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2016年東京オリンピック・パラリンピック招致を振り返る

2009 年 12 月 5 日 Comments off


執筆:結城和香子(読売新聞運動部次長)

国際オリンピック委員会のコペンハーゲン総会。ロゲIOC会長がカードを回転させると、リオデジャネイロ陣営が雄たけびを挙げた。勝利都市記者会見で愛国歌が飛び出し、ルラ大統領が感極まって泣き出す。記者席で、ブラジル流で表現される「五輪開催の重み」に感じ入りながら、ふと思う。東京が座っていたら、どんな思いで見つめていたろう–。

後知恵は素晴らしいもの。2012年ロンドン五輪招致を勝利に導いたコー氏が、皮肉も込めてそう言っていた。IOCを担当した15年間、招致取材は何度も経験したが、確かに、結果が出てからの批判は容易だ。ただ、今回東京が努力を傾注し、計画や都市力では高い評価を得ながら、IOC委員の心をつかめずに終わった事実は、しっかり把握しておくべきだろう。東京、広島・長崎と、次回への布石が打たれつつあるならなおさらだ。

2008年の一次審査で開催能力のトップ評価を受け、09年2月には純日本調の立候補ファイルを提出した東京。この段階ではシカゴが最右翼で、能力面で東京が続くと見られていた。しかし翌3月、デンバーで開かれたIOC理事会・国際競技連盟関連会議の場で、初めて4招致都市がロビイングと招致演説を展開する場を取材し、「心をつかむ力」の差の大きさに、私は最初のショックを覚えた。

日本の記者である当方にも、向こうからインタビューを依頼し、南米初開催の意味と五輪運動にとっての意義を、ヌズマン招致委会長自らが熱く語りかけてきたリオ。未整備の社会インフラや巨額予算、14年サッカーW杯開催など、弱点とされた点にも、国際専門家やブラジル銀行総裁まで引き出し、真っ向から議論を挑んだ。招致演説でも話題をさらい、直後の記者会見には最も人が詰めかけた。ジョークを連発する知事ら、ブラジル的人間味も全開。考えてみればIOC委員にも、さまざまな経歴があり、リオに良い先入観を持つとは限らない。途上国開催のリスクや、巨額予算を支える財政面への疑問を抱いていた自分をして、なるほどと思わせてしまう大義と人間味は、今後怖い存在になる。そう感じた。

3月のIOC理事会では、米国五輪委とのテレビ放送権料等収入分配の議論が一触即発となり、シカゴ陣営は防戦一方。しかし、つけ込むチャンスと思いきや東京は、政府保証と不況に強い財政力をアピールするだけで、弱点とされた「(北京五輪に続く)またアジア」という見方に対する効果的な議論や、弱点を上回る「なぜ東京」を打ち出せないまま。海外記者の出席が最も少ない記者会見で、最も淡泊な受け答えで終わってしまった。

この時受けた各招致都市の印象は、その後6月にスイス・ローザンヌで行われたIOC全委員に対する招致演説、8月のベルリン世界陸上と、増幅こそすれ変わらなかった。ちなみにローザンヌでは、招致演説後の質疑応答で、IOC委員の関心を最も集めたのはリオとシカゴ。しかしリオが、建設的な質問を多く受けたのに対し、シカゴには懐疑的なそれで、印象の賛否が割れた。東京はマドリードと並び、質疑は最も短時間で淡泊。本命視されていないのが浮き彫りになった。

次のショックは、9月2日に公表されたIOC評価委報告書だ。55.5%の支持率などが「懸念」と厳しく断じられた東京に対し、同じトーンならさぞかしインフラ整備や散在する競技会場が斬られるだろうと思ったリオには、課題の指摘と対策への期待の併記に終始。南米初の五輪に対し「リスクはあるが、賭ける価値はある」とのお墨付きを与えた内容だった。最後の溝が埋まった、そう感じた。

東京のために言えば、東京は実は4都市中、ロゲ体制下での前回の招致体験を持たない唯一の招致委だ。12年で敗れたマドリード、ニューヨーク(米国五輪委)と、12年の一次選考で敗れたリオに比べ、東京は経験の浅さを、過ちから学ぶことでカバーして行った。実際、3月のロビイングやメディア対応、6月の招致演説での失敗を、良くその後に生かした方だと思う。最後の1か月半は、ロビイングの熱意もつかみ、日本オリンピック委員会の竹田会長ら「顔」も出来つつあった。選手が軸となって声を上げ、国際的に訴えられるようになったことも収穫だった。しかし、ロゲ体制下の夏季五輪勝利都市、ロンドンとリオに比べ、明白に異なる点もいくつかあった。

一つは、五輪運動やIOC内部を良く知る者が招致を率い、国内五輪委などスポーツ界が軸となって、勝つために最善の戦略を決められる体制とは言えなかったこと。元五輪金メダリストのコー氏と、英国五輪委のリーディー前会長(IOC委員)らが軸となったロンドン。ブラジル五輪委会長でIOC委員のヌズマン氏が率い、各委員を何度も個人的に訪問したリオ。リーディー氏は以前、「過去の失敗から我々は、英国五輪委が招致を率いる必要があるとの結論に達した」と語っていた。結局IOC委員には、五輪運動や選手のためという見方を通し、顔の見える信頼関係の上で訴えないと、環境対策も財政力も十分なアピール力を持ち得ないのだ。

今ひとつは、政府の熱意と支援。リオは、ブラジルのルラ大統領が、2年前から積極的に招致に関わり、個人的に全委員に手紙を書いたり、五輪準備を最優先するための法律を策定したりした。ロンドンも、現地に乗り込んだブレア前首相が、政府の全面支援と熱意を訴えたのが奏功した。オバマ大統領が乗り込んだシカゴが初戦敗退したことを考えると、結局カリスマ性のある指導者がいても、熱意に疑義がある場合は効果は低いということだ。

最後に、一般国民の理解と支援。1国の政府の熱意が、国民による五輪開催への支持を汲んだ結果、生まれることは間違いない。何故今五輪を開きたいのか、五輪開催は有形無形の何をもたらすのかという議論を深め、人々の関心と支持を高めていく。それが、次の招致を考える時、まず踏み出すべき一歩となる。

2016 Games BidとTokyo 2016、そのレガシー

2009 年 12 月 5 日 Comments off


執筆:桶谷敏之(筑波大学大学院)

2016年のオリンピック・パラリンピック開催をかけた戦いは、キャンペーン当初より「南米初」をスローガンに掲げたリオ・デ・ジャネイロに軍配が上がり、首都東京で挑んだ日本は三度連続の敗退を喫した。私は招致活動に直接的に携わった身であるが、オリンピック・ムーブメントの信奉者の一人として、未開催国、未開催地域での初の大会開催を心より祝福したいし、それに伴いオリンピック・ムーブメントが更なる発展を遂げることを固く信ずるところである。以下、今回の招致レースの概観に触れ、そして次にTokyo 2016が招致の過程で培ったレガシーについて簡単に振り返ってみたい。

東京は、2008年6月の書類選考でトップ通過し、またコペンハーゲンでの投票一カ月前に発表された評価委員会レポートでも高評価を得るなどその大会開催・運営能力は折り紙つきであったが、常に「何故いま東京なのか?」という問いに追い回された。特にリオが「南米初」という誰の耳にも分かりやすい理由を掲げていたため、なおさら一層東京の何故が注目されていたともいえよう。もっとも、リオ以外誰にとっても分かりやすい理由を提示できた都市はいなかったのも事実であるが・・・。(果たしてどれだけの人が、オバマ、サマランチといったファクターとは別に、他3都市のビッドメッセージをすぐに思い浮かべることができただろうか?)

東京は「Uniting Our Worlds」というスローガンを打ち出し、大会開催を通してアスリートを、人を、都市を、世界を結び合い、平和に貢献する成熟した都市における21世紀のオリンピック・パラリンピック像を提案、そのための具体的アクションを表現した「Setting the Stage for Heroes」で東京が安心・安全な都市であり、全アスリートが自己ベストを出せる環境整備を約束として掲げキャンペーンを展開した。東京の都市力、財政力を疑問視する関係者は皆無といっていいほどいなかったが、やはり、ではその先に何を東京は目指すのか、というもう一歩進んだ質問に「南米初」と同じレベルで分かりやすい回答をつくることはついぞできなかった。それはシカゴにせよマドリードにせよ同様であったと思う。東京、シカゴ、マドリードには開催能力があるものの、Whyにこたえるストーリーが薄かった。逆にリオには「南米初」というストーリーがあり、あとは都市力を証明する、ということが課題であった。事実、実際に大会オペレーションに携わる競技連盟関係者からはリオの大会運営能力を疑問視する声を多々耳にした。そういった現場の声がどこまで今回の意思決定に反映されていたのか、分からない部分も多い。しかし、書類選考の段階では4都市中最下位であったリオであるが、今年4~5月に行われた評価委員会の現地視察によって開催能力ありと認められると、一気に招致レースの中での存在感を増していった。

当初は大本命と目されたシカゴであったが、リーマンショックによりがた落ちした合衆国経済によってブレーキがかかり、更に懸案であったUSOC(合衆国オリンピック委員会)のテレビ放映権収入分配比率の問題が国際競技連盟、IOCとの間で悪化、NOCの支援どころかそのツケを払わされるかたちでシカゴは急転落していった。一方、評価委員会のお墨付きを得たリオであるが、テレビ放映の時間帯がアメリカと変わらないため、合衆国開催と同じような放映権収入が見込めるという地理的条件にも後押しされた。また、ルーラ大統領が公務の傍ら外遊先で招致アピールを積極的に行ったのもリオの大きな勝因の一つと言えるだろう。(とはいえ、ロンドンのケースと同じく、開催都市決定後に都市の安全性を脅かす事件が発生したのは何の因果であろうか…。)
いずれにせよ、IOCが大きな決断を下したことは間違いない。日本としては南米初の大会成功を全面的に支援して行くのが、同じオリンピック・ムーブメントの推進を志した者としての務めであろう。

招致レースに負けはしたが、Tokyo 2016もプラスのレガシーを多く遺した。まず挙げられるのがオリンピック教育の推進であろう。殆どの都市は開催が決定してからオリンピック教育を始めるが、まだ開催が決定する前から東京都と協力して専用のテキストを作成し、小中高の教育の現場で展開することができた。実践に協力してくださった公立学校では実に様々なかたちで授業が行われており、この事例の積み上げ自身大きな財産でもあるし、今後この結果を継承、発展させていく必要がある。

オリンピアンとパラリンピアンが手を取り合って招致活動を展開したことも大きな意味があったといえよう。近年のパラリンピックの発展により、オリンピックとパラリンピックは表裏一体である、という考えが世界で浸透してきている。招致委員会も「東京オリンピック・パラリンピック招致委員会」という名称にし、下部組織である招致委員会独自のアスリート委員会にはオリンピアンだけでなく多くのパラリンピアンにも参加してもらった。日本のオリンピアンとパラリンピアンが共通の目的に向かって力を合わせたのは恐らく初めてのことであったと思われるが、これをきっかけに全アスリートの交流を促し、彼らが協力してオリンピック・ムーブメントの推進に貢献していけるような体制づくりが進むことを切望する。

政府の全面的財政保障の表明も大きなレガシーであろう。財政が比較的盤石な東京であったからこそ、ということもあっただろうが、政府が文書にして財政保障を確約してくれた。周知のように大阪はこれを得ることができずに大きく減点された、という過去がある。前例主義の風潮が色濃い政府官僚機構にあって、本来的には民間の事業であるオリンピックに招致の段階で政府保障が出されたという意義は非常に大きいといえよう。

さて、幸か不幸かコペンハーゲン総会の前に政権交代が実現し、政権与党となった民主党は自公政権の政策見直しに着手し始めた。多くの政策にブレーキがかけられる中、鳩山総理はコペンハーゲン総会の現地に駆け付け、日本の首相として初めてオリンピック・パラリンピック招致のプレゼンターを務めた。更に麻生前総理が約束した財政保障を100%お約束する、とプレゼンの中で明言した。また同じプレゼン中、オリンピズムは総理の持論とする友愛の精神に合致し、全面的に支援するとも発言した。公の場で日本国のリーダーからオリンピズムへの理解についての発言を得られたことも重要なレガシーであろう。

また、スポーツ振興法を改正しようという動きが強まったことも見逃せない。招致の動きと連動して、自民党がスポーツ立国調査会を設立、日本のスポーツの在り方について議論を深めた。そしてそこでの議論を踏まえ、超党派でつくるスポーツ議員連盟によりスポーツ振興法をスポーツ基本法に改正しようという動きにまで高まった。何とか国会提出までこぎつけたものの、衆議院解散により廃案という結果に終わったのは記憶に新しいところであろう。しかしながら、1961年に制定されたスポーツ振興法がもはや時代の要求に応えていないのは明白である。また、行政サイドとしても行動の裏付けとなる法律の整備は必要不可欠である。理想を言えば、トップアスリート支援だけでなく、また草の根スポーツの普及だけに留まるでもなく、その両方を推進しつつ、更にスポーツの価値それ自身が高まっていくような体制づくりが必要であろう。そのためには「スポーツとは何か」、「我が国はスポーツを通して何を目指すのか」という国家戦略と連動した大きな絵を描き、単なる運動や競技ではないsportの価値を周知させていく動きが一方で求められているのも事実であろう。この点、JOAのような組織が果たさなければならない務めがまだまだ残っているのではないだろうか。

以上のように、目には見えづらいが着実に盛り上がったムーブメントが存在した。いずれも「オリンピック・パラリンピック招致」というきっかけが後押しし実現したことは間違いない。今後は、一旦盛り上がったこのムーブメントをどのように受け継ぎ、さらに継続的に発展させていくか、がスポーツ界だけでなく、日本全土で求められている。

夏季オリンピック2016東京招致失敗の反省の視点

2009 年 10 月 27 日 Comments off


執筆:内海和雄(英国ラフバラ大学客員教授)

1. 反省の声

10月2日現地夕方、「コペンハーゲンの悲劇」は起きた。IOC総会における2016年夏季オリンピックの開催地は南米のリオ・デ・ジャネイロに決定した。東京の落選を残念がる一方、リオの当選を歓迎する声も多い。それは南米初の開催が、オリンピズムのスポーツ普及と一致しているからである。

その後東京でも、日本でも、先の招致活動への反省をして、2020年への再挑戦をするかどうかの声も聞こえてくる。その中にはオリンピック開催の環境配慮への趣旨は良かったが、プレゼンテーションの技術上の拙さを指摘する声もある。

私は今、この4月から長年通い慣れたイギリスのラフバラ大学に客員教授として滞在しながら、オリンピック研究に平行してこの国の体育・スポーツ政策、そしてオリンピックを含めたスポーツ・ナショナリズムなどを研究している。その中で、先の2005年10月のロンドンの逆転的勝利の意味を痛切に考えさせられると共に、今回の東京の敗北は、プレゼンテーションの単なる技術上の問題ではなく、オリンピックの今後のあり方を含めた、深層からの反省を行わなければ、今後の東京招致、いや日本の都市への招致は実現しないと考えている。この1つの提案がそうした議論の1つの切掛けとなれば幸いである。

2. オリンピズム

オリンピズムの中心は世界にスポーツを普及させ、スポーツを通じて若者たちを中心とした友好を深めることにある。そのために、オリンピックの収益の一部を世界のスポーツ普及活動に援助してきた。したがって、オリンピックを開催する上で、その都市、あるいは国のスポーツ政策が人々のスポーツ振興にマイナスに働くとすれば、それはオリンピズムとは矛盾する。

私は常々、少なくとも過去10年のその都市、あるいは国のスポーツ・フォー・オール政策のあり方もオリンピック招致都市の評価基準として、大きく位置づけられるべきだと主張してきた。しかし、今回の東京、ないし日本の過去10年の歴史を見れば、スポーツ政策は衰退の傾向にあった。こうした状態にあった自治体や国が、突如オリンピックによって市民や国民のスポーツ振興といっても、そのアピール性は無い。都民、国民のスポーツ重視の政策を採らず、冷遇してきた日本において、1964年当時のオリンピック招致・開催の価値は形成されていない。つまり、スポーツを中心とする福祉が重視されていないのだから、未だ其の価値が共有されていない。(拙著『日本のスポーツ・フォー・オール-未熟な福祉国家のスポーツ政策-』不昧堂出版、2006)

この点で、ロンドンの、あるいはイギリスの教訓から学ぶとすれば、この豊富なスポーツ・フォー・オール政策を背景としてオリンピック招致に打って出たが故に、目立った反対運動もなく、ロンドン市民ばかりでなく、イギリス国民からも支持され、大歓迎されたのであった。

3. イギリスのスポーツ・フォー・オール政策

イギリスのスポーツ・フォー・オール政策は1972年の執行機関としてのスポーツカウンシルが設立されて以降である。近代スポーツの発祥国であると同時にアマチュアリズムの発祥国であるイギリスは、アマチュアリズムの個人主義によって、政府がスポーツに介在することを排除してきた。それ故、戦後の福祉国家化の中で、西欧諸国が政府主導によるスポーツ・フォー・オール政策を採用せざるを得なくなった中でも、頑なに介在を控えてきた。しかしそうした姿勢は許されなくなり(この背景は拙著『イギリスのスポーツ・フォー・オール-福祉国家のスポーツ政策-』不昧堂出版、2005参照)、スポーツ・フォー・オール政策の採用となった。西欧諸国がスポーツ省を設置した中で、イギリスは当時のスポーツ所管である環境省からは独立したいわば独立行政法人とも言うべき組織「スポーツカウンシル」を設立した。スポーツ省ではなくこうした組織形態になったのは他の多くの文化分野でも同様であるが、時の政権党の政策の実行ではなく、それとはやや独立に、独自な文化・スポーツ政策を推進するために作られたのである。しかしそうは言っても、政府からの財政を受けて推進するのであるから、政権党との「軋轢」は常に存在した。その典型例が1980年のモスクワ五輪への参加問題であった。当時のサッチャー首相はアメリカのカーター大統領のボイコットをいち早く支持し、イギリス選手団にもボイコットを強要した。しかしイギリスオリンピック委員会はソ連への抗議を込めて、イギリス旗ではなく五輪旗を掲げて参加した。ここでスポーツカウンシルも参加支持に立っていた。これはサッチャー政権の逆鱗に触れ、その後福祉縮小の一環として、スポーツカウンシルも縮小された。しかし、サッチャー政権発足直後の1981年には格差に痛めつけられた大都市の貧困者を中心とする大規模な都市暴動が続き、1980年代にそれらが沈静化するまで、むしろスポーツ政策は住民の不満解消の一環として推進されたのである。そして1990年代のメジャー政権はスポーツ政策をイギリスのナショナリズム重視の立場から、学校とトップスポーツを重視したが、地域スポーツは放任されたのであった。

1997年のブレア政権はその政策の重点が「1に教育、2に教育、3に教育」と、教育重視の政策をとった。もっともその中にはサッチャー政権以降の競争主義の諸政策も多く温存されていたが。それでも、ブレア首相は2002年に「体育・学校スポーツとクラブ連携戦略」を自らの政策として提起し、今後5年間で10億ポンド(1600億円,£=160円)という膨大な資金を投入し、この国の子ども、地域、そしてトップのすべてに渡って「世界一のスポーツ立国」を建設することを提唱し、実行した。

これは現在も引き継がれており、子どもたちには週5時間の運動時間保障政策、そのために特別な職種を新設し、あるいは教員の授業研究、部活動振興、地域クラブとの連携のための特別な活動を保障し、そのための授業離脱を保障し、その代用教員の給与も保障するという、羨ましいほどの政策を推進している。地域スポーツはスポーツ種目団体による2013年までの100万人の新規参加者増加作戦を採り、そのために各スポーツ競技団体に数十億円ずつの支援金が支給されている。これらの政策は世界の各国から羨望と教訓の対象とされ、視察団が後を切らない。

こうした、「世界一のスポーツ立国」建設の推進を背景にしながらロンドンへのオリンピック招致であるから、これは先述のようにロンドン市民ばかりでなく、イギリス全体からも支持されたのである。さらにそれらの政策を自ら指揮するブレア首相が、IOC会議に乗り込んだのであるから、その迫力は投票するIOC委員の心に強く響いたに違いない。

4. 反対運動とIOCの意向

オリンピックの反対運動にも歴史はあるが、近年の世界的な特徴は大きく3つに分類できる。1つはオリンピックの肥大化に伴う環境破壊への危惧からの反対運動である。これにはIOCも全面的に受け入れ、今後のサステーナブルなオリンピックのあり方を求めて、環境保護を重視している。そして環境対策を評価基準に入れている。

第2は、オリンピックやIOCが「オリンピック企業」化をして、初期のオリンピズムを忘れて、専ら利潤追求の企業に転化しており、それに公共の莫大な税金を投入することは許されないというものである。この点に関しては、より根本的な議論を必要とする。つまり、資本主義社会に存在し、発展しようとする組織にとって、一定の資本確保が必須だと言うことである。これは研究学会のような非営利団体でも、一定の活動資金を組織は必要とする。我々のJOAでも同様である。オリンピックはテレビの普及や諸国民のスポーツ普及に支えられて、そして莫大なテレビ放映権料を得ることによって、その崩壊から脱出し、現在の発展に至っている。だからといって、それらの「利潤」を溜め込んで、新たな利潤獲得のための企業の設立を推進しているわけではなく、オリンピックソリダリティを初めとする世界のスポーツ普及と発展のために多大な援助をし、またオリンピックの今後の発展の為のあり方を模索するために莫大な研究、教育を組織している。こうした運動体が他にあるだろうか。人類の遺産であるオリンピックの保護、発展とそれによる国際平和への貢献というオリンピズムの推進を旺盛に進めている。それらは一般にオリンピックレガシーと呼ばれるが、反対論者の多くはこうした広い検討をしようとはしない。もっとも、オリンピックはそれが果たしてきた歴史的、社会的役割の大きさの割には、研究がきわめて遅れている領域である。そのための研究がもっともっと高まる必要がある。

そして第3は、近年の都市開発が、特に「国際都市」への脱皮を図る上で、莫大なインフラ整備費を、比較的抵抗の少ないオリンピックを利用して遂行しようとする傾向が強まっている。これによって、都市住民の福祉費の削減、時には都市住民の市民的自由の制約、そして招致活動費の不明朗化などへの批判である。

都市振興とナショナリズムの高揚のためのオリンピック「利用」は1896年の近代オリンピック第1回アテネ大会以来行われていることであり、近代社会に於けるメガイベントの持たざるを得ない宿命でもある。また、それらがある程度なければ、おそらくオリンピックも現在まで継続はされなかったのではないかと私は考えている。しかし、都市振興に関して言えば、現在の「手段化」は、都市の利潤により大きな比重が置かれていることも否定できない。こうした傾向への批判である。その象徴的な姿が市民、国民へのスポーツ普及政策を軽視しておいて、オリンピックを招致しようという態度と行動である。

5. オリンピックの方向

IOCは先の「都市振興 vs. 住民福祉削減」というオリンピック招致のあり方をもっとも恐れている。IOCは政治との関係で言えば、政治に介入されない努力をしてきた。また一方、政治には介入しない。しかしオリンピック招致が国内外の政治と不可分であることは誰もが承知している。こうした矛盾の中にオリンピックは存在する。そして今後もそうした社会の中で活動してゆかなければならない。

かつてオリンピックが危機に直面したのは世界戦争による開催休止であり、冷戦下やアパルトヘイトへの反対の手段としてのボイコットであった。そして組織内の問題としては財政難による崩壊の危機であった。現在はドーピングなど、スポーツそれ自体の価値を根底的に否定する動向もある。

しかし現在のオリンピック招致・開催に関して直面する問題は、招致・開催都市による都市振興の手段化とそれに対する反対運動の高揚である。オリンピック招致・開催によって都市住民の福祉が削減されるとすれば、反対運動はますます高まるであろう。それは容易にオリンピック自体の否定に繋がりかねない。IOCはこの辺に注意を払い始めた。それは今回の評価委員会が各招致都市の反対派との「初めて」(私の情報は不正確かもしれない。以前からあったかもしれない。)の会合を持ったことにも現れている。
また、近年IOCはオリンピックレガシー研究に大きな精力を割きつつある。先述したように、オリンピックの果たしてきた歴史的、社会的な大きさの割にはその研究は少なすぎたからである。レガシー研究は世界的にも、2000年代に入ってからである。

今後のオリンピック招致・開催のあり方は、招致・開催都市として「都市振興と住民福祉」の両者のバランスのとれた政策のあり方を求めるだろう。IOCとしても、招致都市のあり方をそのような方向に持って行けるような、評価基準に重きを置くのではないか。その一環がオリンピック開催都市は開催前の9年前から開催後の2年後、つまり11年間のオリンピックレガシー研究に着手した。その最初が2008年の北京オリンピックである。もちろん、その一環に「住民福祉」の項目がどのように埋め込まれているかが重要である。それと同時に、招致都市の評価項目の中に、もっと住民福祉を、そして特に住民へのスポーツ・フォー・オールの施策の実施度を含めるべきである。

IOCは政治に介入しないと先述した。確かに招致・開催都市の「都市振興と住民福祉」の具体的なあり方に介入はできないだろう。しかし、そのバランスある推進の為の方策として、住民のスポーツを含む「住民福祉」的内容をもっと評価基準に規定すべきである。これは政治への介入無しに、間接的に規定することでもある。そしてこのことが、インフラ重視だけの招致とそれに対する反対運動の高揚とを克服する方法が含まれている。その一環が、先に触れたように、最低、過去10年の住民スポーツ振興、国民スポーツ振興のあり方を大きく評価する方向に転換するであろう。今その転換点であるといえるだろう。

今、オリンピックは1つの転換点に来ていると考えるべきだろう。これまでの転換点と同様に、世界の政治経済が変動する中で、オリンピックも又そのあり方が問われている。そして、オリンピックのあり方はIOCレベルだけでなく、もっともっと草の根のレベルでも議論される必要がある。そのことがオリンピックのより健全な方向を見出し、オリンピックのより広い深い支持を得る方向だからである。

イギリスに留学しながら、ロンドンの、そしてこのイギリスから学ぶべきことの1つとして、以上のように考えている。今、東京と日本が反省すべきは、単にプレゼンテーションの技術上の事ではなく、もっと住民に支持されるようなオリンピックの招致・開催のあり方を広く議論することである。むしろそうした運動を盛り上げた方が、IOCへのアピール性もあるのである。

オリンピック招致・開催はスポーツの範囲を超えた、政治経済の問題でもある。オリンピックはすでにそうした性格をいやが上にも帯びている。そうした状況にも拘わらず、スポーツ関係者がただスポーツだけの世界から「オリンピック招致賛成」を叫んでも、それではオリンピックの実態の持つ性格からも遊離してしまっている。

2016年オリンピック競技大会東京招致実現せず:弾丸応援ツアーに参加して

2009 年 10 月 25 日 Comments off


執筆:舛本直文(JOA理事・首都大学東京教授)

紅葉の始まったコペンハーゲンの市庁舎前広場のパブリックビューイング(PV)会場は2016年オリンピック競技大会開催候補4都市の応援団とコペンハーゲン市民で埋まっていた。第121回IOC総会の前半のクライマックスである開催都市決定アナウンスセレモニー。大観衆が固唾を飲んでロゲ会長の発表の映像を見守る。ロゲ会長がオリンピックシンボルマークのついた封筒を開け、「リオデジャネイロ!」と読み上げた瞬間、市庁舎前のリオの応援団が歓喜の声をあげて大喜びするとともに、リオのコパカバーナの特設会場の大応援団が歓喜する様子も大画面に映し出される。サッカーの王様ペレがルーラ大統領など招致メンバーと抱き合って歓ぶ姿が印象的であった。先ずはリオに「おめでとう」のエールを送りたい。また、東京の招致関係者にも「よくやった、ご苦労様でした」と申し上げたい。そして、弾丸応援ツアーに参加したJOAの会員諸氏にも「お疲れ様でした」と言いたい。

1. 始めからリオありき

この2016年オリンピック大会の招致レース、振り返ると端からリオありきであったといえる。5大陸中でオリンピック未開催はアフリカ大陸のみであるが、実はアメリカ大陸のうち南米は未開催であった。(リオの最終プレゼンで世界地図に南米で未開催であることを訴えたのは、強烈なインパクトがあったに違いない。)そのため、昨年の7立候補都市を絞る段階で技術的評価が5位であったリオを開催候補4都市に残したこと、今年9月の評価委員会の評価レポートで最高の評価を得たこと、また南米初のオリンピック開催を希望していたロゲ会長の思惑を組み、おそらくアフリカ大会開催を夢見るモロッコのムタワキル評価委員長など、IOCの総意が元々リオに好意的であったといえる。昨年の立候補段階で5位評価の招致計画が今年になってにわかにトップ評価になるまでに改善されることは想像しがたい。リオが抱える問題点として、中でも治安の悪さやインフラの未整備の問題は大きく報道されていた。また、2014年サッカーW杯の影響で経済が疲弊する可能性も指摘されていたのである。それにもかかわらず今回の選択によって、IOCは2014年のW杯の経験が好結果をもたらすと想定してリオの可能性にかけたことになる。これはある意味では、IOCはリスク覚悟でリオに賭けたのであり、IOCの一種の冒険やチャレンジであるとも言えなくもない。おそらく、ムタワキル評価委員長をはじめアフリカ諸国は「次は自分達の国での開催を」と意気込んでいるに違いない。

2. 東京招致の弾丸応援ツアーに参加して

10月1日深夜、ANA特別便のジャンボ機で東京オリンピック・パラリンピック招致応援団約250人が羽田からコペンハーゲンに向かった。松木、森末両団長の他、応援に借り出された都庁職員約70名、JOAの会員も7,8名参加していた。2日未明にコペンハーゲンに到着する。現地ホテルで結団式を挙行した後、冷たい雨が降りしきる中、東京招致団が最終プレゼンテーションのためにホテルを出発するのを見送るため、我々応援団は沿道に並んで声援と皆のパワーを送った。その後、市庁舎前広場のPV会場で日本のプレゼンを見ながら声援を送ったが、残念ながらツアー企画のため、オバマ大統領夫妻のスピーチなど他都市のプレゼンの様子を見ることができなかった。

さらに実は、ツーリストの時間把握ミスによりPV会場に到着が5分遅れたため、東京のプレゼンのサプライズであった冒頭部分の三科嬢の登場の場面に間に合わなかったのである。これは返す返すも本当に残念であった。しかし、東京のプレゼンは応援団には結構好評であり、各パートで応援団は大声援を送って見守った。しかし、個人的な感想を言えば、東京のVTR映像がIOC委員をわくわくさせられるものであったかと言えば、残念ながらそうとも言えなかったであろう。また、この映像がIOC委員に投票させるまでインパクトがあったかといえばどうであろうか? 日本の禅カルチャーのような白黒映像や昔の子どもたちのスポーツ活動映像、ラストの世界の子ども達の遊ぶ様子の映像などで一体何を訴えかけることができたのか? 環境保護と平和への貢献というメッセージがきちんと伝わったのかどうか? いささか心配な点も見受けられた。これはある意味で2010年から始まるユース・オリンピック大会招致向けのような映像だといえなくもないと思われた。

夕方、IOC総会における投票の様子を見守るため弾丸応援団は再度市庁舎前のPV会場に向かった。ステージ上では地元の子どもたちによる器械体操や新体操、創作ダンスやバブルダッチなどのパフォーマンスが続いている。彼らには発表のいい機会であるが、女の子が多いのは一体なぜだろう? あたりには4都市の応援団も徐々に集まり気勢をあげている。ステージに司会者が登場し、IOC総会の投票会場の様子も映し出される。しかしながら、突然会場はロックコンサートの会場に早代わりしてしまった。大スクリーンもコンサートの映像に切り替わり、そのため第1回目の投票でシカゴが落選したことはPV会場のスクリーンには映し出されなかった。我々がそのことを知ったのは、メディアによる情報からであった。大人気のオバマ夫妻が駆けつけてシカゴの応援をしたにもかかわらず、最下位という結果に皆が大いに驚く。今回、IOC委員は招致活動に政治的な関与を嫌う方向を強固に示したのかもしれない。2012年大会招致合戦におけるブレア首相対シラク大統領、2014年冬季大会招致のプーチン首相など、これまで大物元首たちによる招致のロビー活動が展開されてきており、今回も4カ国の元首がコペンハーゲンに乗り込んでいたからである。

さて、PV会場はまるでロックコンサート会場の様相を呈している。投票の様子がスクリーンに映し出されないため、シカゴに続いて東京が第2回目の投票で落選したこともメディアから伝わる始末である。スクリーン映像ではないので、さざ波のように徐々に落胆の波が東京応援団に広がっていく。その後、松木、森末ら東京の応援団長は早々に引き上げていったが、間寛平とピカチューのぬいぐるみを着た学生応援団達はまた引き返して来て、その後の投票の様子を踊りながら見守っていた。

最終投票結果の発表を待つ間、各都市の応援団の若者たちはPV会場でピースサインを示したりして盛り上がり、世界は一つと言わんばかりに一緒になって歌い踊っていた。日本の若者たちがリオやマドリードの応援団と交流している様は、まさに東京のビジョン”Uniting our Worlds”を実践するものであったといえる。マドリードの応援団から東京に「2020年がんばれ!」とエールが送られる。IOCのいうオリンピック価値とは「エクセレンス、フレンドシップ、リスペクト」の3つの価値である。東京応援団長もリオやマドリードに対してリスペクトしてエールを送れるようなオリンピック運動の応援団であって欲しかった。マドリードは最終投票で破れた後、リオにエールを送っていた。「すばらしい大会を祈る」と。

いよいよ最終発表。ステージ上に4カ国の子どもたちが自国の国旗の小旗を持って登場し、最後の投票結果の発表を見守っている。日本の子ども達は浴衣姿のようである。その後、スクリーンにロゲ会長による最終投票結果発表のセレモニーの様子が映し出される。ロゲ会長がオリンピックシンボルが描かれた封筒から紙を取り出して厳かに読み上げる。「リオデジャネイロ!」。最終投票は地すべり的にリオの圧勝であった。PV会場はリオの応援団の歓喜に包まれた。ステージ上でもブラジルの子ども達が大喜びではしゃいでいる。マドリードの応援団は落胆し、明暗を分けた。

この後もPV会場ではロックミュージックが続き、人々が踊って喜びを表す祝祭ムードの中、我々はリオの応援団に「おめでとう」の声をかけてPV会場を後にした。残念会の会場であるホテルにバスで向かったのである。

残念会の会場には石原知事も駆けつけ、敗戦の悔しさや無念さを吐露する。さらに、東京の応援団に対して感謝とねぎらいの言葉をかけ、招致委員会のプレゼンチームとしては全力を尽くした最高のプレゼンテーションであったと自負していた。猪谷千春、岡野俊一郎の両IOC委員も駆けつけ、招致活動の難しさや力不足を詫び、次回への意欲を見せるスピーチもあった。3日の帰国フライトの機内でも、石原知事は機内を一周して弾丸応援ツアーの参加者に感謝の言葉を述べて回った。目にはうっすらと滲むものが見られた。

3. オリンピック招致活動のレガシー

今回の招致失敗を受け、今後、おそらく招致活動の敗因の分析や総括が行われるであろう。150億円もの招致活動費用の使途も公開されていくに違いない。しかし重要なことは、今回の招致活動が一体どのようなレガシーを日本のオリンピック運動に遺すことができたか、この検証と活用が必要であろう。それが2020年を含む今後の招致活動にもつながって行くことになるはずである。

「オリンピックとは何か」、このことが都民にどれだけ理解されていたのであろうか? 世論の支持率が低いことが東京の弱点であるとされた。それは、オリンピックの真の意義が「スポーツを通して心身ともに調和の取れた若者を育てるという教育思想であり、それがひいてはより良い世界の構築に貢献する平和思想である」ということが十分理解されていないせいかもしれない。そのためには今後、東京都教育庁を中心としたオリンピック教育の展開、嘉納治五郎記念国際オリンピック研究・交流センターの活動など、教育面のレガシーが十分機能していく必要がある。都民へのオリンピック教育やスポーツの普及活動も重要な課題である。そうしないと、いつまでたってもオリンピック競技大会やメダルにしか関心のないイベント主義のオリンピック愛好家であって恒常的なオリンピック運動には全く関心のない都民を再生産し続けることになりかねない。これはさらに、全国レベルのオリンピック教育へと広がっていかなくてはならない。学習指導要領の改訂に伴い、教師研修と教材開発も急がれねばならない。

また、カーボンマイナスなどに配慮した環境オリンピックの構想も実現して欲しい環境面のレガシーである。「10年後の東京」構想が志向する環境への配慮は、今回の招致計画によっても大きな意識変革や行動のきっかけとなったはずである。

さて、2020年大会の招致に向けては、今回の招致活動の検証を踏まえて再検討されるであろうが、今回の招致活動から生まれた様々なレガシーを無駄にしてはならない。リオやマドリードが見せたような何回にもわたる連続の招致活動のみならず、都民や国民が継続的にオリンピック運動を支援し続けていけるような姿勢をはぐくむことが重要なのである。

今回、2016年オリンピック開催のための基金が4000億円積まれているとされるが、それを今回蓄積された様々なレガシーの継承とその更なる発展のために活用する道を考えて欲しいものである。

(付記:本報告は10月06日付「都政新報」の記事を元に加筆したものである。)

PV会場の東京応援団(ピカチュー隊も)

PV会場の東京応援団(ピカチュー隊も)

リオ決定の瞬間(ステージ上の各国子ども達)

リオ決定の瞬間(ステージ上の各国子ども達)

PV会場のスクリーンにはロックコンサート。投票は映し出されない

PV会場のスクリーンにはロックコンサート。投票は映し出されない