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2007年オリンピック休戦センター作文コンテスト入賞作品から

2009 年 10 月 10 日 Comments off

2000個の赤鼻


作品紹介と和訳:和田 恵子

※この記事は2008年9月に執筆されたものをJOA Review アーカイブ(第0号)に掲載しています。

オリンピック休戦センター(本部アテネ)が2007年に行った作文コンテストの入賞作品から、コソボの子どもたちのもとを訪れた国境なきピエロ団の作文を紹介したい。この作文コンテストの応募資格は、アルバニア、ボスニア&ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、キプロス、エジプト、F.Y.R.O.M、ギリシャ、イスラエル、ヨルダン、レバノン、マルタ、モルドバ、モンテネグロ、パレスチナ、ルーマニア、セルビア、スロベニア、トルコの居住者のみ。五位までの作品は、ギリシャの学校生徒に配布され、2008年の北京オリンピックのギリシャ・ハウスでも展示された。(和田恵子)

作 コスタス・ハララス
英訳 ブライアン・ホラビー

「なぜ、コソボの子どもたちは笑わないのだろう?」
「君たちが初めてここにやって来たときに説明したはずだがね」コソボ自治区平和維持軍のノルウェー人司令官は言った。尋ねたのは『国境なきピエロ団』の責任者、ゲーリーだ。ここはコソボの首都プリシュティナ。二人は指令本部の建物に入って行った。いい加減なつづりで「ようこそ」と壁に銃痕で穿たれた言葉が彼らを出迎えた。彼らはコーヒーを淹れ、話を続けた。
「ここは狙撃兵や密輸業者が暗躍する国境なき危険地帯だ。こんなところまでやって来る君たちの気が知れんよ」
司令官は修羅場をくぐり抜けてきた百戦練磨のつわものだ。
そもそも、コソボの学校に『国境なきピエロ団』を派遣するなどというのは、国連当局が言ってきたときから気に入らなかった。
この二人には何ひとつ共通点があろうはずもなく、戦う術はまったく違っていた。しかし、この軍人と芸人の間にもある共通の使命があった。一人にとっては停戦決議を実行して戦いからコソボを解放することであり、一方にとっては笑いと手品で子どもたちの恐怖と不安を解いてやることだった。
平和は投票などでもたらせるようなものではなく、自らの行動で獲得するもの。ロンドンから来た若いゲーリーはそのことを十分に分かっていたようだった。
「子どもたちを笑わせるには、まず大人が笑うことだ」と、司令官が言ったことがあった。いつも黒い縞々ズボンにサスペンダー姿のゲーリーは、この言葉に返した。「大人を笑わせるには、子どもたちが笑うことが必要なんです。笑うことはピアノを弾くようなもの。弾き方を忘れてしまったら、一からおさらいし直さなければならない。でも子どもなら学ぶことにかけては天才ですから」と。
ゲーリーはそう言いながら続けた。「あなたが正しいのかもしれない。私たちはここで何ひとつ成果は上げられていないんですから。パントマイムも手品も、ピエロの赤い鼻だって何の役にも立たなかった。世界中を回ってきたが、こんなことは初めてだ」。彼の声からは明るく情熱的な響きは消えていた。
多彩なメンバーでチームを組み世界各地を訪れるようになる前、ゲーリーはロンドン屈指の名門校で演劇を学ぶエリート学生だった。世界の舞台から降るほどの誘いがかかっていた。ロンドン演劇界の若きスターは引く手あまたで、雑誌の表紙を飾ることだって夢ではなかった。しかし、たった一つの赤信号が彼の人生を大きく変えてしまうことになる。
ある日のオーディションの帰り道、ゲーリーは激しい交通渋滞に巻き込まれた。疲れきっていた彼は赤信号に苛立ち、その場で車を乗り捨てた。目の前を通り過ぎた黒い衣装の一団になんとなくついて行きながらふと、自分もまた黒い服を着ていることに気づいた。まるで、教会へと向かうこの無言の列に加わることが運命であったかのように。ゲーリーは葬儀の最後列に紛れ込んだ。隣には一人の少女が座っていた。前列席に座らせようとする両親に逆らって頑固にそこを動こうとはしない。少女の目は、先ほどから棺に釘付けになっている。ゲーリーは何気なくポケットから硬貨を1枚取り出し、手のひらに乗せて見せた。次の瞬間、硬貨は消えたかと思うと、もう片方の握った手の中から現れた。硬貨は現れては消え、消えてはまた思いがけない所に現れる。靴や帽子の中、むく犬の毛の中などから。この手品を教えてくれたのは誰だったろうか。子供の頃だったようにも思うし、違うかもしれない。
少女の気を引こうと披露した手品だったのに、当の本人は微笑みすらしなかった。だが、ゲーリーには分かった。ほんの一瞬だったけれど、少女の視線を棺という悲しい現実の光景から逸らしてやることができたことは確かだった。
このとき、若い役者の卵は天から授かった自らの使命を悟った。絶対的な恐怖の前で笑いをもたらすこと。この出来事は彼の未来をすっかり変えてしまった。役者としての名声やらゴシップで週刊誌を賑わす代わりに、彼は手品の腕を磨き、プロの道化師たちとともに「国境なきピエロ団」を結成した。国連の保護のもと、彼らは世界中の戦争や紛争で引き裂かれた地域を回り、ほんの数日前までは子どもでいられた人々に、ささやかな平和と安らぎをもたらした。
ところが、どういうわけかここコソボでは、どんな手品をしてみせても何の効き目もないのだ。
その日ゲーリーは空色のヘルメットの兵士たちで溢れる国連の司令本部に立ち寄った。ピエロ団が帰国することを報告するためだ。
「最後にもう1度だけ、挑戦させてもらえないだろうか」。ゲーリーが言った。
「まったく君は、国境なき強情っ張りとでもいうところだな」。見上げたやつだ、とでも言いたげに司令官は苦笑した。いかめしい軍服に隠された彼の素顔がちらりとのぞいた。
ゲーリーは、いつ果てるとも知れぬ紛争のなかでコソボでも最も孤立した学校に向かった。なんとか子どもたちを笑わせようという彼の最後の挑戦だった。護衛として平和維持軍のトラックが同行した。
ゲーリーが校舎の前でトラックを降りたその瞬間、狙撃兵の銃弾が彼を撃ち抜いた。防弾ジャケットを着ていたら助かったかもしれない。が、ピエロが防弾ジャケットなど着ていたら誰も笑ってなんかくれないよ、とゲーリーは常日頃から言っていた。机の下に隠れなさいと叫ぶ教師を無視して、子どもたちが校舎の窓に押し寄せてきた。その熱気で窓ガラスが曇り、倒れたゲーリーの姿はやがてかすんで見えなくなっていった。
「国境なきピエロ団」はその日のうちにコソボを去っていった。後にはゲーリーの亡骸と2000個のピエロの赤い鼻が残された。荷物の中に赤鼻を入れる隙間など、もうどこにもなかったのだ。
やがてゲーリーの両親がプリシュティナに到着した。両親は彼をコソボに埋葬することにした。戦乱の中にあってもなお、笑いと生きる力と希望に溢れる子どもたちの姿を取り戻そうと、ゲーリーが強く願い続けた、このコソボの地に。
その日、プリシュティナの共同墓地にはどんよりとした鉛色の雲が重く垂れ込めていた。と、突然、平和維持軍の駐屯地のあたりから金属音が轟いた。ノルウェー人司令官率いる装甲車部隊が街路を行軍し始めたのだ。
それだけでも突飛な出来事だったが、疲れきった市民の手を止めさせてブルーヘルメット姿の兵士たちに目を向けさせたのは別のある光景だった。若者も年寄りも、セルビア人もアルバニア人も、男も女も、全員がわが目を疑った。女たちはパイを焼いていたのを忘れ、子どもたちはペナルティキックの途中でサッカーの試合を中断し、男は髭剃りの手を止めた。人々の口元に微笑みが浮かんでいた。
いかにも軍人らしい威厳を漂わせた司令官が、先頭のトラックから現れた。なんと彼の顔の真ん中には、ピエロの赤い鼻が誇らしげに鎮座しているではないか。彼の後には、赤い鼻をつけた何百人という兵士が続いていた。「国境なきピエロ団」が残していった、あの赤鼻だ。
銃声は響かず、悲鳴も聞こえない。軍靴の鋲の響きが重くよどんだ空気を切り裂くこともない。あたりには静寂が戻っていた。ただ子どもの幸せそうな歌声だけが響いている。停戦の種は蒔かれた。あとは、それを花開かせる希望の慈雨を待ち望むだけだ。
赤鼻をつけた青ヘルメットの国連部隊は、ゲーリーに対する心からの敬意をこめて一斉に敬礼を捧げた。コソボでの「国境なきピエロ団」とゲーリーの活動は、決して無駄ではなかったのだと。

メルボルン大会閉会式を演出した少年の話

2009 年 10 月 10 日 Comments off


執筆・写真:和田 恵子

※この記事は2007年7月に執筆されたものをJOA Review アーカイブ(第0号)に掲載しています。

ジョン・ウィングと出会ったのは、英国オリンピック・ファウンデーション(英国NOA)のセッションだった。2007年2月23日から3日間にわたって行われたセッション最後の全体会で、司会に促されてジョン・ウィングは話し始めた。参加者は、メルボルン大会閉会式での自由行進を提案した中国系オーストラリア人の話に聞き入った。国別の整然とした行進にならず、それがかえって感動的だったいう閉会式は1964年の東京オリンピックが初めてだと思っていた私は、1956年のメルボルン大会の閉会式ですでに自由な入場行進があったことを知って驚いた。その経緯に興味を持ち、帰国後ジョン・ウィングに依頼して資料を送ってもらった。

ジョン・ウィングと筆者

ジョン・ウィングと筆者

メルボルン大会が行われた1956年は、スエズ危機、ハンガリー動乱が発生した年だった。そんな不穏な世界情勢の中で、第16回オリンピック競技大会が開催された。ティーンエージャーだったジョン・ウィングは、メルボルンオリンピック組織委員会のケント・ヒュー委員長に宛てて手紙を送った(1)。

メルボルン・オリンピック組織委員会に送った手紙(オーストラリア国立図書館の許可を得て掲載)

(1)メルボルン・オリンピック組織委員会宛手紙(オーストラリア国立図書館の許可を得て掲載)

「私は17歳になったばかりの中国人です。(中略)私は閉会式では、全員が1つの国になることを考えています。戦争、政治、国籍をすべて忘れて、1つの国になる。それには、各チームがばらばらになって、選手達が自由に歩いて、観衆に手を振る・・・。」この手紙には、絵も添付されていた(2)。

提案者の名前も素性もわからないまま(署名判読不能と当時の新聞には書かれている)、この案が組織委員会により採用されたのだ。閉会式では彼の望んだとおり、旗手だけが整然と行進し、選手達は混ざり合って行進した(3)。

メディアはすぐさま提案者は誰かと騒ぎ始めたが、ジョン・ウィングはヒュー組織委員長に名前を明かしたくないとの二通目の手紙を書き送り、それ以来沈黙を守り続けた。家族にさえも自分が発案者であることを話さなかったという。

メルボルン大会から30年後の1986年、オリンピック大会をテーマに論文を執筆していたシェー

(2)手紙に添えられていた絵(オーストラリア国立図書館の許可を得て掲載)

(2)手紙に添えられていた絵(オーストラリア国立図書館の許可を得て掲載)

ン・コーヒルが故ヒュー卿の資料の中からウィングの手紙を発見。これをきっかけに「John Ian Wing」にメディアが注目し

he Herald and Weekly Times Ltd Melbourne

(3)The Herald and Weekly Times Ltd Melbourne

た。ハリー・ゴードンが執筆した1986年9月22日付けのTIME誌(4)発行の24時間後にはウィング探しが始まり、1969年からロンドンに居を移していたジョン・ウィングの存在は、その翌日にはオーストラリア中の知るところとなった。

米ソの冷戦で世界が不安定な当時、ジョン・ウィングが求めていたのは、世界中のアスリートが笑顔で、観衆に手をふり世界の友好・平和・調和のメッセージを送ることだった。オリンピックを通じて平和のメッセージを送りたいという当時17歳の若者の提案を組織委員会が受け入れ、さらにIOCの承認も得て実行する-現代ではとうてい考えられないようなエピソードを当の本人から直接聞く機会を得たことはとても幸運なことだった。

(4)Harry GordonによるTIME誌記事

(4)Harry GordonによるTIME誌記事

世界の若者に向けて、ジョン・ウィングは次のメッセージを送っている。
“Don’t write a letter of complaint. Offer a solution”
(不平不満の手紙を書くのはやめて、解決策を示そう)
ジョン・ウィングのウェブサイトは以下の通り。
www.johnwing.co.uk

第29回オリンピック競技大会(通称・北京オリンピック)は、2008年8月8日(金)より24日(日)までの17日間、中国の首都・北京市を主会場にして開催された。この北京オリンピックには史上最多の204の国と地域から11,000人近い選手が参加し、28競技302種目が実施された。前回のアテネ大会の参加国・地域は202、実施種目は301なので、そのいずれにおいてもアテネ大会を上回り、史上最多を記録した。

2006ワールドカップを取材して

2009 年 10 月 10 日 Comments off

-ドイツのオリンピック施設訪問-


執筆・写真:白髭 隆幸

※この記事は2006年7月に執筆されたものをJOA Review アーカイブ(第0号)に掲載しています。

2006年7月9日、FIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップ決勝戦が行われたベルリン・オリンピックシュタディオンには、オリンピック旗が翻っていました。

観客で埋まる2006年ドイツ・ワールドカップ会場

観客で埋まる2006年ドイツ・ワールドカップ会場

なぜワールドカップ決勝戦の場にオリンピック旗なのか? その理由は定かではありません。
6回連続でワールドカップを取材することができました。6月5日に日本を出発、7月13日に帰国するまで39日間、全12会場で22試合を取材することができました。
28年ぶりに訪れたベルリンを中心に、ドイツのオリンピック施設の現在をリポートします。

1936年、第11回オリンピックのメインスタジアムになったオリンピックシュタディオンでは、決勝戦を含む6試合が行われました。
メディアセンターは、1936年のオリンピック当時、マイフェルト(5月広場)と呼ばれた大きな芝生の広場にありました。ポロや2万人のデモンストレーション・マスゲームを行ったところに巨大なテントを建てて臨時にこしらえられたものですが、さすがに決勝戦の会場だけあって立派なものでした。
メディアセンターからの特設階段、通路を通りスタジアムに入りました。回廊が意外と狭いのにはビックリしました。
わたしにとっては28年ぶりのベルリン・オリンピックシュタディオン。屋根はついたものの基本的な骨格はそのままです。なんでも今回のワールドカップのために大理石に番号を振って分解掃除し、再び元の位置に戻す工事を4年間かけておこなったそうです。

基本的な骨格が1936年当時のままのオリンピック・シュタディオン

1936年当時の骨格を残すオリンピック・シュタディオン

オリンピックシュタディオンを1周ぐるっと回ってみました。スタジアム後方の鐘楼(グロッケンタワー)上に釣り下げられていた大きな鐘(『わたしは世界の若人を招く』とドイツ語で彫ってあります)も昔通りメインスタンド後方に置いてありました。ナチスの鍵十字が鋳潰してあるのが印象的です。

バックスタンド後方には、オリンピック・スイミングシュタディオンが健在でした。スタンドは古色蒼然としていますが、プールには奇麗な水が張ってありました。現役のプールのようです。
ベルリンオリンピックの優勝者が彫ってあるマラソンゲートの壁にも近くまで行けました。「SON JAPAN」の文字が印象的です。サッカーはベルリンオリンピックではイタリアが優勝しています。今回のワールドカップでもイタリアが優勝したわけですから、ベルリンのイタリア不敗神話は生き続けているようです。

オリンピック・スイム・スタディオン

オリンピック・スイム・スタディオン

ワールドカップ決勝戦前のアトラクションは、聖火台前の階段で行われました。グラウンドを痛めないので良い趣向であると思いました。試合中はボランティアの人たちが階段に座って試合を観戦していたようでした。

決勝戦の2日後、ブランデングルグ門近辺のお土産屋に1936年オリンピック開催時のベルリンの地図が売っており、それを買い求めてから、現在のオリンピックと比較しながら歩くことにしました。決勝戦直後は、後片付けのためにオリンピックシュタデイオン周辺が閉鎖されており、シュタディオン自体には近づけませんでした。
1万人収容のテニスのセンターコートは、子供の遊び場になっており、その周辺で道に迷う一幕もありました。もう帰ろうと逆にまわりSバーン駅前のレストランでビールを一杯飲んだら元気が出まして、裏に回ってみると、なんとマイフェルトのグロッケンタワーが登れるとのこと。しかもエレベータでかなり高くまでいける(お代は3ユーロ50=約500円)というではありませんか。さっそく登ってみました。
いやあ~、ベルリン市内が一望できました。目のまえにはオリンピックシュタディオン。感動です、古地図で確認したところ、さきほど道に迷ったところ以外は、ほぼ1936年から変わらず施設は残っているようです。
決勝が行われたオリンピックシュタディオンの芝生は奇麗に剥がされていました。多分希望者に少しずつ小分けにして頒布されるのでしょう。

メインスタジアム裏に移動された鐘

メインスタジアム裏に移動された鐘

塔には新しい鐘(本来付けられていた鐘は、戦後イギリス軍が塔を爆破した際に地上に叩き落とされ、それをメインスタジアムの裏に移動した)も釣り下げられていましたし、塔の内部は博物館になっていて、いろいろとドイツの資料が詳しく解説されていました。ここらあたりも歴史を残すのか、それとも負の遺産だからすてるべきなのか、むつかしいところですね。

ブランデンブルグ門の横にある、あのホテルアドロン(1940年、東京が第12回オリンピック開催国に選ばれた際、IOC総会が開かれた老舗ホテル)にも行きました。東ベルリン時代は二流ホテルになり下がっていたようですが、統一後、戦前と同じように超高級ホテルに復活したようです。ちなみに1泊ルームチャージが5~6万円するそうなので泊まるのは断念。テラスでご当地名物のベルリーナヴァイセのグリーンを飲んでみました。白ビールに木苺のジュースを混ぜたもので、ちょっと甘いのですが、とても美味しかったです。

ベルリンにはオリンピックの痕跡をたくさん見つけられましたが、1972年のミュンヘン・オリンピックの会場は、まったく今回のワールドカップとは関係していませんでした。パブリック・ビューイングの会場には使われていたようですが、本番は新しく建設されたAOLアレナが会場になっていました。
1974年の西ドイツワールドカップの際には決勝戦が行われたミュンヘン・オリンピックシュタディオンですが、老朽化がひどくて現在のイベントでは使えないそうです。70年前、1936年のベルリンのスタジアムが復活したのに、34年前のスタジアムが使用できないというのは皮肉ですね。

準決勝戦と決勝戦のインターバル休みの2日間を利用して、チロルに行ってみました。1936年の第4回冬季オリンピックが開かれたガルミッシュ・パルテンキルヘンと1964年の第9回と1976年の第12回冬季オリンピックが開かれたインスブルック(オーストリア)のシャンツェ(ジャンプ台)を訪問しました。
ガルミッシュ・パルテンキルヘン駅裏にあるアイスシュタディオンは、フィギユアスケートとアイスホッケーの会場になったところ。木の板で作られたアリーナは今でも現役のスケート会場です。夏の間はコンサートの会場になるため、中には入れませんでしたが、屋根がつけられて現役バリバリの競技場です。
そこから、いかにもチロルという雄大な景色を眺めながら町外れに移動。オリンピックシャンツェがあり、開閉会式会場にもなったスキーシュタディオンを訪問しました。

子どもたちがサッカーを楽しむシャンツェのブレーキング・トラック

子どもたちがサッカーを楽しむシャンツェのブレーキング・トラック

シャンツェのブレーキングトラックは奇麗な芝生が植えられており、そこでは子供たちがサッカーを楽しんでいました。その横のノーマルヒルシャンツェではサマージャンプをやっているし、日本の大倉山や白馬よりも、ずっと有効利用をしているようです。オリンピック開催は80年前のことですから、ドイツという国は一筋縄ではいきません。
わたしにとって収穫だったのは、オリンピック金メダリストの刻印を見つけたこと。門柱にベルリンのオリンピックシュタディオン同様、優勝者の名前がドイツ語で彫り込まれていました。過去2回の訪問時には気が付きませんでしたから、大きな成果です。
シャンツェ正面には、その名も「オリンピックハウス」というロッジ風の建物があり、1階はレストラン、2階はホテルのようでした。1936年当時から大切に使っている建物のようで、そこのテラスで食事を摂ったのですが、夕暮れのシャンツェを眺めながらのディナーは、なかなか雄大で気持ちがよかったです。すっかり暮れてしまうとラージヒルのジャンプ台がライトアップされ、なかなか良い感じでした。

インスブルックの一つ手前の駅近くにべルクイーゼル・シャンツェが見えました。インスブルック駅のインフォメーションで手に入れた地図によるとそれが1964年と1976年の冬季オリンピックの開会式とラージヒルジャンプ(当時は『90m級純ジャンプ』と呼ばれていました)が実施されたシャンツェです。

ベルクイーゼル・シャンツェのジャンプスタート地点

シャンツェのジャンプスタート地点から

ギリシャの円形劇場を思わせシャンツェは、思っていたより小ぶりでしたが、なかなかコンパクトなものでした。入場料を払って入れば、ジャンプのスタート地点までゴンドラとエレベータであがることができます。
二つある聖火台の下には2大会の全種目の金、銀、銅メダリストの銘版がはめ込まれていました。
2002年に新設されたスタートハウス上まで登ると、インスブルックの街は一望のもとです。そこでアイスシュタディオンの位置が確認できたので、行ってみることに。横には2年後のサッカーユーロ2008(ヨーロッパ選手権)で会場の一つに選ばれているチロルシュタディオンが改修中でした。アイスホールの横にスピードスケートの会場があることもわかりました。

以上が、今回のワールドカップの際に見て回ったオリンピック関連施設のレポートです。ぜひ機会があれば訪ねてみてください。

トリノ便り

2009 年 10 月 8 日 Comments off

執筆・写真:舛本 直文

※この記事は2006年2月に執筆されたものをJOA Review アーカイブ(第0号)に掲載しています。

移動日
2/8(水)

夕方、飛行機が遅れながらもトリノ空港着。今回はトリノ市内のホテル代があまりに高額なので、フォート・岸本さんの取材拠点にお世話になることにした。空港から岸本さんにTELしてタクシーでホテルに向かう。乗ったタクシーは英語が分からない運転手で困るが、ぶっ飛ばしてもらい何とかレジデンス・サッキに到着する。早速24時間警備のお巡りさん?に尋問され、パスポートを見せろと言われる。そこに丁度岸本さんのところの若い人に来てもらって助かる。車の音がしたので出てきてくれたのだ。この夜はピエモンテのワインをごちそうになり早めに休む。

2/9(木)
今朝は冬季オリンピック大会(OWG)のシンポジウム。朝、岸本さんに起こしてもらって草々にトリノ大学へ向かう。マダーマ宮殿の近くのはずだが、場所がよく分からない。通行人に大学を聞いて行ってみると全く違うところに大学があるという。そちらのキャンパスに行ったがオリンピック・シンポジウムなど開催されていないという。また、マダーマ宮殿近くに戻って探してみる。あった、あった。古いバロック風の伝統ある建物だ。結局、遅れて会場に到着するが、また問題。建物の入り口には何もでていないのでよく分からないのだ。居合わせた学生に聞いてようやくホールの建物がわかる。会場に入ると丁度、開会の挨拶中。約50人強が歴史ある大学の建物の中に集まってシンポジウムが始まった。レジストレーションをすませて会場を見渡すとJanet Cahilがいて手を振っている。懐かしい顔だ。コーヒーブレークで久しぶりの挨拶を交わす。

シンポジウムの開始は前IOCマーケティング部長のマイケル・ペインのキーノートスピーチから。「OWGのDNA」という興味深いテーマで話している。VTRを使うが、それはIOCのHPのCelebrity Humanityから見せている。あまりたいしたものではないが、やはり映像の力は大きい。OMERO(Olympics and Mega Events Research Observatory, University of Turin, Italy)というトリノ大学のオリンピック研究チームはトリノ大会による地域に活性効果やアルプス地域の再開発にテーマの照準を絞って報告していた。政治家や経済学者が中心の研究チームだからそうなるのだろう。

昼食からワインがそろえてある。ケイタリングを使って豪華な食事を楽しむことができるという配慮だ。午後は2会場に分かれて発表が続くが、テレビとコミュニケーションのセクションの方が人気だ。しかもカナダのCBCテレビが取材に入るので盛況である。私たちのセクションは歴史、文化、教育がテーマなので聴衆も少ない。しかし、歴史あるすばらしいホールでのシンポジウムだ。ドイツのマインツ大学のオリンピック研究チーム(このシンポジウムの共催チーム)のボスであるDr.ミューラーが病気で欠席したのが残念。代読でOWGの歴史研究の報告があった。英国の研究者であるガルシアとアンディにも会う。ガルシア女史とは本当に久しぶり。シドニー以来だ。彼女はオリンピックの文化プログラムについて報告したが、夏の大会の報告が多い。文化プログラムは規制がないので自由だが、様々なねらいがある多様性を持っている。

私はリレハンメルの冬季大会の終了後にこれまで3回実施されてきた「環境、平和、若者」へのメッセージリレーの現状について報告した。ほとんどの人が知らない世界の話題である。夏の大会はこの手のリレーをしていない。草の根の活動でヒーローやヒロインがいないためメディアの関心がないのが知られない大きな理由である。質問は、「夏の大会にはないのか? IOCは何故関与しないのか?」というものであった。夏は長野のチームが考えていること。IOCにはお金の関心しかないので、サポートはしないだろうというのが私の回答であった。

夕食のディナーはバスで1時間以上も走ったレストランへ。ピエモンテ州の郷土料理を堪能する。ドイツの友人でオリンピックの経済学者であるホグラー・プロウスとトリノ大学のチート・グアーラ教授にお礼の意味で法被を送る(JOAの佐藤さんにいつもお世話になっている法被だ)。これはハッピにかけてHappy Coatというのだと教えてあげる。デザインがコミカルで2人ともずいぶん喜んでくれた。記念写真もなかなかいい感じのものがとれた。メイルで送っておいた。遠くのレストランで夜遅くまで盛り上がった。実は、岸本レジデンスに帰ったのが夜中の1時半であった。帰り際にIOAのオリンピアの参加者でつくっているIOAPAという会合が翌々日の夕方にポルタ・ヌォーヴァ駅近くのホテルで開催されると聞くが、残念ながらその夜はフィギュアスケートのペアのショートプログラムのはず。残念。

2/10
今日は開会式。午前中にJapan HouseとMIZUNO caféを訪問する。水野社長は不参加とのこと。残念。その後、オリンピック・ストアに防寒コートを買い求めに行くがいいものはない(実は日本を発つ前にバタバタしてコートのフードを忘れてしまったので、今夜の開会式が寒いとたいへんだからと思って探しに行ったのである)。Asicsの製品ばかり並んでいる。オフィシャル・サプライヤーなのだ。いつもの定番の小物を買って昼は岸本弁当ですませてHolger Preusに会いに行く。彼をJapan HouseとMizuno Cafeに案内する。オリンピック経済学者らしい質問がJOCのスポンサーシップに向けられた。

その後、サン・カルロ広場でNBCのTVブースを見学に行くとトーチが3時過ぎにくるということ。それを見て開会式に向かうことにする。ドイツ研究グループと一緒に行動するが入場が遅くなる。セキュリティ・チェックはさほど厳しくはなさそうであるが、それでも長い列ができている。会場内に入ってもなかなか案内が分からない。イタリアらしいところ。ようやくたどり着いたBカテゴリーの席はフィールド内、傾斜がないのでよく見えない。最悪の場所だ。おそらくテレビ向けのパフォーマンスはCカテゴリーの方がよく見えたかもしれない。

雪と氷のない開会式。テーマはFireだ。
サプライズは、小野ヨーコ、パバロッティか。花火と警備のヘリの混在した開会式はソルトレークでもしかり。
閉幕後、フィールド内のBカテゴリーの観客はスタンドの観客が退席するまで待機させられる。おそらくシャトルバスには乗れないとあきらめ、徒歩で岸本レジデンスまで帰宅する。岸本さん達はバスで帰宅。私の徒歩の方が早く30分ほどでレジデンスに到着した。
後で岸本さんに聞くと、東京都の副知事や参事が見物にきていたそうで、パフォーマンスに感心しては歓声を上げていたそうである。この後この集団は一体何を調査するのか・・・。

大会第1日目
2/11(土)

トリノ市内。2/10の開会式も済み、翌11日には街はすっかりオリンピックムードになる。デコレーションも整ってきたようだ。今日は土曜日ということもあって子ども達の姿も多い。岸本さんと一緒に買い物がてら街の様子を見にでかける。先ずはガイドブックにも出ている有名なPayranoというチョコ屋さんに出かけてお土産を購入する。次ぎに、スポンサーズ・ビレッジに出かける。SAMSON、Panasonic、FIAT等の展示館である。公園のような一角にどーんとスポンサーがのさばっている。入場するにはセキュリティ・チェックを受けなくてはならない。おかしなものだが、、、。中にはゲーム機などもあり子供受けする企画も考えられている。レストランの一角にはローザンヌのオリンピック博物館のロゴで聖火やマスコットが展示してあった。もう少し大々的にオリンピック史や教育的な展示があっても良さそうなものであるが・・・。公園の中央には即席で氷が張られている。ロシアのブッチルスカヤがソロで氷上の舞を見せてくれたが、子ども達の滑りがあった方が遙かにいいものでは無かろうか・・・と思ったりする。

街中は結構な人出である。Italyartという文化プログラムにEthical Villegeというのがあったのでそこに岸本さんと出向く。近くのテレビ局の前で女性ボランティアに声をかけられて、岸本さんも一緒に「オリンピック休戦」の大きな本Bookに署名する。これは本当に思いがけずラッキーであった。Villageのテント内にはたいしたものはなかったが、オリンピックの理念と車いす式のそり(スレッジ)など身障者向けの展示がしてあった。このテントには人が少なく、やはり関心が薄いのであろう。

岸本さんと歩き疲れたのでpiazza Carlo Arbertoにステージとカフェがあったので一休みだ。カプチーノを頼んでブラス音楽の演奏を聴く。ここでも子ども達の出番があればと、残念に思う。音楽を楽しんでいると変なベルの音がする。突然、悪魔のようなお面や服を着た「リセリ」と呼ばれる悪魔達が乱入してきた。あたりはカオス状況に陥る。どうも女性にとりついているようである。私も記念写真を1枚。世界的カメラマンの岸本さんにシャッターを押してもらう。これはいい記念になる。サン・カルロ広場で岸本さんと別れて一人でカナダハウスに向かう。広場では子どもと親であろうか、ミニホッケーに興じている。やはり、アイスホッケーを国技とするお国柄だ。ハウスはログハウスでできていて結構いい感じだ。入るとカナダのメイプルリーフのピン、小旗と新聞をくれた。中はすごい人出。やはり交流館はこうあって欲しいものだ。ゆっくりビデオ上映を見る暇はなく早々に立ち去る。

夜はフィギュアスケートペアのSPを見に行く。初のフィギュア観戦。楽しみである。今回の標語はPassion Lives hereである。井上ペアの演技が楽しみである。中国ペアのできがすばらしい。しかし、少々細身すぎるのではと思うことしきりである。会場では何も盛り上げるものも子ども達のパフォーマンスもなくて残念。チケットはAカテゴリー(JTBがBカテゴリーを入手できなかったのでラッキー)。放送ブースのすぐ横。いい位置だ。斜め前には滑り終わったペアが得点発表を待つ席も見えるし、プレゼントの花束や人形を取りに行く豆スケーター達が待機しているのもよく見える。しかし、テレビカメラの数の多いことに驚く。TOBOのゼッケンを付けたスタッフが大勢見える。整氷の間にはやはり子ども達のアトラクションでも欲しいところだ。

大会第2日目
2/12(日)

日曜日の朝、買い物に出かけるがほとんど閉まっていて、果物もビールもワインも手に入らない。あきらめてパン屋が開いていたのでグリッシーニという細長いパンを買って帰る。朝食を簡単に済ませ、12時に街の様子を見に出かける。今日はメダル・プラザの向こう側、ガルバルディ通り、共和国広場、ドゥオーモあたりを狙って出かける。途中で、ポルタ・ノーヴァ駅の構内を抜けるとストアがあり、ビールも売っていたので早速買い込んでレジデンス岸本に届けておく。(ゲストなのであまり勝手はできないのであるが・・・。)

さて、街はすごい人出。さすがに日曜日。チョコレートの屋台街に出ると既にお土産を買ったPayranoが出店していたので、バラッティという三角チョコを買ってみる。10ユーロもするのできっと大変においしいのであろうと推測する。ドゥオーモへ行くとほとんど人がいない。流れはガルバルディ広場に向かっているようである。メダル・プラザで流れがせき止められているようである。観光気分になって教会の中に入ってみると、そこはキリストの亡骸を包んだといわれている聖骸布が置かれている教会であった。イタリアンアートという文化プログラムの1つである地下の教会といわれる博物館も見て回った。王宮には入れないということであった(実は入れることは帰国して知った。残念)。夕方のアイスホッケー女子の試合を見に行くためのシャトルバスを確認するが、トラムで行けというのでやはり、いつものポルタ・ノーヴァから行くことにする(実は同じトラムであることが後に判明。しっかり歩いたなー)。共和国広場という名前に惹かれて行ってみるが、どうも怪しげな人たちが沢山たむろしている。早々に立ち去り、ガルバルディ通りに向かう。多くの人出で大道芸もいる。帰国するときにバスでここを通った。バザールが沢山でていた。そのときは日曜日でバザールも休みだったのである。

街の散策の途中に、O.コスが提唱している”Right to Play”の展示館がありのぞいてみるが、誰もいない。昔はOlympic aidと呼んでいた世界中の子ども救済支援活動である。残念な限りである。写真とVTRを取ってまた散策を続ける。街中に子ども達のパフォーマンスなどがないのが残念である。このガルバルディ通りの途中にユーベントスのサッカーショップがあった。ここではお店をバックに記念撮影するサッカー好きの観光客の姿も見られた。お昼時、マダーマ宮殿前に行列ができているピザ屋があったのでマルゲリータを1枚買って立ち食いしてみるが、さほど感心するほどの味ではない。さっさとシャトルバスでアイスホッケーの会場に向かう。

エスピオジオーネというのがホッケー会場。磯崎新設計のホッケー会場とは別のものである。シャトルを降りると会場の反対側までぐるりと回される。結局ポー川沿いまで歩くことになり、ついでに川縁りの写真を撮影しておいた。入り口の周りには湖上の雰囲気の建物やすてきな池と滝が設置してある。しかし警備の警官が沢山いる。警備陣の彼らは一体どこに住んでいるのか心配になる。セキュリティ・チェックではミネラル・ウォーターのキャップを取られてしまう。全く、場所によって方針が違うようである。会場内でミネラルを買うとこれもセキュリティのためキャップをとられてしまう。どうしてセキュリティのためなのか、全く分からない。おかしなものだ。案の定、座席に座ると隣の子ども連れの母親がボトルをけっ飛ばして倒してしまったではないか。

ゲームには2424人の観衆が詰めかけたという場内放送が最後にあった。女子のホッケーがどのようなものか楽しみにする。しかし、ゲームはカナダの一方的な試合。12-0でカナダの圧勝。中でも驚いたのが試合を盛り上げようとする趣向だ。座席の通路にチアガール達が出てきて踊り出す。笛でゲームが止まれば拍手を求められ、チアガールが踊り出す。会場はゲーム内容よりもエンターテイメント志向がありありである。テレビ向けの志向が見え見えである。観客もそれをよく知っているようで、演じさせられながらもビデオ画面に映ることを楽しんでいるようだ。しかし、今回の会場では座席の前方にクレーンカメラがあり、見るのにじゃまになる。しかも端の方で、、、。少々残念。ロシアの子ども連れ、イタリアの子ども連れ、カナダの子ども連れと親子連れの光景がほほえましい。子ども達は館内の音楽に合わせてすぐに踊り出す。そのうちに、クレーンカメラが執拗にカナダ国旗を振る女の子達を狙っている。ディレクターの指示? カメラマンのアイデア? 子ども達にとって素晴らしい思い出になるに違いない。この会場でもグリッツとネーベというマスコットが人気であった。このマスコットが人気で売れ切れだそうだ。私はそんなに気に入らず、お土産には買わなかったのだが、、。氷上のトリノのロゴの向きから正面席中心、チアリーダーはバックスタンドで踊る。正面席はメディアがどーんと構えているし、その下は役員などであるから、どう見ても正面席から見たテレビ向けのショーアップとしか思えない構造である。

夜はサン・カルロ広場でメダル・セレモニーのパブリックビューイングである。寒いが膝掛けまで出してテレビウオッチする。音楽ショーの後3種目の表彰が執り行われた。会場内には整理券がないと入れない。広場に設けられた大型ビジョンで見ると、会場内は空席が結構目立つ。役員の席か?膝掛けを用意してあり大変なことである。子ども達がヒーローやヒロインにふれられるチャンスは? この夜は、男子スピードスケート5000mでイタリアの選手が銅メダルを取ったのでかなり盛り上がった。やはり大会が始まれば、地元も大いにわくようである。

夜は岸本さんにまたワインをごちそうになりながら、様々な話を伺い、IOC、JOCの問題を話し合う。オリンピックがおかしくなっていることや、JOAの活動などをいろいろ考えさせられた。

今日のまとめ:
* 街中に選手や観光客が大いに増えて楽しんでいる。
* 子ども達のパフォーマンスは見られない。
* 会場付近は警備ばかり目につく。盛り上げる気配がない。
* セキュリティは厳しいがミネラル・ウォーター栓の開封には困ったものである。
* 会場内はアナウンサーとチアリーダーによる盛り上げとテレビ志向の仕掛けである。
* パブリックビューイングはもう少し盛り上げ方があってもよいのかも・・・。
* 他の所でのパブリックビューイングは?

大会第3日目
2/13(月)

朝、岸本さんにおにぎりの朝食をいただく。おいしい朝食だ。その後、岸本さんと一緒に散策にでる。先ずはカナダハウスへ。先日と比べあまり人がいないのに驚く。平日のせいかも。カナダ政府のPRビデオであったのでやはりVANOCのプレゼンテーションが欲しいところで、残念に思う。この後、岸本さんの電話にチャージし、郵便局に絵はがきを落とすのにつきあう。残念ながら時間が無くなってきたので、エジプト博物館の見物をパスし、モーレ・アントネッリアーナというトリノのシンボルタワー内にある映画博物館を見に行くが、生憎月曜日は閉館日。全く残念。立ち食いピザ屋の「ラ・ピラミデ」でマルゲリータを食べると、やはりこれはおいしい。お勧めである。簡単な昼食後に岸本さんをヌオーボに案内し、少々時間がおしていたので急いでシャトルバスに乗ってオーヴァル・リンゴットに向かう。途中で停車駅を間違えて降車するが、そこはIOCの本部でMPCもあるところであった。そこから、オーバルまでかなり歩かなければならなかった。疲れているのにやれやれである。バスに同乗していたオランダのサポートと一緒に降りればよかったと悔やむ。セキュリティでは持ち込んだ水のキャップを開けさせられ、それが後のザック内水浸し事件となる。偉い目に遭う。

車中からオランダの応援団は面白い格好をしているし、オレンジカラーで統一している。それに、にぎやかだし、かなりの人数でもある、、。エンジ色のカナダの応援団もいるが、圧倒的にオランダのオレンジカラーだ。帽子に趣向を凝らしているものが多いようだ。オリンピックをお祭りのように楽しんでいる。これが一番大切なのだ。さすがにメダル希望種目の男子500スピード種目。日本人応援団も多いが、おとなしい。ともかく、面白そうな衣装や帽子をカメラに納めておく。座席はフォート岸本さんのチームの近く。最後のカーブの所だ。周りにはカナダの応援団もいる。しかし、圧倒的にオランダのオレンジカラーが席巻している。隣にはミラノからJTBのツアーで加藤丈治一家の応援団を率いてきた川村さんというガイドの方だった。23年もミラノに住んでいるとのこと。大変なものだ。

レースは日本人勢は惨敗。及川君が4位になる。加藤も清水も敗れてしまった。メダルしか関心がない日本人応援団には痛い結果であった。余り下馬評に挙がらなかったアメリカの選手が優勝をかっさらった。韓国も強かった。「この一枚」といういい写真を撮ろうとしたが、なかなかむつかしい。機材も大事だが、やはり経験不足だ。即席のカメラマンには高速スピードのアスリートの滑りなどデジカメで追いかけられるものではないのである。

このオーバルには外にステージが設けてあったので、何か盛り上げる催しものがあるのであろう。10組が滑った後で整氷する合間に、チアリーダーが場つなぎをする。こんな時には子ども達のパフォーマンスが欲しいところだ。セキュリティも面倒なのだろう。子どものパフォーマンスはオリンピックから消えてしまった。また、チアリーダーで盛り上げるのもいいが、その前に滑った選手とその後に滑る選手とではリラックスや集中力の上で支障があるのでは・・・。どちらに働くにせよ、選手には困ったことではないのか? 終了が7時半なので、都合4時間も館内にいるので、その間の盛り上げ方に工夫が必要であろう。

試合結果は残念であったが、レジデンス岸本に帰宅するとカメラマンの藤田さんが片付けにやってきて今日のスピードの結果を語ってくれる。やはり長いことアスリートをレンズを通してみているのであろう。「強い選手がやはり勝つ」という結論を聞いて納得する。日本のメディアは外国選手のことを伝えないが、カメラマン達はいつも見て知っているのだ。

2/14(火)
今日は帰国の日。朝は、体調が不良であったが何とか努めてジャパンハウスに向かう。遅塚選手団団長も来館中であったが接客中。帰国することをJOCの中森さんに告げ、水を1本もらって空港へのバスに乗り込む。途中渋滞するが早めに空港へ。ルートはいつもと違うようで、数少ない乗客達がバスの運転手と何か話している。ユーベントスのショップ前を通り、共和国広場前をバスが通る。バザーが沢山でていて、この前と違ってすごい人出だ。バスはまだ工事中の小さな空港につく。免税店でお土産にバローロの高級ワインとグリッシーニを買い込む。チーズは売り切れなど、品揃えは今ひとつ。小さなオリンピック・ストアもあったが、閑散としていた。アルバイトのお嬢さんはミラノ大学生。ボランティアは偉いがお金にならないので、バイトの方がいいと言っていた。お金を貯めてアメリカに留学したいのだそうだ。いろいろな若者がいるのだ。しかし、オリンピックボランティアはして欲しいと思う。帰りの全日空機では窓側の席、これも残念。疲れていて、ほとんど寝るであろうが、動きづらい。アルデベルチ、トリノ!!

Olympically, NAO