタバタしてコートのフードを忘れてしまったので、今夜の開会式が寒いとたいへんだからと思って探しに行ったのである)。Asicsの製品ばかり並んでいる。オフィシャル・サプライヤーなのだ。いつもの定番の小物を買って昼は岸本弁当ですませてHolger Preusに会いに行く。彼をJapan HouseとMizuno Cafeに案内する。オリンピック経済学者らしい質問がJOCのスポンサーシップに向けられた。

その後、サン・カルロ広場でNBCのTVブースを見学に行くとトーチが3時過ぎにくるということ。それを見て開会式に向かうことにする。ドイツ研究グループと一緒に行動するが入場が遅くなる。セキュリティ・チェックはさほど厳しくはなさそうであるが、それでも長い列ができている。会場内に入ってもなかなか案内が分からない。イタリアらしいところ。ようやくたどり着いたBカテゴリーの席はフィールド内、傾斜がないのでよく見えない。最悪の場所だ。おそらくテレビ向けのパフォーマンスはCカテゴリーの方がよく見えたかもしれない。

雪と氷のない開会式。テーマはFireだ。
サプライズは、小野ヨーコ、パバロッティか。花火と警備のヘリの混在した開会式はソルトレークでもしかり。
閉幕後、フィールド内のBカテゴリーの観客はスタンドの観客が退席するまで待機させられる。おそらくシャトルバスには乗れないとあきらめ、徒歩で岸本レジデンスまで帰宅する。岸本さん達はバスで帰宅。私の徒歩の方が早く30分ほどでレジデンスに到着した。
後で岸本さんに聞くと、東京都の副知事や参事が見物にきていたそうで、パフォーマンスに感心しては歓声を上げていたそうである。この後この集団は一体何を調査するのか・・・。

大会第1日目
2/11(土)

トリノ市内。2/10の開会式も済み、翌11日には街はすっかりオリンピックムードになる。デコレーションも整ってきたようだ。今日は土曜日ということもあって子ども達の姿も多い。岸本さんと一緒に買い物がてら街の様子を見にでかける。先ずはガイドブックにも出ている有名なPayranoというチョコ屋さんに出かけてお土産を購入する。次ぎに、スポンサーズ・ビレッジに出かける。SAMSON、Panasonic、FIAT等の展示館である。公園のような一角にどーんとスポンサーがのさばっている。入場するにはセキュリティ・チェックを受けなくてはならない。おかしなものだが、、、。中にはゲーム機などもあり子供受けする企画も考えられている。レストランの一角にはローザンヌのオリンピック博物館のロゴで聖火やマスコットが展示してあった。もう少し大々的にオリンピック史や教育的な展示があっても良さそうなものであるが・・・。公園の中央には即席で氷が張られている。ロシアのブッチルスカヤがソロで氷上の舞を見せてくれたが、子ども達の滑りがあった方が遙かにいいものでは無かろうか・・・と思ったりする。

街中は結構な人出である。Italyartという文化プログラムにEthical Villegeというのがあったのでそこに岸本さんと出向く。近くのテレビ局の前で女性ボランティアに声をかけられて、岸本さんも一緒に「オリンピック休戦」の大きな本Bookに署名する。これは本当に思いがけずラッキーであった。Villageのテント内にはたいしたものはなかったが、オリンピックの理念と車いす式のそり(スレッジ)など身障者向けの展示がしてあった。このテントには人が少なく、やはり関心が薄いのであろう。

岸本さんと歩き疲れたのでpiazza Carlo Arbertoにステージとカフェがあったので一休みだ。カプチーノを頼んでブラス音楽の演奏を聴く。ここでも子ども達の出番があればと、残念に思う。音楽を楽しんでいると変なベルの音がする。突然、悪魔のようなお面や服を着た「リセリ」と呼ばれる悪魔達が乱入してきた。あたりはカオス状況に陥る。どうも女性にとりついているようである。私も記念写真を1枚。世界的カメラマンの岸本さんにシャッターを押してもらう。これはいい記念になる。サン・カルロ広場で岸本さんと別れて一人でカナダハウスに向かう。広場では子どもと親であろうか、ミニホッケーに興じている。やはり、アイスホッケーを国技とするお国柄だ。ハウスはログハウスでできていて結構いい感じだ。入るとカナダのメイプルリーフのピン、小旗と新聞をくれた。中はすごい人出。やはり交流館はこうあって欲しいものだ。ゆっくりビデオ上映を見る暇はなく早々に立ち去る。

夜はフィギュアスケートペアのSPを見に行く。初のフィギュア観戦。楽しみである。今回の標語はPassion Lives hereである。井上ペアの演技が楽しみである。中国ペアのできがすばらしい。しかし、少々細身すぎるのではと思うことしきりである。会場では何も盛り上げるものも子ども達のパフォーマンスもなくて残念。チケットはAカテゴリー(JTBがBカテゴリーを入手できなかったのでラッキー)。放送ブースのすぐ横。いい位置だ。斜め前には滑り終わったペアが得点発表を待つ席も見えるし、プレゼントの花束や人形を取りに行く豆スケーター達が待機しているのもよく見える。しかし、テレビカメラの数の多いことに驚く。TOBOのゼッケンを付けたスタッフが大勢見える。整氷の間にはやはり子ども達のアトラクションでも欲しいところだ。

大会第2日目
2/12(日)

日曜日の朝、買い物に出かけるがほとんど閉まっていて、果物もビールもワインも手に入らない。あきらめてパン屋が開いていたのでグリッシーニという細長いパンを買って帰る。朝食を簡単に済ませ、12時に街の様子を見に出かける。今日はメダル・プラザの向こう側、ガルバルディ通り、共和国広場、ドゥオーモあたりを狙って出かける。途中で、ポルタ・ノーヴァ駅の構内を抜けるとストアがあり、ビールも売っていたので早速買い込んでレジデンス岸本に届けておく。(ゲストなのであまり勝手はできないのであるが・・・。)

さて、街はすごい人出。さすがに日曜日。チョコレートの屋台街に出ると既にお土産を買ったPayranoが出店していたので、バラッティという三角チョコを買ってみる。10ユーロもするのできっと大変においしいのであろうと推測する。ドゥオーモへ行くとほとんど人がいない。流れはガルバルディ広場に向かっているようである。メダル・プラザで流れがせき止められているようである。観光気分になって教会の中に入ってみると、そこはキリストの亡骸を包んだといわれている聖骸布が置かれている教会であった。イタリアンアートという文化プログラムの1つである地下の教会といわれる博物館も見て回った。王宮には入れないということであった(実は入れることは帰国して知った。残念)。夕方のアイスホッケー女子の試合を見に行くためのシャトルバスを確認するが、トラムで行けというのでやはり、いつものポルタ・ノーヴァから行くことにする(実は同じトラムであることが後に判明。しっかり歩いたなー)。共和国広場という名前に惹かれて行ってみるが、どうも怪しげな人たちが沢山たむろしている。早々に立ち去り、ガルバルディ通りに向かう。多くの人出で大道芸もいる。帰国するときにバスでここを通った。バザールが沢山でていた。そのときは日曜日でバザールも休みだったのである。

街の散策の途中に、O.コスが提唱している”Right to Play”の展示館がありのぞいてみるが、誰もいない。昔はOlympic aidと呼んでいた世界中の子ども救済支援活動である。残念な限りである。写真とVTRを取ってまた散策を続ける。街中に子ども達のパフォーマンスなどがないのが残念である。このガルバルディ通りの途中にユーベントスのサッカーショップがあった。ここではお店をバックに記念撮影するサッカー好きの観光客の姿も見られた。お昼時、マダーマ宮殿前に行列ができているピザ屋があったのでマルゲリータを1枚買って立ち食いしてみるが、さほど感心するほどの味ではない。さっさとシャトルバスでアイスホッケーの会場に向かう。

エスピオジオーネというのがホッケー会場。磯崎新設計のホッケー会場とは別のものである。シャトルを降りると会場の反対側までぐるりと回される。結局ポー川沿いまで歩くことになり、ついでに川縁りの写真を撮影しておいた。入り口の周りには湖上の雰囲気の建物やすてきな池と滝が設置してある。しかし警備の警官が沢山いる。警備陣の彼らは一体どこに住んでいるのか心配になる。セキュリティ・チェックではミネラル・ウォーターのキャップを取られてしまう。全く、場所によって方針が違うようである。会場内でミネラルを買うとこれもセキュリティのためキャップをとられてしまう。どうしてセキュリティのためなのか、全く分からない。おかしなものだ。案の定、座席に座ると隣の子ども連れの母親がボトルをけっ飛ばして倒してしまったではないか。

ゲームには2424人の観衆が詰めかけたという場内放送が最後にあった。女子のホッケーがどのようなものか楽しみにする。しかし、ゲームはカナダの一方的な試合。12-0でカナダの圧勝。中でも驚いたのが試合を盛り上げようとする趣向だ。座席の通路にチアガール達が出てきて踊り出す。笛でゲームが止まれば拍手を求められ、チアガールが踊り出す。会場はゲーム内容よりもエンターテイメント志向がありありである。テレビ向けの志向が見え見えである。観客もそれをよく知っているようで、演じさせられながらもビデオ画面に映ることを楽しんでいるようだ。しかし、今回の会場では座席の前方にクレーンカメラがあり、見るのにじゃまになる。しかも端の方で、、、。少々残念。ロシアの子ども連れ、イタリアの子ども連れ、カナダの子ども連れと親子連れの光景がほほえましい。子ども達は館内の音楽に合わせてすぐに踊り出す。そのうちに、クレーンカメラが執拗にカナダ国旗を振る女の子達を狙っている。ディレクターの指示? カメラマンのアイデア? 子ども達にとって素晴らしい思い出になるに違いない。この会場でもグリッツとネーベというマスコットが人気であった。このマスコットが人気で売れ切れだそうだ。私はそんなに気に入らず、お土産には買わなかったのだが、、。氷上のトリノのロゴの向きから正面席中心、チアリーダーはバックスタンドで踊る。正面席はメディアがどーんと構えているし、その下は役員などであるから、どう見ても正面席から見たテレビ向けのショーアップとしか思えない構造である。

夜はサン・カルロ広場でメダル・セレモニーのパブリックビューイングである。寒いが膝掛けまで出してテレビウオッチする。音楽ショーの後3種目の表彰が執り行われた。会場内には整理券がないと入れない。広場に設けられた大型ビジョンで見ると、会場内は空席が結構目立つ。役員の席か?膝掛けを用意してあり大変なことである。子ども達がヒーローやヒロインにふれられるチャンスは? この夜は、男子スピードスケート5000mでイタリアの選手が銅メダルを取ったのでかなり盛り上がった。やはり大会が始まれば、地元も大いにわくようである。

夜は岸本さんにまたワインをごちそうになりながら、様々な話を伺い、IOC、JOCの問題を話し合う。オリンピックがおかしくなっていることや、JOAの活動などをいろいろ考えさせられた。

今日のまとめ:
* 街中に選手や観光客が大いに増えて楽しんでいる。
* 子ども達のパフォーマンスは見られない。
* 会場付近は警備ばかり目につく。盛り上げる気配がない。
* セキュリティは厳しいがミネラル・ウォーター栓の開封には困ったものである。
* 会場内はアナウンサーとチアリーダーによる盛り上げとテレビ志向の仕掛けである。
* パブリックビューイングはもう少し盛り上げ方があってもよいのかも・・・。
* 他の所でのパブリックビューイングは?

大会第3日目
2/13(月)

朝、岸本さんにおにぎりの朝食をいただく。おいしい朝食だ。その後、岸本さんと一緒に散策にでる。先ずはカナダハウスへ。先日と比べあまり人がいないのに驚く。平日のせいかも。カナダ政府のPRビデオであったのでやはりVANOCのプレゼンテーションが欲しいところで、残念に思う。この後、岸本さんの電話にチャージし、郵便局に絵はがきを落とすのにつきあう。残念ながら時間が無くなってきたので、エジプト博物館の見物をパスし、モーレ・アントネッリアーナというトリノのシンボルタワー内にある映画博物館を見に行くが、生憎月曜日は閉館日。全く残念。立ち食いピザ屋の「ラ・ピラミデ」でマルゲリータを食べると、やはりこれはおいしい。お勧めである。簡単な昼食後に岸本さんをヌオーボに案内し、少々時間がおしていたので急いでシャトルバスに乗ってオーヴァル・リンゴットに向かう。途中で停車駅を間違えて降車するが、そこはIOCの本部でMPCもあるところであった。そこから、オーバルまでかなり歩かなければならなかった。疲れているのにやれやれである。バスに同乗していたオランダのサポートと一緒に降りればよかったと悔やむ。セキュリティでは持ち込んだ水のキャップを開けさせられ、それが後のザック内水浸し事件となる。偉い目に遭う。

車中からオランダの応援団は面白い格好をしているし、オレンジカラーで統一している。それに、にぎやかだし、かなりの人数でもある、、。エンジ色のカナダの応援団もいるが、圧倒的にオランダのオレンジカラーだ。帽子に趣向を凝らしているものが多いようだ。オリンピックをお祭りのように楽しんでいる。これが一番大切なのだ。さすがにメダル希望種目の男子500スピード種目。日本人応援団も多いが、おとなしい。ともかく、面白そうな衣装や帽子をカメラに納めておく。座席はフォート岸本さんのチームの近く。最後のカーブの所だ。周りにはカナダの応援団もいる。しかし、圧倒的にオランダのオレンジカラーが席巻している。隣にはミラノからJTBのツアーで加藤丈治一家の応援団を率いてきた川村さんというガイドの方だった。23年もミラノに住んでいるとのこと。大変なものだ。

レースは日本人勢は惨敗。及川君が4位になる。加藤も清水も敗れてしまった。メダルしか関心がない日本人応援団には痛い結果であった。余り下馬評に挙がらなかったアメリカの選手が優勝をかっさらった。韓国も強かった。「この一枚」といういい写真を撮ろうとしたが、なかなかむつかしい。機材も大事だが、やはり経験不足だ。即席のカメラマンには高速スピードのアスリートの滑りなどデジカメで追いかけられるものではないのである。

このオーバルには外にステージが設けてあったので、何か盛り上げる催しものがあるのであろう。10組が滑った後で整氷する合間に、チアリーダーが場つなぎをする。こんな時には子ども達のパフォーマンスが欲しいところだ。セキュリティも面倒なのだろう。子どものパフォーマンスはオリンピックから消えてしまった。また、チアリーダーで盛り上げるのもいいが、その前に滑った選手とその後に滑る選手とではリラックスや集中力の上で支障があるのでは・・・。どちらに働くにせよ、選手には困ったことではないのか? 終了が7時半なので、都合4時間も館内にいるので、その間の盛り上げ方に工夫が必要であろう。

試合結果は残念であったが、レジデンス岸本に帰宅するとカメラマンの藤田さんが片付けにやってきて今日のスピードの結果を語ってくれる。やはり長いことアスリートをレンズを通してみているのであろう。「強い選手がやはり勝つ」という結論を聞いて納得する。日本のメディアは外国選手のことを伝えないが、カメラマン達はいつも見て知っているのだ。

2/14(火)
今日は帰国の日。朝は、体調が不良であったが何とか努めてジャパンハウスに向かう。遅塚選手団団長も来館中であったが接客中。帰国することをJOCの中森さんに告げ、水を1本もらって空港へのバスに乗り込む。途中渋滞するが早めに空港へ。ルートはいつもと違うようで、数少ない乗客達がバスの運転手と何か話している。ユーベントスのショップ前を通り、共和国広場前をバスが通る。バザーが沢山でていて、この前と違ってすごい人出だ。バスはまだ工事中の小さな空港につく。免税店でお土産にバローロの高級ワインとグリッシーニを買い込む。チーズは売り切れなど、品揃えは今ひとつ。小さなオリンピック・ストアもあったが、閑散としていた。アルバイトのお嬢さんはミラノ大学生。ボランティアは偉いがお金にならないので、バイトの方がいいと言っていた。お金を貯めてアメリカに留学したいのだそうだ。いろいろな若者がいるのだ。しかし、オリンピックボランティアはして欲しいと思う。帰りの全日空機では窓側の席、これも残念。疲れていて、ほとんど寝るであろうが、動きづらい。アルデベルチ、トリノ!!

Olympically, NAO

80歳で他界した“フジヤマのトビウオ”古橋廣之進さんの思い出

2009 年 9 月 30 日 Comments off


執筆:伊藤 公

去る8月2日、”フジヤマのトビウオ”と言われた古橋廣之進さんが80歳で亡くなった。亡くなった場所はローマ(イタリア)で、国際水泳連盟(FINA)副会長として同地で行われた”世界水泳選手権大会”に出席中の出来事だった。

古橋さんは大東亜戦争終了直後の1947(昭和22)年頃から1~2年後にかけて、水泳自由形で次々に世界新記録を樹立し、敗戦に打ちひしがれた多くの日本人に、勇気と希望を与えてくれたスポーツマンである。そして昨年(2008年)は、スポーツ選手として、初の文化勲章を受章されたことは記憶に新しいところだ。

私が”フジヤマのトビウオ”こと古橋廣之進さんと知り合ったのは、あの東京オリンピックから2年後の1966(昭和41)年のことである。出版社社員より日本体育協会(広報課)の職員となった私は、広報委員の古橋さんを紹介され、知り合った。私は30歳で、古橋さんは私より7歳ほど年上だったので、37歳くらいではなかったかと思う。
だが、古橋さんと私の距離が縮まることはなかった。それが11年後、私は職場で広報部門より国際部門へ配置転換となり、国際担当参事(国際課長)に就任させられたことによって、古橋さんと一緒の仕事をすることになり、急に身近な存在となった。
その年(1977年)の夏にブルガリアのソフィアで開催される”大学生のオリンピック”ユニバーシアード夏季大会に行くことになったのだ。日本オリンピック委員会(JOC)常任委員で、日本ユニバーシアード委員会(JUSB)委員長だった古橋さんは日本代表選手団長に指名され、副団長格の総務は日本陸上競技連盟理事でJUSB名誉主事の帖佐寛章さん。私は日本代表選手団本部役員ナンバー3の人間として、古橋団長を補佐した。
日本選手団本隊を受け入れるために旅行エージェントのM・F君(彼も本部役員)と一緒に現地へ先乗りしていた私は、1週間後に古橋さんらと選手村で合流した。そこでの最初の本部役員・監督会議で、古橋さんから厳しい指示が出された。それは、「このような大会では、連日連夜、レセプションが開催されるはずだから、招待状を受け取ったら、万難を排しても出席するように」というものだった。
国際総合競技大会において本部役員(渉外担当)初体験の私には荷が重すぎたが、古橋団長の指示なので従わざるを得なかった。古橋さんはあとで、「日本人は一般的に語学が苦手なこともあって、レセプションには出席したがらないが、堂々と出席して、世界のスポーツ界の人たちと交流を深めることは必要なことだ。そしてホスト(主催者)に一言でもいいから挨拶をして帰るのがマナーというものだ」と語っている。その言葉は、私の心に深く刻み込まれた。

スポーツの国際会議に出席したのも、この時が最初だった。ユニバーシアード・ソフィア大会の開幕に先がけて国際大学スポーツ連盟(FISU)の総会が開催されたので、日本からは選手団役員の古橋さんと私の2人が出席した。
使用言語は英語とフランス語の2カ国語だけで、もちろん日本語の同時通訳など用意されているわけではない。現役選手引退後、大同毛織の社員としてオーストラリアに滞在経験のある古橋さんは「英語のヒアリングでは80%程度できる」と語るだけあって、自信に満ちあふれている。一方の私は、10%から20%程度のヒアリングができれば上出来で、どのような結論になったかについてはチンプンカンプンで、古橋メモに頼らざるを得なかった。
当時のFISU会長は、あとで国際陸上競技連盟(IAAF)会長、国際オリンピック委員会(IOC)委員にもなったプリモ・ネビオロ氏(イタリア)で、彼はFINA理事の古橋さんをFISUの執行部に迎え入れる画策をしていた。そしてこれが、1979年のメキシコにおけるユニバーシアードの際のFISU総会で実現する。
81年5月、FISU実行委員会はブカレスト(ルーマニア)で行われた。この時に私は、夏に当地で開催されるユニバーシアード大会の事前調査のために古橋さんに同行し、FISU実行委員会の様子を垣間見たことがある。詳細については省略するが、ネビオロ会長のラブコールでFISU実行委員(理事)に就任した古橋さんは、国際学生スポーツ界発展のために尽力し、FISUに欠かせない人間になっていることをヒシヒシと感じたものだ。
ちなみに、1980年の神戸、95年の福岡両夏季大会、91年の札幌冬季大会の日本開催は、古橋さんがFISU執行部にいたために実現できた国際総合競技大会だったことは間違いない。

その後古橋さんは、日本水泳連盟会長、FINA副会長、FISU副会長、JOC会長、日本体育協会理事など内外スポーツ界の多くの要職に就かれたが、偉ぶった素ぶりを示すことは皆無だった。
古橋さんと最後に会ったのは4月2日のことで、場所は古橋さんが会長を務める岸記念体育会館1階の日本スポーツマンクラブ。他に人がいないこともあって、約15分ほど1対1でじっくりとお話を伺うことができた。その時、古橋さんが心配されていたのは2016年の東京オリンピック招致のことで、日本スポーツ界の国際人不足を嘆いておられた。
古橋さんは、日本スポーツ界の数少ない国際人でもあった。それだけに古橋さんの死は痛い。