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追悼文:日本水泳連盟名誉会長 古橋広之進先輩

2009 年 12 月 5 日 Comments off


執筆:田口信教(鹿屋体育大学 教授)

“フジヤマのトビウオ”世界新記録を33度も更新し、敗戦に打ちひしがれた多くの日本人に、勇気と希望を与えたことで知られた水泳の大先輩、古橋広之進さんが8月2日に80歳で亡くなられた。イタリアのローマで行われていた水泳の世界選手権大会に国際水泳連盟副会長として出席中に亡くなられた事は、水泳一筋に生きてきた古橋さんらしい場所での亡くなられかたであっと思う。スポーツ関係者として、初の文化勲章(2008年)を受章されるなど、わが国スポーツ界の最高指導者の一人であり、古橋さんの功績は、書き尽くせないほど、沢山あることと思うが、私にとっての古橋さんは、私に金メダリストになるチャンスくれた人であった。感謝を込めてその事を書き残しておきたい。それは、1968年のメキシコオリンピックの選手選考に始まる。私は、その年の全日本高校選手権で五輪入賞圏内の記録を出し、若手として注目を集めていたが、ベテランの鶴峰先輩には4回対戦して全て負けている状態であった。オリンピックの選手選考を兼た日本選手権においても、ベテランの鶴峰先輩と松本先輩が1、2位、私は、100mも200mも選考対象外の4位となり、メキシコオリンピックは諦めざるをえない結果であった。しかし、メキシコオリンピックの監督に就任している古橋さんが、若手を育てることを提案し、選ばれて当然と思われるベテラン選手を外し、私を選んでくれた。この選考に対し批判が出た事は当然であるが、私の精神的負担にならないようにとオリンピックが終了するまでこの批判の事は聞かされることはなかった。17歳の私にオリンピック選手として参加資格が与えられることがなければ、次のミュンヘンオリンピックでの金メダルには繋がらなかった事は確かだと思う。当時、世界のレベルや技を知る手段は国際大会に参加すること以外に手段はなかった。参加出来た御陰で、世界のトップスイマーの泳ぎの違いやペース配分、スタートにターンの妙技などが分かり、飛躍的なレベルアップに役立てることが出来た。さらに、合宿中は、世界記録を世界で最も沢山更新した古橋監督から幅広いアドバイスを、ユーモアを交えて楽しく話して下さった。練習に対して「苦しいと思うから、苦しみが始まる」また、スポーツマンの心得として、「戦って勝つことだけが目的ではない、互いに相手に対して配慮や尊敬を持って戦うスポーツマンシップが大切」と選手としての品位や国際親善の重要性を話されたことを覚えている。特に、競い合う共通の目的を持った友達を世界中に作れるチャンスを逃さないように、そのためにも、英語でのコミュニケーション能力を身に付けなさいと、文武両道やマナーに厳しい人であった。また、身だしなみに気を配ってくれた。当時、高校生の私は坊主頭であったため、囚人と間違われるといけないからと言ってくれて、髪を伸ばし髪型をスポーツカットにすることが許され、うれしかったことを覚えている。

25歳で選手を引退後も、古橋さんと一緒になることが多かった。当時、全国にスイミングクラブが沢山建設され、そのプール開きに招かれ、古橋さんが挨拶、私は模範水泳をし、私の泳ぎの解説を古橋さんにして頂くといった具合であった。そんな中、君には、これからどこに行ってもスピーチは付いて回るのだから、習うより、慣れろと言って、喋る場所を沢山作って頂いた。沖縄返還本土復帰を祝う水泳教室では、古橋さんと二人で那覇のプールで担当した時に、スポーツは礼に始まり礼に終わると言われ、指導の前の挨拶、終了時の関係者への感謝の言葉から、水泳教室の仕方まで学ばせていただき、そんな中、水泳の持つ魅力を多くの人達に伝えることが君の役割だと教えられた。

余談であるが、会食や夜の付き合いでのマナー、酒の飲み方まで教えて頂いた。水泳は酔泳と言って、酔って溺れるようでは酔泳選手ではないと言われるだけあってお酒が強かった。ウイスキーを炭酸飲料で割ったハイボールを18杯までは数えたが、こちらが酔ってしまい、その後の記憶が定かではないが、30杯は飲んだのではないかと思う。最期まで乱れることなく会話もなめらかで、人を楽しませる喋りは続いた。私が、鹿児島に移ってからは、お会いすることも少なくなったが、鹿児島市内で夜遅くまでご一緒した時、深酔いされた高齢の鹿児島県水泳連盟の副会長を気遣い、ホテルの部屋まで引率されている古橋さんを見て、日本水泳連盟の会長になっていても、つねに人への気使いを欠かさない姿勢、競技会を観戦中にも、選手の記録を記入しながら選手の名前を覚えようと努力されている姿勢など、お会いする度に色々な事を教えて頂いた。スポーツ界を守り続けるために尽力されておられた姿を忘れることなく、語り続けて行きたいと思う。心よりご冥福をお祈り申しあげます。

80歳で他界した“フジヤマのトビウオ”古橋廣之進さんの思い出

2009 年 9 月 30 日 Comments off


執筆:伊藤 公

去る8月2日、”フジヤマのトビウオ”と言われた古橋廣之進さんが80歳で亡くなった。亡くなった場所はローマ(イタリア)で、国際水泳連盟(FINA)副会長として同地で行われた”世界水泳選手権大会”に出席中の出来事だった。

古橋さんは大東亜戦争終了直後の1947(昭和22)年頃から1~2年後にかけて、水泳自由形で次々に世界新記録を樹立し、敗戦に打ちひしがれた多くの日本人に、勇気と希望を与えてくれたスポーツマンである。そして昨年(2008年)は、スポーツ選手として、初の文化勲章を受章されたことは記憶に新しいところだ。

私が”フジヤマのトビウオ”こと古橋廣之進さんと知り合ったのは、あの東京オリンピックから2年後の1966(昭和41)年のことである。出版社社員より日本体育協会(広報課)の職員となった私は、広報委員の古橋さんを紹介され、知り合った。私は30歳で、古橋さんは私より7歳ほど年上だったので、37歳くらいではなかったかと思う。
だが、古橋さんと私の距離が縮まることはなかった。それが11年後、私は職場で広報部門より国際部門へ配置転換となり、国際担当参事(国際課長)に就任させられたことによって、古橋さんと一緒の仕事をすることになり、急に身近な存在となった。
その年(1977年)の夏にブルガリアのソフィアで開催される”大学生のオリンピック”ユニバーシアード夏季大会に行くことになったのだ。日本オリンピック委員会(JOC)常任委員で、日本ユニバーシアード委員会(JUSB)委員長だった古橋さんは日本代表選手団長に指名され、副団長格の総務は日本陸上競技連盟理事でJUSB名誉主事の帖佐寛章さん。私は日本代表選手団本部役員ナンバー3の人間として、古橋団長を補佐した。
日本選手団本隊を受け入れるために旅行エージェントのM・F君(彼も本部役員)と一緒に現地へ先乗りしていた私は、1週間後に古橋さんらと選手村で合流した。そこでの最初の本部役員・監督会議で、古橋さんから厳しい指示が出された。それは、「このような大会では、連日連夜、レセプションが開催されるはずだから、招待状を受け取ったら、万難を排しても出席するように」というものだった。
国際総合競技大会において本部役員(渉外担当)初体験の私には荷が重すぎたが、古橋団長の指示なので従わざるを得なかった。古橋さんはあとで、「日本人は一般的に語学が苦手なこともあって、レセプションには出席したがらないが、堂々と出席して、世界のスポーツ界の人たちと交流を深めることは必要なことだ。そしてホスト(主催者)に一言でもいいから挨拶をして帰るのがマナーというものだ」と語っている。その言葉は、私の心に深く刻み込まれた。

スポーツの国際会議に出席したのも、この時が最初だった。ユニバーシアード・ソフィア大会の開幕に先がけて国際大学スポーツ連盟(FISU)の総会が開催されたので、日本からは選手団役員の古橋さんと私の2人が出席した。
使用言語は英語とフランス語の2カ国語だけで、もちろん日本語の同時通訳など用意されているわけではない。現役選手引退後、大同毛織の社員としてオーストラリアに滞在経験のある古橋さんは「英語のヒアリングでは80%程度できる」と語るだけあって、自信に満ちあふれている。一方の私は、10%から20%程度のヒアリングができれば上出来で、どのような結論になったかについてはチンプンカンプンで、古橋メモに頼らざるを得なかった。
当時のFISU会長は、あとで国際陸上競技連盟(IAAF)会長、国際オリンピック委員会(IOC)委員にもなったプリモ・ネビオロ氏(イタリア)で、彼はFINA理事の古橋さんをFISUの執行部に迎え入れる画策をしていた。そしてこれが、1979年のメキシコにおけるユニバーシアードの際のFISU総会で実現する。
81年5月、FISU実行委員会はブカレスト(ルーマニア)で行われた。この時に私は、夏に当地で開催されるユニバーシアード大会の事前調査のために古橋さんに同行し、FISU実行委員会の様子を垣間見たことがある。詳細については省略するが、ネビオロ会長のラブコールでFISU実行委員(理事)に就任した古橋さんは、国際学生スポーツ界発展のために尽力し、FISUに欠かせない人間になっていることをヒシヒシと感じたものだ。
ちなみに、1980年の神戸、95年の福岡両夏季大会、91年の札幌冬季大会の日本開催は、古橋さんがFISU執行部にいたために実現できた国際総合競技大会だったことは間違いない。

その後古橋さんは、日本水泳連盟会長、FINA副会長、FISU副会長、JOC会長、日本体育協会理事など内外スポーツ界の多くの要職に就かれたが、偉ぶった素ぶりを示すことは皆無だった。
古橋さんと最後に会ったのは4月2日のことで、場所は古橋さんが会長を務める岸記念体育会館1階の日本スポーツマンクラブ。他に人がいないこともあって、約15分ほど1対1でじっくりとお話を伺うことができた。その時、古橋さんが心配されていたのは2016年の東京オリンピック招致のことで、日本スポーツ界の国際人不足を嘆いておられた。
古橋さんは、日本スポーツ界の数少ない国際人でもあった。それだけに古橋さんの死は痛い。