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第8回アジア冬季競技大会の札幌・帯広開催が決定

2011 年 4 月 12 日 Comments off

執筆:伊藤 公

第7回大会で日本は54個のメダルを獲得

第8回アジア冬季競技大会(以下、冬季アジア大会)は2011年1月30日より2月6日までの8日間、カザフスタンのアスタナ、アルマトイ両市で開催されたが、その期間中の1月31日、アスタナで行われたアジア・オリンピック評議会(OCA)理事会において、2017年の第8回冬季アジア大会の開催地は札幌・帯広両市に決まった。日本での開催は1986年の第1回札幌大会、90年の第2回札幌大会、2003年の第5回青森大会以来4回目である。

冬季アジア大会はもともと日本オリンピック委員会(JOC)の提唱で始まったもので、「アジアの冬季スポーツの競技レベルは、欧米に比較すると著しく低い。レベルアップするためには、定期的に冬季の総合競技大会を開催するのが一番」というのが理由だった。このJOC開催者の考えが実を結んだのは1984年9月、ソウルで開かれたOCA評議会の時で、第1回大会はそれから1年半後の86年3月1日より8日まで、72年の第11回オリンピック競技大会の舞台となった札幌市で開催された。

この第1回大会では、スキー(アルペン、クロスカントリー)、スケート(スピード、フィギュア)、アイスホッケー、バイアスロンの4競技35種目と、デモンストレーション競技としてスキーのラージヒルジャンプが実施され、中国、北朝鮮、ホンコン、インド、韓国、モンゴル、日本の7つの国と地域から290名の選手と140名の役員、計430名の選手団が参加した。

ホストカントリーの日本は、当時JOC総務主事(現在の専務理事)の役職にあった岡野俊一郎氏(その後、同氏はIOC委員、日本サッカー協会会長)を団長に119名の代表選手団を編成して実施全競技種目に参加。獲得したメダルは35種目中、金29、銀23、銅6個で、日本の金メダル獲得率は82.8%にのぼった。これを見ても一目瞭然のように、当時の日本選手と他のアジア諸国の選手の力は、明らかな差があった。

次の1990年の第2回大会には、インドNOC(国内オリンピック委員会)が立候補し、ライバルがないままにすんなりとインド開催が決まった。だがインドNOCは間もなく開催を返上したために、日本はまた開催を引き受けざるを得なくなり、JOCは札幌市に再度依頼し、開催地になってもらった。札幌市が連続して開催したのは、以上のような理由による。

この第2回札幌大会では、4競技33種目が実施され、全大会を上回る10の国と地域から441名の選手団が参加。日本は全競技に出場したにもかかわらず、金メダル獲得率は54.5%となり、4年間でアジア各国の競技力が著しく向上していることを示した。

初期の冬季アジア大会の開催地には、それ以外にも予期しない出来事が待っていた。次の第3回大会は、4年毎という原則からいえば開催念は1994年だったが、国際オリンピック委員会(IOC)が冬季大会の開催年を独立させ、第17回大会をリレハンメル(ノルウェー)を94年に行うことにしたために、OCAは第3回冬季アジア大会を95年に変更。同大会の開催地には、第1、第2大会に参加し、まずまずの成績を収めている北朝鮮のNOCが立候補した。今にして思うと、北朝鮮は韓国を意識しての立候補だったと思われるが、その辺の深い事情を配慮しないままに、OCAはこれをそのまま認めた。

しかし、北朝鮮NOCは、国内事情を理由に第3回大会の開催を返上し、冬季アジア大会は宙に浮いた状態になってしまった。このピンチを救ったのは中国だった。中国は93年12月に開かれたOCA総会で、「95年に開催することは時間的に無理だが、翌96年ならばハルビンで行うことができる」と名乗りを上げ、実際に96年2月4日から11日までの8日間にわたって4競技43種目が実施された。

参加NOCは17にのぼり、参加人員は役員を含めると700名を超えた。またメダルを獲得したのは中国、カザフスタン、日本、韓国、ウズベキスタンの5か国で、3回目の大会で日本はトップの座を中国に奪われた。

第4回大会は前大会から3年後の1999年に韓国の江原(カンウォン)で行われた。それまで冬季スポーツ競技力はそれほどでもなかった韓国は、この大会では地元開催ということもあり力を発揮した。とりわけスケート競技のショートトラックでの活躍は目を見張るものがあった。

2003年の第5回大会の舞台となったのは青森市を中心とする青森県下の3市3町。日本では1986年、90年の札幌大会につづく3回目の開催で、従来の4競技にカーリングを加えた5競技54種目が実施された。青森県としては、必要最小限の経費で運営するつもりだったが、参加国・地域数、実施競技種目数などの増加に伴い予期しない経費が多くなり、JOCが仲介役となって、経費の削減に四苦八苦した。

2007年の第6回大会は中国の長春で行われた。北京オリンピックを翌年に控えた中国は、規模こそ異なるものの、この大会を無難にこなし、冬季アジア大会は名実ともに定着したように思われていた。

ところが、主催者のOCAは、その後困惑することになる。2011年の第7回大会はカザフスタンのアスタナ、アルマトイ両市で開催するものの、その次の第8回大会の開催国(開催都市)は、決まっていなかったからだ。つまり名乗り出るところはなかった。OCAはJOCに打診してきた。そこでJOCの首脳部は札幌・帯広両市にこのことを伝え、検討してもらった。幸いなことに両市の了解が得られたので、JOCはOCAにその旨を伝えていた。1月31日のOCA理事会で2017年の第8回大会の開催地が札幌・帯広両市に決まった背景にはこのような事情があったのだ。

以上のような経緯で第8回大会は日本で開催されることになったが、2003年の第5回青森大会以来、日本ではオリンピック、アジア大会、ユニバーシアードなどの総合競技大会が行われていない。アジアでの進境著しい中国、韓国などが次々に総合競技大会を招致しているのとは対照的である。したがって2017年の第8回大会は、日本では14年ぶりに開催する総合競技大会ということになる。ちなみにアジア大会はこれまで、夏冬両大会とも夏季オリンピックの翌々年に実施してきたが、次回からは冬季オリンピックの前年開催となる。第8回大会が2017年になったのは、そのためである。

最後に、本年2011年にカザフスタンのアスタナ、アルマトイ両市で開催された第7回大会のことについてふれることにする。この大会は冒頭で紹介したように、1月30日より2月6日までの8日間、28の国・地域から800人以上の選手が参加し、スキー、スケート、アイスホッケー、バイアスロン、バンディの5競技69種目が実施された。

JOC理事・日本スケート連盟会長の橋本聖子団長をトップにバンディを除く4競技に参加した日本代表選手団は、金13、銀24、銅17、計54個のメダルを獲得し、自国開催以外で最多のメダルをものにした。ちなみにもっとも多くのメダルを獲得したのは開催国のカザフスタンで、金32、銀21、銅17、計38個だった。

活躍した日本選手の個々の名前を紹介することは省略するが、JOCの提唱で産声をあげた冬季アジア大会は、ここに至って、”アジアの冬季スポーツ競技力向上”という面では確実に実りつつある。

第16回アジア競技大会(2010/広州)を振り返る

2011 年 4 月 12 日 Comments off

市原則之日本代表選手団団長(JOC専務理事)に聞く

聞き手:伊藤 公・山本尚子

第16回アジア競技大会(2010中国・広州。以下:広州アジア大会)の日本選手団団長を務められた財団法人日本オリンピック委員会市原則之専務理事に、今大会全体の総括や感想、日本代表選手団の様子、今後に向けてなどお話を伺いました。

 

アジア大会を格の高い大会として位置づける

まず、広州アジア大会の総括からお願いします。

市原 この大会は、2012年のロンドンオリンピックに向けての前哨戦と位置づけてはいましたが、まだ曖昧な部分があります。ほかの国際大会との兼ね合いもあり、最強の選手を送ることができなかった競技団体もあります。アジア大会は国費で派遣されるわけですから、そのあたりの格付けをきちんとしていかなければならないでしょう。

 モチベーションという面でいえば、オリンピック競技より非オリンピック競技のほうが高い傾向にあったことは否めません。非オリンピック競技の選手たちにとっては、一番グレードの高い大会になりますからね。ただ以前と異なり、オリンピック競技の選手たちも、アジアで勝たなければオリンピックへはつながらないということを理解するようにはなってきました。

 成績でいえば韓国には追いつきたいと思っていましたが、残念ながら達成できませんでした。また今大会はイラン、インド、カザフスタン、ベトナムといった新しい勢力がたくさんメダルを獲得しました。また36もの国と地域がメダルを獲得しました。これはこれまでで最も多く、アジアのスポーツの裾野が広がってきたという意味では、いい傾向だといえるでしょう。(下表参照)

上位10カ国のメダル獲得数(アジア大会最終成績)
  国・地域
1  中国 199 119 98 416
2  韓国 76 65 91 232
3  日本 48 74 94 216
4  イラン 20 14 25 59
5  カザフスタン 18 23 38 79
6  インド 14 17 33 64
7  台湾 13 16 38 67
8  ウズベキスタン 11 22 23 56
9  タイ 11 9 32 52
10  マレーシア 9 18 14 41

 日本は、1,078人という大選手団を送り込みました。アジア大会の直前には、尖閣諸島の問題がありましたが、我々は過剰反応はせず、一人ひとりが末端の外交官なのだという自覚を持って、粛々と臨み、無事に帰国できたことに安堵しております。

 どの試合も、最初からアウエーといいますか、常に日本の対戦相手に大声援が送られる状況でした。例えば女子サッカーの決勝は、北朝鮮との対戦でしたが、はじめはスタジアム全体が相手への応援一色でした。しかしスポーツが素晴らしいなと思ったのは、日本の選手たちはファイティングスピリットを持って、フェアプレーの精神で堂々とした戦いを繰り広げました。すると次第に、日本に対して拍手をする観客が出てきて、最後にはフレンドシップを生み出してくれたのです。

フェアプレー、ファイティングスピリッツ、フレンドシップ。私はこれを3(スリー)Fと呼んでいます。女子サッカー以外の競技においても、逆境の中で戦い抜いた日本の若者たちを、我々は誇りに思います。

 

最強の選手というお話がありました。具体的に挙げれば、女子バレーボールや男子体操がベストなメンバーを派遣することはできませんでしたね。

市原 バレーボールは、男子はベストメンバーでみごとに優勝をしてくれました。女子は世界選手権のあとにリーグ戦があり、ベストメンバーを派遣できませんでした。

国は7年前から、「競技強化助成・トップリーグ助成」という助成事業で、団体ボールゲームの強化のために各リーグに予算をつけているのです。私が専務理事をやっている日本トップリーグ連携機構という組織がありまして、その加盟リーグにトータルで年間1億6000万円の予算をつけていただいております。それは各リーグの活性化のためというよりは、各リーグの選手強化に充て国際舞台へいい選手を送り込んでくださいという趣旨の予算です。それなのに、国際大会よりもリーグ優先になってしまうというのは、少し残念に思うところです。

 

最近のアジア大会を見ていると、どこもまさに国威発揚の場となっていてすごいですね。中国や韓国はまさに全部トップクラスを送ってきているわけでしょう。

市原 そうです。大会中に韓国の団長、副団長と、昼食をとりながら情報交換をする機会があったのですが、そのときにはっきりと言われました。「韓国は日本よりも精神力で勝っている」と。実際、どこが違うかといえば、具体的には金メダルを獲得すると兵役を免除し、年金をうけられるからだと。

 中国はまさに、「国の力を世界に見せつけるにはなんといってもスポーツから」という意気込みがうかがえ、各省にトレセンがあり、国を挙げてスポーツをバックアップしています。また実際、各競技場には中国だけでなく、各国の大臣や副大臣、副大統領までも応援に来ていました。そのあたりは日本とはずいぶん違うわけですよね。

 ただ日本にはまだ生かし切れていないポテンシャルがあるはずです。決勝まで行っているのに中国や韓国に競り負けてしまったケースがずいぶんありました。ここはなんとか精神力を鍛え上げて潜在能力を出し切れるようにすると、メダルの数や色もずいぶん違ってくるでしょうね。

 

国策として取り組む

日本は、サポートの面で国が理解を示してくれるとはいいながらも、スポーツ行政の面から見るとまだまだ力の入れ方が足りないなあと思うのですが。

市原 スポーツというのは普遍のものであって、政権が変わっても関係なく、国の責任としてやっていってもらいたいとは思いますね。国際大会は国別対抗戦で、選手は国家を背負って戦っているわけですからそうでなければ選手たちが不憫ですよ。国ぐるみで体系を整えてバックアップしてもらいたいという気がしますね。

やはり国の政策として、国策でということでしょうね。

市原 はい。アジア大会だけでなく、国際大会の招致においてもそうですね。例えば2018年のサッカーW杯招致では、韓国は日本よりも積極的なロビー外交で票を取っていました。

たしか韓国は官民一体となり、国や企業が一緒になってスポーツを支援しているようですよね。大統領令でスポーツ選手にお金を出せるシステムもあるとも伺いました。そのへんの違いは大きいでしょうね。
 
ロンドンオリンピックへのステップ、前哨戦として見た場合はいかがでしたか。

市原 2004年のアテネ大会では2000年に策定されたスポーツ振興基本計画を受けて、JOCがゴールドプランを作成し、その勢いで16個もの金メダルを獲得できました。しかしいま思えばあれはバブルだったかもしれないですね。アテネ大会を基準にして、世界の5位、そして3位と計画を立てましたが、北京大会や今回のアジア大会の成績はこれが今の日本の本当の力なのだと謙虚に受け止め、アジア全体の競技力も近年著しく向上していますので、原点に帰ったほうがいいかと思っています。

 それを考えると、多くのメダル獲得が期待される競技に的を絞った今のマルチサポートも、スポーツ行政としてこれでいいのかという思いはあります。マルチサポートに入っていない、団体ボールゲームは大勢の人数で戦ってもチームで一つしかメダルは取れません。でも団体ボールゲームにはドラマがあり、たくさんの素晴らしいスポーツマインドあるのです。

アテネのときだったか、市原さんが「チームゲームは選手団の志気に与える影響が大きい」とお話をされていたのを覚えています。

市原 そうなんです。ボールゲームは予選から決勝まで毎日のように試合をして、メダルを取るまでに長い日数がかかります。しかしそうしていくうちに、チーム内のコミュニケーションが醸成され、チームも各人も少しずつ成長し、それがドラマ性を生み出し、国民の感動を呼ぶのですよね。そういう意味でも、スポーツ振興を考えるときに、チームゲームの頑張りというのは大きいのです。

今大会に関しては、チームスポーツはよく戦ったように思いますが。

市原 今回、チームスポーツで好結果が出たのは、トレセンで寝食を共にしての強化が実りつつあるということだと思います。怒りも苦しみも楽しみも分かち合い、心のつながりが生まれているのです。まさにチームワークの向上ですね。

 

では、情報の面から見てどうだったでしょうか。

市原 少し精度が低かったという感じがしています。JOCの中に情報戦略の部門があるのですが、集めている情報は現地で収集したものは少なく、インターネットや、世界ランクはこうだからと数値を分析したデータが多いのです。

海外にアンテナを張り巡らしての生の情報とは若干ズレがあるのですね。

市原 はい。最近、あの選手は故障したらしいとか、プライベートで少し問題を抱えているといった生きた情報ではない。「無名だけどこういう選手がいるらしい」といった情報はそれではなかなか入ってこないのです。でも中国や韓国は、そういう情報を上手に集めているので、日本としてもそういった情報収集にもっともっと入り込んでいかなくてはならないでしょう。

 その一方で、日本は、多数の企業がスポーツをサポートし、国の強化費は少ないけれども、企業に支えられている選手は多くいます。そうした選手は国のためより、企業のために頑張るわけですが、これが国の費用であれば「国の代表なのだから国のためにがんばる」という誇りがもっと生まれてくるはずです。今まで日本のトップスポーツ選手は、大学や企業に支えられていた面が大きくあります。そこのスタンスをなんとか「国」が主体となれるよう変えていくべきだとは思っているのですが。

 

フェアプレー、ファイティングスピリッツ、フレンドシップ

いまゴールドプランのほうはどうなっているのですか。

市原 スポーツ庁の設置を望んでいます。スポーツ選手の環境整備が大きな課題で、選手のセカンドキャリアについての活動などもしています。安心して競技生活を続けられるように、一つは各企業に選手を抱えてもらえるよう経済界の人に協力をしていただいて説明会を実施しています。

 もう一つは選手が企業で使い捨てにならないよう、企業内でセカンドキャリア教育をしてもらいたいと考えています。現役のうちはほかの人よりも就業時間が短くなる。その分、勉強をして何か資格を取りなさいといったように企業との連携も大切ですね。

市原さんが所属していらした湧永製薬ではそういうことをされていたそうですね。

市原 前オーナーが熱心な方でしたので、スポーツをやった後の人生が大事だということで、いろいろな勉強会がありました。スポーツの技術面だけを磨いていくのではなく、社会人として、企業人としての部分でも成長する必要があるということですね。

 

市原さんのような実業界出身というキャリアをお持ちの方は、JOCの理事の方の中でも数少ないと思います。市原さんもいずれリタイアされる時期が来るわけですが、実業界で培った見識や考え方を踏襲させていっていただきたいですね。

市原 JOCの中で、実業人は私だけではありませんが、JOCの職員の皆さんにも実業人的な感覚をもっていただければならないと思います。我々理事は任期ごとに入れ替わっていきますが、職員の方は定年までいるわけですから、プロフェッショナル意識をもっと持っていただく必要があると思います。そこで2010年から職員研修会を始めました。現在は国民の目線は厳しくなり、我々も職員も競争原理を導入し、社会性を持って、サービス業のような気持ちを持って仕事に臨んでいかなければなりません。そして、競技団体の皆さんと良い連携をとりつつ、仕事をする。すなわち「現場主義」で行動していくということですね。

 

今回、日本代表選手団は大人数でしたが、「チームジャパン」として見た場合、まとまりについてはいかがでしたか。

市原 「チームジャパン」については、アテネ大会のころから、特に指導者に対して、口を酸っぱくしてチーム意識を持つようにと言っています。ですから、チーム内連携は非常によくなっていますし、今回もよかったと思います。競技が終わった選手が、ほかの競技の応援に行くケースも多くありました。

チーム内連携の基本は、「あいさつ」です。チームジャパンの選手同士、顔見知りでなくてもあいさつをする。そうすると、そのあいさつの輪がボランティアの皆さんに広がり、そこから今度は地元の中国の人にも広がりといったように、あいさつの輪が広がり、そこからチームジャパンの大きな支援体制ができるという経験をしました。

 

バンクーバー大会やユースオリンピックのときに実施したような、オリンピック教育のための集合研修「ビルディングアップ・チームジャパン」は今回はなかったようですが、ロンドン大会や今後に向け、オリンピック教育の方向性はどうなっていますか。

市原 オリンピックでは、残念ながらドーピングやレフェリングなどの問題が生まれています。そんな折りですので、私は「偏った選手をつくってはいけない」と考えています。先ほど私は「スリーF」のお話をしました。スポーツの原点であるフェアプレーの精神を持ち、常にファイティングスピリッツで全力を尽くして戦い、勝者に対しても敗者に対しても敬意を忘れない。そこからフレンドシップが生まれ、感動を呼ぶと。そういう精神の寛容さを持った人間となるための教育が重要ですね。

その意味で、選手たちにはまだオリンピック教育が足りないのではないかと思うのですよ。やはり、「ビルディングアップ・ジャパン」で実施したような教育の場が、オリンピックでもアジア大会も必要だと思いますね。人数が多くなると大変ではありますが、ユースオリンピックのときのように結団式の機会を使ってもいいですしね。そういう機会が多くあればいいと思います。

市原 そうですね。そして一番のポイントは指導者でしょうね。選手へももちろんですが、まず指導者にしっかりオリンピック運動について理解を得る必要性を痛感しています。そのために今JOCでは、日本代表としての品性・資質を兼ね備えたトップコーチを育成する「JOCナショナルコーチアカデミー」を実施しています。

JOCの、そのような新しい試みにも期待しています。お忙しいところ、どうもありがとうございました。

アジア競技大会の歴史と今後の課題

2011 年 4 月 12 日 Comments off


執筆:伊藤 公

第16回アジア競技大会は、2010年11月12日より27日までの16日間、中国の広州で開催された。この大会では42競技476種目が実施され、アジア・オリンピック評議会(Olympic Council of Asia=OCA)加盟全部の45の国と地域から14,000人を超える選手・役員が参加し、史上最大規模の”アジア民族のスポーツの祭典”となった。

 この大会に参加した日本代表選手団のことについては市原則之団長(日本オリンピック委員会=JOC=専務理事)がインタビューで別途総括しているので、ここではアジア競技大会の歴史を振り返りながら、今後の課題などについても考えてみたい。

アジア競技大会の歴史と日本の参加状況

 アジア競技大会(The Asian Games)とは、OCA加盟のアジア地域の国と地域の選手が集まって開く総合競技大会のことである。主催はOCA(ただし、1982年の第9回ニューデリー大会までの主催者はアジア競技連盟=Asian Games Federation=AGF)で、オリンピックの中間年(正式には夏季大会の翌々年)に、4年に1回行われる。現在の本部はクウェートに置かれている。

 OCAの前進のAGFが創立されたのは1948年である。第2次世界大戦終了後初の夏季オリンピックは、この年にロンドン(イギリス)で開催された。この時にアジア地域から参加した当時のインド、フィリピン、中国、朝鮮、ビルマ、セイロンの6カ国の代表が集まりAGFを創立し、第1回大会を2年後の1950年にインドのニューデリーで開催することを決めた。しかし、ヨーロッパへ発注した競技用具の到着が遅れたために、実際に開催されたのは翌51年3月のことだった。

 この記念すべき第1回ニューデリー大会では、陸上競技、水泳(競泳、飛込み、水球)、サッカー、バスケットボール、ウエイトリフティング、自転車競技の6競技が実施され、日本は水泳を除く5競技に84人の代表選手団(選手65人、役員19人)を派遣し、参加11カ国の中で、最高の成績を収めた。当時の日本は第2次世界大戦後、まだそれほどの年月が経っていなかったので国際オリンピック委員会(IOC)をはじめ各国際競技連盟(IF)などへの国際スポーツ界への復帰は果たしていなかったが、この大会への参加は、日本が世界へ再デビューする契機となったことで知られている。

 そこでまず、アジア競技大会(以下、単に「アジア大会」と表記する)は、いつ、どこで開催され、日本選手団の成績はどうだったかなどを振り返ってみることにする。各大会ごとの①は開催年月日、②は実施競技数、③は参加国・地域数、④は日本代表選手団数(選手数、役員数)、⑤日本代表選手団が獲得したメダル数(金、銀、銅メダル数)である。これらのデータはいずれもJOC調べによる。

■第1回大会 ニューデリー(インド)

 ①1951年3月4日~11日、②6、③11、④84(65, 19)、⑤60(24, 21, 15)

■第2回大会 マニラ(フィリピン)

 ①1954年5月1日~9日、②8、③18、④198(151, 47)、⑤98(38, 36, 24)

■第3回大会 東京(日本)

 ①1958年5月24日~6月1日、②13、③20、④337(287, 50)、⑤138(67, 41, 30)

■第4回大会 ジャカルタ(インドネシア)

 ①1962年8月24日~9月4日、②14、③17、④252(209, 43)、⑤155(74, 57, 24)

■第5回大会 バンコク(タイ)

 ①1966年12月9日~20日、②14、③18、④259(216, 43)、⑤166(78, 53, 33)

■第6回大会 バンコク(タイ)

 ①1970年12月9日~20日、②13、③18、④267(221, 46)、⑤144(74, 47, 23)

■第7回大会 テヘラン(イラン)

 ①1974年9月1日~15日、②16、③25、④328(290, 38)、⑤165(69, 49, 47)

■第8回大会 バンコク(タイ)

 ①1978年12月9日~20日 ②19、③27、④373(306, 67)、⑤178(70, 59, 49)

■第9回大会 ニューデリー(インド)

 ①1982年11月19日~12月4日、②21、③33、④463(355, 108)、⑤153(57, 52, 44)

■第10回大会 ソウル(韓国)

 ①1986年9月20日~10月5日、②25、③27、④551(439, 112)、⑤211(58, 76, 77)

■第11回大会 北京(中国)

 ①1990年9月22日~10月7日、②27、③37、④674(543, 131)、⑤164(38, 60,76)

■第12回大会 広島(日本)

 ①1994年10月2日~16日、②34、③43、④1,017(678, 339)、⑤218(64, 75, 79)

■第13回大会 バンコク(タイ)

 ①1998年12月6日~20日、②36、③41、④956(629, 327)、⑤181(52, 61, 68)

■第14回大会 釜山(韓国)

 ①2002年9月29日~10月14日、②38、 ③44、④985(658, 327)、⑤190(44, 74, 72)

■第15回大会 ドーハ(カタール)

 ①2006年12月1日~15日、②39、③45、④905(626, 279)、⑤199(50, 71, 78)

■第16回大会 広州(中国)

 ①2010年11月12日~27日、②42、 ③45、 ④1,078(726, 352)、⑤216(48, 74, 94)

財政・政治問題などで何回も開催の危機に

 以上のデータからもわかるように、アジア大会はこれまで16回行われているが、もっとも多く開催しているのはバンコク(タイ)で、その回数は4回にのぼる。バンコクが最初に開催地となったのは1966年の第5回大会だが、次の70年の第6回大会も、引き続き開催している。のみならず1回置いて78年の第8回大会の開催地にもなった。バンコクがどうしてこのように3回も開催地になったのかといえば、当時のAGF加盟国はいずれも財政的な余裕がなかったからだ。とりわけ78年の第8回大会は、開催に漕ぎつけるまでが大変だった。

 実は第8回大会の開催地には、ほとんどの日本人は忘れかけているが、福岡市も立候補している。その開催地を決めるAGF評議員会は72年のミュンヘン・オリンピックの際にミュンヘンで行われたが、この時は伏兵のシンガポールに軍配があがった。西欧にばかり目を向けている日本に対するアジア諸国の反感があったためと言われている。しかし、シンガポールは財政上の理由で間もなく返上、代替地に名乗り出たのはイスラマバード(パキスタン)だった。そこでAGFはイスラマバードに決めたが、パキスタンの国内の財政事情が良くなかったために、これまた間もなく返上してしまった。

 第8回大会は宙に浮く可能性があった。そこに救いの手を差し出したのは、過去に2回の開催経験を持つバンコク(タイ)。ただし、この時にタイ側が提示した条件は、開催には「300万ドルが必要。参加国が応分の分担をしてくれれば」というものだった。ちなみに15カ国が分担金を支払ったが、一番多いのはサウジアラビアで50万ドル、次のクウェートが25万ドル、日本と中国は各20万ドル、イラク、カタールが各15万ドル…と続く。これを見ても明らかなように、危機を救ったのは中近東の石油産出国だった。日本は自転車振興会から出してもらい、3回に分けて送金した。タイは以上の3回の他に、98年の第13回大会をバンコクで開催しているが、この時は過去3回とは事情が違う。

 なおアジア大会を2回開催している国はインド(いずれもニューデリー)、日本(東京、広島)、韓国(ソウル、釜山)、中国(北京、広州)の3カ国で、フィリピン(マニラ)、インドネシア(ジャカルタ)、イラン(テヘラン)、カタール(ドーハ)は各1回となっている。

 このようにアジア大会は、1回も中止されることがなく開催されてきたが、財政・政治問題などのために何度か難問題に遭遇し、その都度、中止または延期の危険にさらされてきた事実は否定することができない。主催者がAGFからOCAに変わった1986年の第10回ソウル大会以降は、かつてほどの深刻な悩みはなくなったようにも思われるが、別の面での問題も生じている。

1978年の第8回バンコク大会までは日本がアジアのNo.1

 次に、アジアにおける競技力の面に目を転じてみよう。

 1951年の第1回ニューデリー大会から78年の第8回バンコク大会までは、日本がアジアにおける”スポーツ1等国”で、金銀銅メダルの獲得率は断トツに多かった。ところが、92年の第9回ニューデリー大会からは様相が変わってきた。中国がアジアのトップを占めるようになったのだ。

 第2次世界大戦後、中国がIOCに加盟したのは54年のことである。だがそれから4年後の58年に中国は国内事情でIOCを脱退すると同時に、IFからも身を引いた。中国はその時から、国際スポーツ界とは無縁となった。中国が国際スポーツ界に復帰するのは、それから15年後の73年のことである。中国がIOCはもちろん、国際スポーツ界に復帰するにあたって、その仲介役を果たしたのはJOCだった。忘れてならないのは、当時のAGFが中国と仲間に迎え入れると同時に、台湾を追放していることだ(もっとも台湾は、間もなくAGFに復帰した)。そして中国は74年の第7回テヘラン大会に参加し、日本、イランに次いで第3位の成績を収め、次の第8回バンコク大会では日本に肉迫する。ただし当時の中国は、「友好第一、競技第二」をスローガンに掲げていた。

 中国が日本に変わってアジアのNo.1になるのは、82年の第9回ニューデリー大会の時だ。33の国と地域から4,635人の選手・役員を集めて21の競技が行われたこの大会で、中国は金61、銀51、銅41個のメダルを掌中にし、金57、銀52、銅44個の日本を追い抜いた。メダル総数はまったく同数の153個だったが、日本は金メダル数で4つの差をつけられてしまったのである。そして主催者がOCAになった86年の第10回ソウル大会から日本は、韓国にも後れをとるようになった。94年の第12回広島大会は、地元日本開催ということと中国選手のドーピング事件がぼっ発したために、何とか韓国に競り勝ち2位の座を確保したものの、98年の第13回バンコク大会以降4大会は、1位・中国、2位・韓国、3位・日本の順位は不動のものとなっている。今回の第16回大会のメダル獲得数は、中国が金199、銀119、銅98の計416個、韓国が金76、銀65、銅91の計232個に対して、日本は金48、銀74、銅94の計216個。その差は開くばかりで、残念ながら、”アジアNo.1″の座は過去のものになりつつある。

OCAが抱える問題とJOCのスタンス

 最後に、アジア大会が抱える課題について考えてみたい。

 60年前の1951年に11カ国から約500人の選手・役員を集め、6競技44種目の実施でスタートしたアジア大会は回を重ねるに従い大きくなり、AGF主催最後の82年の第9回ニューデリー大会では、33の国と地域から4,635人の選手・役員が参加し、21競技193種目が実施されている。主催者がOCAに変わった86年の第10回ソウル大会、90年の第11回北京大会を経て参加国・地域、参加人数、実施競技種目数は増加したが、特記すべきほどでもない。極端に多くなるのは94年の第12回広島大会の時で、43の国・地域から6,828人の選手団が参加し、オリンピックを上回る34競技337種目が実施された。広島の大会組織委員会は規模を大きくしたくなかったのだが、主催者のOCAに押し切られてしまった。参考までに紹介すると、その2年前の92年のバルセロナ・オリンピックでは25競技257種目が行われているので、それよりも9競技80種目も多い。

 このマンモス化にはさらに拍車がかかり、98年の第13回バンコク大会、2002年の第14回釜山大会、06年の第15回ドーハ大会へと進み、10年の第16回広州大会ではOCA加盟全部の45の国・地域から14,000人を超す選手団が集まり、42競技476種目も実施した。08年の北京オリンピックでは28競技302種目が行われているので、実施競技では14競技、種目では174種目も多い。OCAとしては、オリンピック競技種目以外にアジアで普及しているものをできるだけ採用したいとの気持ちがあり、それがこのような傾向になったと思われるが、歯止めがきかないほどにマンモス化してしまった。

 そこでOCAは猛省し、次の14年の第17回仁川(韓国)大会からは、オリンピックと同じ28競技に7競技を加え、35競技にしようと考えているようだが、まだ最終的な結論は出ていない。しかし、いずれにしても、ふくれ上がった競技種目は縮小せざるを得ないだろう。その場合、どの競技種目を残し、どの競技種目を除外するかは、各国内オリンピック委員会(NOC)や国内競技団体(NF)の思惑も入り交っての攻防になることが予想される。OCA加盟国の大半が「なるほど」と納得できるように決着して欲しいものだ。

 もう1つ、JOCとして考えて欲しいのは、アジア大会の位置づけである。JOCは「広州アジア大会はロンドン・オリンピックへのステップ」と言いながら、各競技団体は最強のチーム・選手を派遣しないところもあった。スケジュールの関係でそれができなかった事情は理解できるが、最強のチーム・選手を派遣しないと、もはやアジアの頂点に立つことやメダルに手が届かないことは目に見えている。

 日本のスポーツ界、とりわけJOC、NFは、アジア大会の位置づけを、高所大所に立って構築すべきだ。また国の全面的な援助がなければ、国際的な舞台で優秀な成績を収めることは不可能に近い。好むと好まざるとにかかわらず、今こそ国をあげてのスポーツ振興策の出現が望まれている。