2007年オリンピック休戦センター作文コンテスト入賞作品から
2000個の赤鼻
作品紹介と和訳:和田 恵子
※この記事は2008年9月に執筆されたものをJOA Review アーカイブ(第0号)に掲載しています。
オリンピック休戦センター(本部アテネ)が2007年に行った作文コンテストの入賞作品から、コソボの子どもたちのもとを訪れた国境なきピエロ団の作文を紹介したい。この作文コンテストの応募資格は、アルバニア、ボスニア&ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、キプロス、エジプト、F.Y.R.O.M、ギリシャ、イスラエル、ヨルダン、レバノン、マルタ、モルドバ、モンテネグロ、パレスチナ、ルーマニア、セルビア、スロベニア、トルコの居住者のみ。五位までの作品は、ギリシャの学校生徒に配布され、2008年の北京オリンピックのギリシャ・ハウスでも展示された。(和田恵子)
作 コスタス・ハララス
英訳 ブライアン・ホラビー
「なぜ、コソボの子どもたちは笑わないのだろう?」
「君たちが初めてここにやって来たときに説明したはずだがね」コソボ自治区平和維持軍のノルウェー人司令官は言った。尋ねたのは『国境なきピエロ団』の責任者、ゲーリーだ。ここはコソボの首都プリシュティナ。二人は指令本部の建物に入って行った。いい加減なつづりで「ようこそ」と壁に銃痕で穿たれた言葉が彼らを出迎えた。彼らはコーヒーを淹れ、話を続けた。
「ここは狙撃兵や密輸業者が暗躍する国境なき危険地帯だ。こんなところまでやって来る君たちの気が知れんよ」
司令官は修羅場をくぐり抜けてきた百戦練磨のつわものだ。
そもそも、コソボの学校に『国境なきピエロ団』を派遣するなどというのは、国連当局が言ってきたときから気に入らなかった。
この二人には何ひとつ共通点があろうはずもなく、戦う術はまったく違っていた。しかし、この軍人と芸人の間にもある共通の使命があった。一人にとっては停戦決議を実行して戦いからコソボを解放することであり、一方にとっては笑いと手品で子どもたちの恐怖と不安を解いてやることだった。
平和は投票などでもたらせるようなものではなく、自らの行動で獲得するもの。ロンドンから来た若いゲーリーはそのことを十分に分かっていたようだった。
「子どもたちを笑わせるには、まず大人が笑うことだ」と、司令官が言ったことがあった。いつも黒い縞々ズボンにサスペンダー姿のゲーリーは、この言葉に返した。「大人を笑わせるには、子どもたちが笑うことが必要なんです。笑うことはピアノを弾くようなもの。弾き方を忘れてしまったら、一からおさらいし直さなければならない。でも子どもなら学ぶことにかけては天才ですから」と。
ゲーリーはそう言いながら続けた。「あなたが正しいのかもしれない。私たちはここで何ひとつ成果は上げられていないんですから。パントマイムも手品も、ピエロの赤い鼻だって何の役にも立たなかった。世界中を回ってきたが、こんなことは初めてだ」。彼の声からは明るく情熱的な響きは消えていた。
多彩なメンバーでチームを組み世界各地を訪れるようになる前、ゲーリーはロンドン屈指の名門校で演劇を学ぶエリート学生だった。世界の舞台から降るほどの誘いがかかっていた。ロンドン演劇界の若きスターは引く手あまたで、雑誌の表紙を飾ることだって夢ではなかった。しかし、たった一つの赤信号が彼の人生を大きく変えてしまうことになる。
ある日のオーディションの帰り道、ゲーリーは激しい交通渋滞に巻き込まれた。疲れきっていた彼は赤信号に苛立ち、その場で車を乗り捨てた。目の前を通り過ぎた黒い衣装の一団になんとなくついて行きながらふと、自分もまた黒い服を着ていることに気づいた。まるで、教会へと向かうこの無言の列に加わることが運命であったかのように。ゲーリーは葬儀の最後列に紛れ込んだ。隣には一人の少女が座っていた。前列席に座らせようとする両親に逆らって頑固にそこを動こうとはしない。少女の目は、先ほどから棺に釘付けになっている。ゲーリーは何気なくポケットから硬貨を1枚取り出し、手のひらに乗せて見せた。次の瞬間、硬貨は消えたかと思うと、もう片方の握った手の中から現れた。硬貨は現れては消え、消えてはまた思いがけない所に現れる。靴や帽子の中、むく犬の毛の中などから。この手品を教えてくれたのは誰だったろうか。子供の頃だったようにも思うし、違うかもしれない。
少女の気を引こうと披露した手品だったのに、当の本人は微笑みすらしなかった。だが、ゲーリーには分かった。ほんの一瞬だったけれど、少女の視線を棺という悲しい現実の光景から逸らしてやることができたことは確かだった。
このとき、若い役者の卵は天から授かった自らの使命を悟った。絶対的な恐怖の前で笑いをもたらすこと。この出来事は彼の未来をすっかり変えてしまった。役者としての名声やらゴシップで週刊誌を賑わす代わりに、彼は手品の腕を磨き、プロの道化師たちとともに「国境なきピエロ団」を結成した。国連の保護のもと、彼らは世界中の戦争や紛争で引き裂かれた地域を回り、ほんの数日前までは子どもでいられた人々に、ささやかな平和と安らぎをもたらした。
ところが、どういうわけかここコソボでは、どんな手品をしてみせても何の効き目もないのだ。
その日ゲーリーは空色のヘルメットの兵士たちで溢れる国連の司令本部に立ち寄った。ピエロ団が帰国することを報告するためだ。
「最後にもう1度だけ、挑戦させてもらえないだろうか」。ゲーリーが言った。
「まったく君は、国境なき強情っ張りとでもいうところだな」。見上げたやつだ、とでも言いたげに司令官は苦笑した。いかめしい軍服に隠された彼の素顔がちらりとのぞいた。
ゲーリーは、いつ果てるとも知れぬ紛争のなかでコソボでも最も孤立した学校に向かった。なんとか子どもたちを笑わせようという彼の最後の挑戦だった。護衛として平和維持軍のトラックが同行した。
ゲーリーが校舎の前でトラックを降りたその瞬間、狙撃兵の銃弾が彼を撃ち抜いた。防弾ジャケットを着ていたら助かったかもしれない。が、ピエロが防弾ジャケットなど着ていたら誰も笑ってなんかくれないよ、とゲーリーは常日頃から言っていた。机の下に隠れなさいと叫ぶ教師を無視して、子どもたちが校舎の窓に押し寄せてきた。その熱気で窓ガラスが曇り、倒れたゲーリーの姿はやがてかすんで見えなくなっていった。
「国境なきピエロ団」はその日のうちにコソボを去っていった。後にはゲーリーの亡骸と2000個のピエロの赤い鼻が残された。荷物の中に赤鼻を入れる隙間など、もうどこにもなかったのだ。
やがてゲーリーの両親がプリシュティナに到着した。両親は彼をコソボに埋葬することにした。戦乱の中にあってもなお、笑いと生きる力と希望に溢れる子どもたちの姿を取り戻そうと、ゲーリーが強く願い続けた、このコソボの地に。
その日、プリシュティナの共同墓地にはどんよりとした鉛色の雲が重く垂れ込めていた。と、突然、平和維持軍の駐屯地のあたりから金属音が轟いた。ノルウェー人司令官率いる装甲車部隊が街路を行軍し始めたのだ。
それだけでも突飛な出来事だったが、疲れきった市民の手を止めさせてブルーヘルメット姿の兵士たちに目を向けさせたのは別のある光景だった。若者も年寄りも、セルビア人もアルバニア人も、男も女も、全員がわが目を疑った。女たちはパイを焼いていたのを忘れ、子どもたちはペナルティキックの途中でサッカーの試合を中断し、男は髭剃りの手を止めた。人々の口元に微笑みが浮かんでいた。
いかにも軍人らしい威厳を漂わせた司令官が、先頭のトラックから現れた。なんと彼の顔の真ん中には、ピエロの赤い鼻が誇らしげに鎮座しているではないか。彼の後には、赤い鼻をつけた何百人という兵士が続いていた。「国境なきピエロ団」が残していった、あの赤鼻だ。
銃声は響かず、悲鳴も聞こえない。軍靴の鋲の響きが重くよどんだ空気を切り裂くこともない。あたりには静寂が戻っていた。ただ子どもの幸せそうな歌声だけが響いている。停戦の種は蒔かれた。あとは、それを花開かせる希望の慈雨を待ち望むだけだ。
赤鼻をつけた青ヘルメットの国連部隊は、ゲーリーに対する心からの敬意をこめて一斉に敬礼を捧げた。コソボでの「国境なきピエロ団」とゲーリーの活動は、決して無駄ではなかったのだと。