第8回アジア冬季競技大会の札幌・帯広開催が決定
執筆:伊藤 公
第7回大会で日本は54個のメダルを獲得
第8回アジア冬季競技大会(以下、冬季アジア大会)は2011年1月30日より2月6日までの8日間、カザフスタンのアスタナ、アルマトイ両市で開催されたが、その期間中の1月31日、アスタナで行われたアジア・オリンピック評議会(OCA)理事会において、2017年の第8回冬季アジア大会の開催地は札幌・帯広両市に決まった。日本での開催は1986年の第1回札幌大会、90年の第2回札幌大会、2003年の第5回青森大会以来4回目である。
冬季アジア大会はもともと日本オリンピック委員会(JOC)の提唱で始まったもので、「アジアの冬季スポーツの競技レベルは、欧米に比較すると著しく低い。レベルアップするためには、定期的に冬季の総合競技大会を開催するのが一番」というのが理由だった。このJOC開催者の考えが実を結んだのは1984年9月、ソウルで開かれたOCA評議会の時で、第1回大会はそれから1年半後の86年3月1日より8日まで、72年の第11回オリンピック競技大会の舞台となった札幌市で開催された。
この第1回大会では、スキー(アルペン、クロスカントリー)、スケート(スピード、フィギュア)、アイスホッケー、バイアスロンの4競技35種目と、デモンストレーション競技としてスキーのラージヒルジャンプが実施され、中国、北朝鮮、ホンコン、インド、韓国、モンゴル、日本の7つの国と地域から290名の選手と140名の役員、計430名の選手団が参加した。
ホストカントリーの日本は、当時JOC総務主事(現在の専務理事)の役職にあった岡野俊一郎氏(その後、同氏はIOC委員、日本サッカー協会会長)を団長に119名の代表選手団を編成して実施全競技種目に参加。獲得したメダルは35種目中、金29、銀23、銅6個で、日本の金メダル獲得率は82.8%にのぼった。これを見ても一目瞭然のように、当時の日本選手と他のアジア諸国の選手の力は、明らかな差があった。
次の1990年の第2回大会には、インドNOC(国内オリンピック委員会)が立候補し、ライバルがないままにすんなりとインド開催が決まった。だがインドNOCは間もなく開催を返上したために、日本はまた開催を引き受けざるを得なくなり、JOCは札幌市に再度依頼し、開催地になってもらった。札幌市が連続して開催したのは、以上のような理由による。
この第2回札幌大会では、4競技33種目が実施され、全大会を上回る10の国と地域から441名の選手団が参加。日本は全競技に出場したにもかかわらず、金メダル獲得率は54.5%となり、4年間でアジア各国の競技力が著しく向上していることを示した。
初期の冬季アジア大会の開催地には、それ以外にも予期しない出来事が待っていた。次の第3回大会は、4年毎という原則からいえば開催念は1994年だったが、国際オリンピック委員会(IOC)が冬季大会の開催年を独立させ、第17回大会をリレハンメル(ノルウェー)を94年に行うことにしたために、OCAは第3回冬季アジア大会を95年に変更。同大会の開催地には、第1、第2大会に参加し、まずまずの成績を収めている北朝鮮のNOCが立候補した。今にして思うと、北朝鮮は韓国を意識しての立候補だったと思われるが、その辺の深い事情を配慮しないままに、OCAはこれをそのまま認めた。
しかし、北朝鮮NOCは、国内事情を理由に第3回大会の開催を返上し、冬季アジア大会は宙に浮いた状態になってしまった。このピンチを救ったのは中国だった。中国は93年12月に開かれたOCA総会で、「95年に開催することは時間的に無理だが、翌96年ならばハルビンで行うことができる」と名乗りを上げ、実際に96年2月4日から11日までの8日間にわたって4競技43種目が実施された。
参加NOCは17にのぼり、参加人員は役員を含めると700名を超えた。またメダルを獲得したのは中国、カザフスタン、日本、韓国、ウズベキスタンの5か国で、3回目の大会で日本はトップの座を中国に奪われた。
第4回大会は前大会から3年後の1999年に韓国の江原(カンウォン)で行われた。それまで冬季スポーツ競技力はそれほどでもなかった韓国は、この大会では地元開催ということもあり力を発揮した。とりわけスケート競技のショートトラックでの活躍は目を見張るものがあった。
2003年の第5回大会の舞台となったのは青森市を中心とする青森県下の3市3町。日本では1986年、90年の札幌大会につづく3回目の開催で、従来の4競技にカーリングを加えた5競技54種目が実施された。青森県としては、必要最小限の経費で運営するつもりだったが、参加国・地域数、実施競技種目数などの増加に伴い予期しない経費が多くなり、JOCが仲介役となって、経費の削減に四苦八苦した。
2007年の第6回大会は中国の長春で行われた。北京オリンピックを翌年に控えた中国は、規模こそ異なるものの、この大会を無難にこなし、冬季アジア大会は名実ともに定着したように思われていた。
ところが、主催者のOCAは、その後困惑することになる。2011年の第7回大会はカザフスタンのアスタナ、アルマトイ両市で開催するものの、その次の第8回大会の開催国(開催都市)は、決まっていなかったからだ。つまり名乗り出るところはなかった。OCAはJOCに打診してきた。そこでJOCの首脳部は札幌・帯広両市にこのことを伝え、検討してもらった。幸いなことに両市の了解が得られたので、JOCはOCAにその旨を伝えていた。1月31日のOCA理事会で2017年の第8回大会の開催地が札幌・帯広両市に決まった背景にはこのような事情があったのだ。
以上のような経緯で第8回大会は日本で開催されることになったが、2003年の第5回青森大会以来、日本ではオリンピック、アジア大会、ユニバーシアードなどの総合競技大会が行われていない。アジアでの進境著しい中国、韓国などが次々に総合競技大会を招致しているのとは対照的である。したがって2017年の第8回大会は、日本では14年ぶりに開催する総合競技大会ということになる。ちなみにアジア大会はこれまで、夏冬両大会とも夏季オリンピックの翌々年に実施してきたが、次回からは冬季オリンピックの前年開催となる。第8回大会が2017年になったのは、そのためである。
最後に、本年2011年にカザフスタンのアスタナ、アルマトイ両市で開催された第7回大会のことについてふれることにする。この大会は冒頭で紹介したように、1月30日より2月6日までの8日間、28の国・地域から800人以上の選手が参加し、スキー、スケート、アイスホッケー、バイアスロン、バンディの5競技69種目が実施された。
JOC理事・日本スケート連盟会長の橋本聖子団長をトップにバンディを除く4競技に参加した日本代表選手団は、金13、銀24、銅17、計54個のメダルを獲得し、自国開催以外で最多のメダルをものにした。ちなみにもっとも多くのメダルを獲得したのは開催国のカザフスタンで、金32、銀21、銅17、計38個だった。
活躍した日本選手の個々の名前を紹介することは省略するが、JOCの提唱で産声をあげた冬季アジア大会は、ここに至って、”アジアの冬季スポーツ競技力向上”という面では確実に実りつつある。