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スポーツ基本法とその周辺

2011 年 4 月 12 日 Comments off


執筆:佐野慎輔(産経新聞社業務企画統括)

東北から北関東を襲った大地震、津波に福島の原発事故。日本はいま、その未曾有の被害の大きさに立ちすくんでいるかのように映る。一方で、復興のために何かをしなければと思っている人たちのいかに多いことか。大会の中止や延期、日程の変更を余儀なくされたスポーツ界からも、被災者支援を呼びかける声があがり、具体的な行動も始まった。

「スポーツが被災者を元気付ける」。スポーツ関係者は必ずといっていいほどそう話す。確かに、それがスポーツの持つ特性のひとつであり、それほど人々の間にスポーツが浸透している証左でもあろう。

だが、この国はスポーツと国民とを結びつける、いや近づけるための整備を体系づけて実施してきただろうか。

大震災のすぐ後にも皇居の周りを走るランナーの姿があった。春の訪れとともに、野球やテニスなどに汗を流す人たちも目だってきた。「する」スポーツの広がりは目覚しいものがあるが、では彼らが快適に楽しむだけの施設が整えられているだろうか。事故なく、技量が向上するよう、教えをうける例は稀だ。

英才教育でトップアスリートを目指す子どもがいる一方で、逆上がりはおろか、でんぐり返しもできず、まっすぐ走れない子どもさえいる。この10年間、子どもの体力、運動能力は低下を続けているとのデータもある。

また、「みる」スポーツに事欠かない国ではあるが、競技や種目によっては財源が乏しく、十分な競技力向上や選手育成を望めない団体も少なくない。「日の丸」を背負ったオリンピックやサッカーのワールドカップなどへの関心は高いけれど、プロ選手は別格としても、トップアスリートへの支援や成果に対する評価は十分だとは思われない。何より、それら国際競技大会の日本誘致に必ずしも関心と支援が集まらないことは何を意味するだろう。

日本のスポーツ環境は、どこか貧しい。個人の自主性を重んじたといえば格好はいいが、纏まりも一貫性もないことが特徴だ。競技スポーツや生涯スポーツ、学校体育は文部科学省が所管し、障害者スポーツは厚生労働省。厚生労働省は健康とスポーツに関する事項も掌握、この分野では文部科学省との線引きがわからない。そして公園スポーツ施設の管理は国土交通省に委ねられている。あいまいな所管がスポーツ行政を停滞させてきたと言っても、言い過ぎではあるまい。

「スポーツ基本法」はそこを明確にするための法律と言い換えてもいい。

では、基本法が成立すると問題は解決するのかと言えば、そんな簡単な話ではない。ただ、国民のスポーツに関わる権利を保障し、国家戦略としてスポーツの振興と競技力の向上にあたると定めた基本法が国のスポーツにおける責務を明確にすることは間違いない。

これまで日本のスポーツ政策は1961年制定の「スポーツ振興法」を基本としてきた。これは64年の東京五輪開催に向けた根拠法令として成立した法律で、プロスポーツや障害者スポーツ、財源確保などへの言及はなく、ドーピング(禁止薬物使用)や紛争処理に関する条文もない。また国や地方自治体のスポーツ振興への関与は義務付けているものの、国際競技力向上などスポーツを通した国際社会への参画といった点でも明確さに欠けている。つまり「時代遅れ」の法律なのである。

加えて行政計画の要諦である「スポーツ振興基本計画」は2000年に制定されるまで39年間も放置されていた。貧困なスポーツ行政の根底がここにある。

改革の動きがでてきたのは2007年ごろ。当時の与党自民党を中心に声があがり、自民党政務調査会スポーツ立国調査会が08年、①競技力の向上に国を挙げて取り組む②国際競技大会の招致に国として取り組む③地域のスポーツ環境の整備を支援の3つの戦略の柱とともに、新スポーツ法の制定、スポーツ省(庁)の設置とスポーツ振興組織の整備、スポーツ予算の拡充に取り組むとした報告書をまとめた。そして、09年超党派で組織したスポーツ議員連盟がアドバイザリー・ボードの答申をうけてスポーツ基本法制定に動き出した。同年7月、選挙を前に独自色を出したい民主党との意見の差異から、自民党は単独の議員立法として法案を国会に提出したが、衆議院解散のため廃案となった。

この頃から政治主導のスポーツ行政見直しに危機意識をもった文部科学省が動きを表面化、10年8月に「スポーツ立国戦略」を策定した。これは①ライフステージに応じたスポーツ機会の創造②トップアスリートの育成③スポーツ界の連携による「好循環」の創出④公平、公正なスポーツの実現⑤社会全体でスポーツを支える基盤整備を柱としている。民主党政権下ということもあり、総合型地域スポーツクラブを基盤においた地域力の再生を視野にいれていることが特徴である。一方で障害者スポーツへの言及が少ない反面、旧態依然の体制を守ろうとするなど、あくまでも文部科学省の範囲内での立国戦略である。

政治のほうでは、自民党が公明党とともに10年6月に再びスポーツ基本法案を国会に提出した。仲裁権を含むスポーツ権を盛り込むなど各処に配慮したためか、いささか総花的な内容となった。また、民主党は11年3月、大震災対策の間隙をぬった形で基本法案を策定、5月の国会提出をめざしている。こちらは自民、公明両党案に対抗するべく、地域スポーツ振興を前面に押し出した。ただ、両党案ともにスポーツ庁設置に言及していることは押さえておく必要があろう。

スポーツ庁は従来の縦割り行政に横串を刺し、政策に統合性を持たせるという意味で大きな役割を担う。ただ、そうなると既得権益に触れる恐れがあり、これまでの所管省庁が素直に受け入れるか、保証の限りではない。

いずれにせよ、スポーツ基本法制定の動きは静かに進行している。自民・公明案と民主案も全体から見れば大きな差異はなく、案外と滑らかに成立となる可能性はあろう。しかし、基本法が憲法とスポーツ関連の各種法令との中間にあって、スポーツ法の大本となる性格を持つものであるならば、スポーツ界としてはトップダウン式の法律付与を忌避するためにも、もっと意見具申して然るべきだ。

ところが、笹川スポーツ財団や日本スポーツ法学会以外のスポーツ関連団体は、日本オリンピック・アカデミーも含めて目立った行動を起こしてはいない。自分たちがスポーツを「する」「みる」ことや「支える」「学ぶ」ことと法律や行政とは離れているものと思っているのだとしたら、あまりにも寂しい。

今年は柔道の始祖、嘉納治五郎が日本体育協会と日本オリンピック委員会の前身となる大日本体育協会を設立(1911年)してから100年になる。いわば「日本のスポーツ100年」の節目だが、同時に大きな転換点を迎えていることを肝に銘じておきたい。

第8回アジア冬季競技大会の札幌・帯広開催が決定

2011 年 4 月 12 日 Comments off

執筆:伊藤 公

第7回大会で日本は54個のメダルを獲得

第8回アジア冬季競技大会(以下、冬季アジア大会)は2011年1月30日より2月6日までの8日間、カザフスタンのアスタナ、アルマトイ両市で開催されたが、その期間中の1月31日、アスタナで行われたアジア・オリンピック評議会(OCA)理事会において、2017年の第8回冬季アジア大会の開催地は札幌・帯広両市に決まった。日本での開催は1986年の第1回札幌大会、90年の第2回札幌大会、2003年の第5回青森大会以来4回目である。

冬季アジア大会はもともと日本オリンピック委員会(JOC)の提唱で始まったもので、「アジアの冬季スポーツの競技レベルは、欧米に比較すると著しく低い。レベルアップするためには、定期的に冬季の総合競技大会を開催するのが一番」というのが理由だった。このJOC開催者の考えが実を結んだのは1984年9月、ソウルで開かれたOCA評議会の時で、第1回大会はそれから1年半後の86年3月1日より8日まで、72年の第11回オリンピック競技大会の舞台となった札幌市で開催された。

この第1回大会では、スキー(アルペン、クロスカントリー)、スケート(スピード、フィギュア)、アイスホッケー、バイアスロンの4競技35種目と、デモンストレーション競技としてスキーのラージヒルジャンプが実施され、中国、北朝鮮、ホンコン、インド、韓国、モンゴル、日本の7つの国と地域から290名の選手と140名の役員、計430名の選手団が参加した。

ホストカントリーの日本は、当時JOC総務主事(現在の専務理事)の役職にあった岡野俊一郎氏(その後、同氏はIOC委員、日本サッカー協会会長)を団長に119名の代表選手団を編成して実施全競技種目に参加。獲得したメダルは35種目中、金29、銀23、銅6個で、日本の金メダル獲得率は82.8%にのぼった。これを見ても一目瞭然のように、当時の日本選手と他のアジア諸国の選手の力は、明らかな差があった。

次の1990年の第2回大会には、インドNOC(国内オリンピック委員会)が立候補し、ライバルがないままにすんなりとインド開催が決まった。だがインドNOCは間もなく開催を返上したために、日本はまた開催を引き受けざるを得なくなり、JOCは札幌市に再度依頼し、開催地になってもらった。札幌市が連続して開催したのは、以上のような理由による。

この第2回札幌大会では、4競技33種目が実施され、全大会を上回る10の国と地域から441名の選手団が参加。日本は全競技に出場したにもかかわらず、金メダル獲得率は54.5%となり、4年間でアジア各国の競技力が著しく向上していることを示した。

初期の冬季アジア大会の開催地には、それ以外にも予期しない出来事が待っていた。次の第3回大会は、4年毎という原則からいえば開催念は1994年だったが、国際オリンピック委員会(IOC)が冬季大会の開催年を独立させ、第17回大会をリレハンメル(ノルウェー)を94年に行うことにしたために、OCAは第3回冬季アジア大会を95年に変更。同大会の開催地には、第1、第2大会に参加し、まずまずの成績を収めている北朝鮮のNOCが立候補した。今にして思うと、北朝鮮は韓国を意識しての立候補だったと思われるが、その辺の深い事情を配慮しないままに、OCAはこれをそのまま認めた。

しかし、北朝鮮NOCは、国内事情を理由に第3回大会の開催を返上し、冬季アジア大会は宙に浮いた状態になってしまった。このピンチを救ったのは中国だった。中国は93年12月に開かれたOCA総会で、「95年に開催することは時間的に無理だが、翌96年ならばハルビンで行うことができる」と名乗りを上げ、実際に96年2月4日から11日までの8日間にわたって4競技43種目が実施された。

参加NOCは17にのぼり、参加人員は役員を含めると700名を超えた。またメダルを獲得したのは中国、カザフスタン、日本、韓国、ウズベキスタンの5か国で、3回目の大会で日本はトップの座を中国に奪われた。

第4回大会は前大会から3年後の1999年に韓国の江原(カンウォン)で行われた。それまで冬季スポーツ競技力はそれほどでもなかった韓国は、この大会では地元開催ということもあり力を発揮した。とりわけスケート競技のショートトラックでの活躍は目を見張るものがあった。

2003年の第5回大会の舞台となったのは青森市を中心とする青森県下の3市3町。日本では1986年、90年の札幌大会につづく3回目の開催で、従来の4競技にカーリングを加えた5競技54種目が実施された。青森県としては、必要最小限の経費で運営するつもりだったが、参加国・地域数、実施競技種目数などの増加に伴い予期しない経費が多くなり、JOCが仲介役となって、経費の削減に四苦八苦した。

2007年の第6回大会は中国の長春で行われた。北京オリンピックを翌年に控えた中国は、規模こそ異なるものの、この大会を無難にこなし、冬季アジア大会は名実ともに定着したように思われていた。

ところが、主催者のOCAは、その後困惑することになる。2011年の第7回大会はカザフスタンのアスタナ、アルマトイ両市で開催するものの、その次の第8回大会の開催国(開催都市)は、決まっていなかったからだ。つまり名乗り出るところはなかった。OCAはJOCに打診してきた。そこでJOCの首脳部は札幌・帯広両市にこのことを伝え、検討してもらった。幸いなことに両市の了解が得られたので、JOCはOCAにその旨を伝えていた。1月31日のOCA理事会で2017年の第8回大会の開催地が札幌・帯広両市に決まった背景にはこのような事情があったのだ。

以上のような経緯で第8回大会は日本で開催されることになったが、2003年の第5回青森大会以来、日本ではオリンピック、アジア大会、ユニバーシアードなどの総合競技大会が行われていない。アジアでの進境著しい中国、韓国などが次々に総合競技大会を招致しているのとは対照的である。したがって2017年の第8回大会は、日本では14年ぶりに開催する総合競技大会ということになる。ちなみにアジア大会はこれまで、夏冬両大会とも夏季オリンピックの翌々年に実施してきたが、次回からは冬季オリンピックの前年開催となる。第8回大会が2017年になったのは、そのためである。

最後に、本年2011年にカザフスタンのアスタナ、アルマトイ両市で開催された第7回大会のことについてふれることにする。この大会は冒頭で紹介したように、1月30日より2月6日までの8日間、28の国・地域から800人以上の選手が参加し、スキー、スケート、アイスホッケー、バイアスロン、バンディの5競技69種目が実施された。

JOC理事・日本スケート連盟会長の橋本聖子団長をトップにバンディを除く4競技に参加した日本代表選手団は、金13、銀24、銅17、計54個のメダルを獲得し、自国開催以外で最多のメダルをものにした。ちなみにもっとも多くのメダルを獲得したのは開催国のカザフスタンで、金32、銀21、銅17、計38個だった。

活躍した日本選手の個々の名前を紹介することは省略するが、JOCの提唱で産声をあげた冬季アジア大会は、ここに至って、”アジアの冬季スポーツ競技力向上”という面では確実に実りつつある。

第16回アジア競技大会(2010/広州)を振り返る

2011 年 4 月 12 日 Comments off

市原則之日本代表選手団団長(JOC専務理事)に聞く

聞き手:伊藤 公・山本尚子

第16回アジア競技大会(2010中国・広州。以下:広州アジア大会)の日本選手団団長を務められた財団法人日本オリンピック委員会市原則之専務理事に、今大会全体の総括や感想、日本代表選手団の様子、今後に向けてなどお話を伺いました。

 

アジア大会を格の高い大会として位置づける

まず、広州アジア大会の総括からお願いします。

市原 この大会は、2012年のロンドンオリンピックに向けての前哨戦と位置づけてはいましたが、まだ曖昧な部分があります。ほかの国際大会との兼ね合いもあり、最強の選手を送ることができなかった競技団体もあります。アジア大会は国費で派遣されるわけですから、そのあたりの格付けをきちんとしていかなければならないでしょう。

 モチベーションという面でいえば、オリンピック競技より非オリンピック競技のほうが高い傾向にあったことは否めません。非オリンピック競技の選手たちにとっては、一番グレードの高い大会になりますからね。ただ以前と異なり、オリンピック競技の選手たちも、アジアで勝たなければオリンピックへはつながらないということを理解するようにはなってきました。

 成績でいえば韓国には追いつきたいと思っていましたが、残念ながら達成できませんでした。また今大会はイラン、インド、カザフスタン、ベトナムといった新しい勢力がたくさんメダルを獲得しました。また36もの国と地域がメダルを獲得しました。これはこれまでで最も多く、アジアのスポーツの裾野が広がってきたという意味では、いい傾向だといえるでしょう。(下表参照)

上位10カ国のメダル獲得数(アジア大会最終成績)
  国・地域
1  中国 199 119 98 416
2  韓国 76 65 91 232
3  日本 48 74 94 216
4  イラン 20 14 25 59
5  カザフスタン 18 23 38 79
6  インド 14 17 33 64
7  台湾 13 16 38 67
8  ウズベキスタン 11 22 23 56
9  タイ 11 9 32 52
10  マレーシア 9 18 14 41

 日本は、1,078人という大選手団を送り込みました。アジア大会の直前には、尖閣諸島の問題がありましたが、我々は過剰反応はせず、一人ひとりが末端の外交官なのだという自覚を持って、粛々と臨み、無事に帰国できたことに安堵しております。

 どの試合も、最初からアウエーといいますか、常に日本の対戦相手に大声援が送られる状況でした。例えば女子サッカーの決勝は、北朝鮮との対戦でしたが、はじめはスタジアム全体が相手への応援一色でした。しかしスポーツが素晴らしいなと思ったのは、日本の選手たちはファイティングスピリットを持って、フェアプレーの精神で堂々とした戦いを繰り広げました。すると次第に、日本に対して拍手をする観客が出てきて、最後にはフレンドシップを生み出してくれたのです。

フェアプレー、ファイティングスピリッツ、フレンドシップ。私はこれを3(スリー)Fと呼んでいます。女子サッカー以外の競技においても、逆境の中で戦い抜いた日本の若者たちを、我々は誇りに思います。

 

最強の選手というお話がありました。具体的に挙げれば、女子バレーボールや男子体操がベストなメンバーを派遣することはできませんでしたね。

市原 バレーボールは、男子はベストメンバーでみごとに優勝をしてくれました。女子は世界選手権のあとにリーグ戦があり、ベストメンバーを派遣できませんでした。

国は7年前から、「競技強化助成・トップリーグ助成」という助成事業で、団体ボールゲームの強化のために各リーグに予算をつけているのです。私が専務理事をやっている日本トップリーグ連携機構という組織がありまして、その加盟リーグにトータルで年間1億6000万円の予算をつけていただいております。それは各リーグの活性化のためというよりは、各リーグの選手強化に充て国際舞台へいい選手を送り込んでくださいという趣旨の予算です。それなのに、国際大会よりもリーグ優先になってしまうというのは、少し残念に思うところです。

 

最近のアジア大会を見ていると、どこもまさに国威発揚の場となっていてすごいですね。中国や韓国はまさに全部トップクラスを送ってきているわけでしょう。

市原 そうです。大会中に韓国の団長、副団長と、昼食をとりながら情報交換をする機会があったのですが、そのときにはっきりと言われました。「韓国は日本よりも精神力で勝っている」と。実際、どこが違うかといえば、具体的には金メダルを獲得すると兵役を免除し、年金をうけられるからだと。

 中国はまさに、「国の力を世界に見せつけるにはなんといってもスポーツから」という意気込みがうかがえ、各省にトレセンがあり、国を挙げてスポーツをバックアップしています。また実際、各競技場には中国だけでなく、各国の大臣や副大臣、副大統領までも応援に来ていました。そのあたりは日本とはずいぶん違うわけですよね。

 ただ日本にはまだ生かし切れていないポテンシャルがあるはずです。決勝まで行っているのに中国や韓国に競り負けてしまったケースがずいぶんありました。ここはなんとか精神力を鍛え上げて潜在能力を出し切れるようにすると、メダルの数や色もずいぶん違ってくるでしょうね。

 

国策として取り組む

日本は、サポートの面で国が理解を示してくれるとはいいながらも、スポーツ行政の面から見るとまだまだ力の入れ方が足りないなあと思うのですが。

市原 スポーツというのは普遍のものであって、政権が変わっても関係なく、国の責任としてやっていってもらいたいとは思いますね。国際大会は国別対抗戦で、選手は国家を背負って戦っているわけですからそうでなければ選手たちが不憫ですよ。国ぐるみで体系を整えてバックアップしてもらいたいという気がしますね。

やはり国の政策として、国策でということでしょうね。

市原 はい。アジア大会だけでなく、国際大会の招致においてもそうですね。例えば2018年のサッカーW杯招致では、韓国は日本よりも積極的なロビー外交で票を取っていました。

たしか韓国は官民一体となり、国や企業が一緒になってスポーツを支援しているようですよね。大統領令でスポーツ選手にお金を出せるシステムもあるとも伺いました。そのへんの違いは大きいでしょうね。
 
ロンドンオリンピックへのステップ、前哨戦として見た場合はいかがでしたか。

市原 2004年のアテネ大会では2000年に策定されたスポーツ振興基本計画を受けて、JOCがゴールドプランを作成し、その勢いで16個もの金メダルを獲得できました。しかしいま思えばあれはバブルだったかもしれないですね。アテネ大会を基準にして、世界の5位、そして3位と計画を立てましたが、北京大会や今回のアジア大会の成績はこれが今の日本の本当の力なのだと謙虚に受け止め、アジア全体の競技力も近年著しく向上していますので、原点に帰ったほうがいいかと思っています。

 それを考えると、多くのメダル獲得が期待される競技に的を絞った今のマルチサポートも、スポーツ行政としてこれでいいのかという思いはあります。マルチサポートに入っていない、団体ボールゲームは大勢の人数で戦ってもチームで一つしかメダルは取れません。でも団体ボールゲームにはドラマがあり、たくさんの素晴らしいスポーツマインドあるのです。

アテネのときだったか、市原さんが「チームゲームは選手団の志気に与える影響が大きい」とお話をされていたのを覚えています。

市原 そうなんです。ボールゲームは予選から決勝まで毎日のように試合をして、メダルを取るまでに長い日数がかかります。しかしそうしていくうちに、チーム内のコミュニケーションが醸成され、チームも各人も少しずつ成長し、それがドラマ性を生み出し、国民の感動を呼ぶのですよね。そういう意味でも、スポーツ振興を考えるときに、チームゲームの頑張りというのは大きいのです。

今大会に関しては、チームスポーツはよく戦ったように思いますが。

市原 今回、チームスポーツで好結果が出たのは、トレセンで寝食を共にしての強化が実りつつあるということだと思います。怒りも苦しみも楽しみも分かち合い、心のつながりが生まれているのです。まさにチームワークの向上ですね。

 

では、情報の面から見てどうだったでしょうか。

市原 少し精度が低かったという感じがしています。JOCの中に情報戦略の部門があるのですが、集めている情報は現地で収集したものは少なく、インターネットや、世界ランクはこうだからと数値を分析したデータが多いのです。

海外にアンテナを張り巡らしての生の情報とは若干ズレがあるのですね。

市原 はい。最近、あの選手は故障したらしいとか、プライベートで少し問題を抱えているといった生きた情報ではない。「無名だけどこういう選手がいるらしい」といった情報はそれではなかなか入ってこないのです。でも中国や韓国は、そういう情報を上手に集めているので、日本としてもそういった情報収集にもっともっと入り込んでいかなくてはならないでしょう。

 その一方で、日本は、多数の企業がスポーツをサポートし、国の強化費は少ないけれども、企業に支えられている選手は多くいます。そうした選手は国のためより、企業のために頑張るわけですが、これが国の費用であれば「国の代表なのだから国のためにがんばる」という誇りがもっと生まれてくるはずです。今まで日本のトップスポーツ選手は、大学や企業に支えられていた面が大きくあります。そこのスタンスをなんとか「国」が主体となれるよう変えていくべきだとは思っているのですが。

 

フェアプレー、ファイティングスピリッツ、フレンドシップ

いまゴールドプランのほうはどうなっているのですか。

市原 スポーツ庁の設置を望んでいます。スポーツ選手の環境整備が大きな課題で、選手のセカンドキャリアについての活動などもしています。安心して競技生活を続けられるように、一つは各企業に選手を抱えてもらえるよう経済界の人に協力をしていただいて説明会を実施しています。

 もう一つは選手が企業で使い捨てにならないよう、企業内でセカンドキャリア教育をしてもらいたいと考えています。現役のうちはほかの人よりも就業時間が短くなる。その分、勉強をして何か資格を取りなさいといったように企業との連携も大切ですね。

市原さんが所属していらした湧永製薬ではそういうことをされていたそうですね。

市原 前オーナーが熱心な方でしたので、スポーツをやった後の人生が大事だということで、いろいろな勉強会がありました。スポーツの技術面だけを磨いていくのではなく、社会人として、企業人としての部分でも成長する必要があるということですね。

 

市原さんのような実業界出身というキャリアをお持ちの方は、JOCの理事の方の中でも数少ないと思います。市原さんもいずれリタイアされる時期が来るわけですが、実業界で培った見識や考え方を踏襲させていっていただきたいですね。

市原 JOCの中で、実業人は私だけではありませんが、JOCの職員の皆さんにも実業人的な感覚をもっていただければならないと思います。我々理事は任期ごとに入れ替わっていきますが、職員の方は定年までいるわけですから、プロフェッショナル意識をもっと持っていただく必要があると思います。そこで2010年から職員研修会を始めました。現在は国民の目線は厳しくなり、我々も職員も競争原理を導入し、社会性を持って、サービス業のような気持ちを持って仕事に臨んでいかなければなりません。そして、競技団体の皆さんと良い連携をとりつつ、仕事をする。すなわち「現場主義」で行動していくということですね。

 

今回、日本代表選手団は大人数でしたが、「チームジャパン」として見た場合、まとまりについてはいかがでしたか。

市原 「チームジャパン」については、アテネ大会のころから、特に指導者に対して、口を酸っぱくしてチーム意識を持つようにと言っています。ですから、チーム内連携は非常によくなっていますし、今回もよかったと思います。競技が終わった選手が、ほかの競技の応援に行くケースも多くありました。

チーム内連携の基本は、「あいさつ」です。チームジャパンの選手同士、顔見知りでなくてもあいさつをする。そうすると、そのあいさつの輪がボランティアの皆さんに広がり、そこから今度は地元の中国の人にも広がりといったように、あいさつの輪が広がり、そこからチームジャパンの大きな支援体制ができるという経験をしました。

 

バンクーバー大会やユースオリンピックのときに実施したような、オリンピック教育のための集合研修「ビルディングアップ・チームジャパン」は今回はなかったようですが、ロンドン大会や今後に向け、オリンピック教育の方向性はどうなっていますか。

市原 オリンピックでは、残念ながらドーピングやレフェリングなどの問題が生まれています。そんな折りですので、私は「偏った選手をつくってはいけない」と考えています。先ほど私は「スリーF」のお話をしました。スポーツの原点であるフェアプレーの精神を持ち、常にファイティングスピリッツで全力を尽くして戦い、勝者に対しても敗者に対しても敬意を忘れない。そこからフレンドシップが生まれ、感動を呼ぶと。そういう精神の寛容さを持った人間となるための教育が重要ですね。

その意味で、選手たちにはまだオリンピック教育が足りないのではないかと思うのですよ。やはり、「ビルディングアップ・ジャパン」で実施したような教育の場が、オリンピックでもアジア大会も必要だと思いますね。人数が多くなると大変ではありますが、ユースオリンピックのときのように結団式の機会を使ってもいいですしね。そういう機会が多くあればいいと思います。

市原 そうですね。そして一番のポイントは指導者でしょうね。選手へももちろんですが、まず指導者にしっかりオリンピック運動について理解を得る必要性を痛感しています。そのために今JOCでは、日本代表としての品性・資質を兼ね備えたトップコーチを育成する「JOCナショナルコーチアカデミー」を実施しています。

JOCの、そのような新しい試みにも期待しています。お忙しいところ、どうもありがとうございました。

第1回ユースオリンピック競技大会(2010/シンガポール)を振り返る

2011 年 4 月 12 日 Comments off


五十嵐涼亮選手(日本代表選手団 主将)

聞き手:山本尚子(Olympic Review Online編集委員)

第1回ユースオリンピック競技大会(以下シンガポールユースオリンピック大会)の日本代表選手団主将を務めた柔道男子の五十嵐涼亮選手(私立国士舘高校2年・17歳)に、大会の印象、主将としての重圧、今後に向けての抱負等についてお話を伺いました。

 ビルディングアップ・チームジャパン

五十嵐さんが日本代表選手団の主将だよと聞かされたのはいつごろでしたか。

五十嵐涼亮選手 大会の1カ月ぐらい前でした。ある大会で優勝してシンガポールユースオリンピック大会への出場が決まって、少しして「主将に選ばれたぞ」と言われました。

 

表彰台の五十嵐選手

 

でもそのときはとくに、主将だからというプレッシャーはありませんでした。大会に向けては、主将だからというより、国際大会は日本人相手とはまた戦い方が変わってくるので、そのために徹底して組み手の練習をしました。

結団式での挨拶はうまくいきましたか。

五十嵐選手 あまり得意ではないのですが、緊張しながらもなんとかやりました。

そのあとに行われた、オリンピックについて学びながらチームジャパンとしてのチームワークを高める「ビルディングアップ・チームジャパン」はいかがでしたか。

五十嵐選手 環境についてなどのお話があったやつですよね。すごい難しかったです。

財団法人日本オリンピック委員会の竹田恆和会長が話された、オリンピズムやオリンピックの歴史についてはどうでしたか。

五十嵐選手 初めて聞く話ばかりだったので難しかったです。でも参考になりました。

いちばん印象に残っているお話は?

五十嵐選手 ドーピングについてですね。気をつけなければいけない食べ物や、ケガやカゼのときの薬でもひっかかる場合があるということなどです。

 ルームメイトと協力し合う

シンガポールでの大会期間中、文化教育プログラム(CEP)が数多く実施されていましたが、参加されましたか。

五十嵐選手 自分は試合日程が最後のほうだったので、毎日調整があって、それには参加できませんでした。競技が早めに終わった選手は、いろいろ参加して、バッグや時計などをもらっていましたね。ただ自分も、ちょこちょこと各国の展示ブースは回りました。それぞれの国の個性が出ていておもしろかったです。

他の競技の皆さんとコミュニケーションを深める機会は多くありましたか。

五十嵐選手 それは多かったですね。いろいろしゃべったり、トランプをしたりとか。

高校生同士で共感し合える部分は多くありましたか。

五十嵐選手 いっぱいありました。部活動をやりながらの学校生活とか、どんな練習をやっているのとか。競技は違っていても参考になることがありました。

部屋は何人部屋だったのですか。

五十嵐選手 全部、2人部屋でした。柔道は自分と女子の田代未来選手の2人だけだったので、同室になったのはトランポリンの棟朝銀河選手でした。かなり仲良くなりました。

今回は、監督やコーチの人数がほかの大会と比べて少数だったため、競技の壁を超えた協力がいろいろと見られたと伺いましたが、それは感じましたか。

五十嵐選手 はい、とても。たとえばトランポリンと柔道はほとんど練習の時間帯がずれていたので、自分が試合に行って洗濯物がたまっていたときは、棟朝選手が洗濯をしてくれていたり、その逆もありました。そういう協力は、あちこちであったと思います。

もっと戦いたかった団体戦

五十嵐さんが出場した男子100㎏級は大会10日目。苦しい試合はありましたか。

五十嵐選手 決勝戦ですね。初戦はベネズエラのピネラ選手に一本勝ち。準決勝ではキューバのガルシア選手に一本勝ちでした。でも決勝ではベルギーのニキフォロフ選手に、一本を取れず、優勢勝ちとなりました。相手にペースを握らせないよう序盤からずっと攻めていましたが、一本が取れないと技をかけ続けなければいけないので大変でした。

それは相手の選手が、守りがうまかったということですか。

五十嵐選手 というより、自分が得意な内股という技ばかりかけ続けたからですね。優勝しなきゃ、優勝しなきゃと気持ちが焦ってしまって。「オリンピックではアテネ大会と北京大会と、選手団の主将になった選手が続けて優勝を逃していたので、今回こそは金メダルを」と監督に言われていて、全力を尽くして頑張るしかないと思っていました。

試合後、監督からは?

五十嵐選手 「おめでとう」と。あとは「同じ技をかけ続けたら相手も返し技などをねらってくる。同じ技は3度までにする。それから技のバリエーションを増やしなさい」と。

それがこれからの課題ですね。団体戦はそのあとだったのですか。

五十嵐選手 2日後でした。男女4人ずつ計8人ずつの12チームに分かれての試合でした。チーム名は、自分はエッセン、田代選手は千葉チームでした。(注:柔道の世界選手権が行われた都市名がチーム名になっており、ほかにミュンヘン、カイロ、バーミンガム、ハミルトン、パリ、東京、ニューヨーク、バルセロナ、大阪、ベオグラードがあった)
自分たちのチームは2回戦からで、田代選手のチームと当たって負けてしまいました。田代選手のチームは優勝しました。

五十嵐選手はどうだったのですか。

五十嵐選手 個人戦の準決勝で勝った相手に反則負けでした。自分は8人目で、もうその前に2-5ぐらいで負けは決まっていたのですが、でも悔しくて、それは反省点です。

団体戦の雰囲気はどうでしたか。何がなんでも勝つんだみたいな感じでしたか。

五十嵐選手 いや、和気あいあいとしていてみんな笑顔でした。ただ他のチームを見たら、勝ちながら一丸となっていくのがわかり、自分たちももっと試合をしたかったです。

なるほど。コミュニケーションは英語でとったのですか。

五十嵐選手 いや、英語は苦手なので、ジェスチャーで。けっこう通じましたけど、もっと外国の人と話したいという気持ちはあるので、英語の勉強はしなければと思いました。

オリンピックに向け一戦一戦全力を尽くす

個人戦で優勝した日、選手村に戻ってどうでしたか。

五十嵐選手 選手村には毎日、結果が紙に貼り出されて、帰ったとき、みんなに「主将おめでとう!」と出迎えられました。それは別に金メダルだったからというわけではなくて、何色のメダルでもそうでした。メダルを取れなくても、みんなが「お疲れ様」と言ってくれて、「こういうふうにほかの競技の人たちとかかわれるっていいなあ」と感じました。

第1回のユースオリンピックで、初代主将として金メダルというのは素晴らしい巡り合わせですね。

五十嵐選手 たまたまです。

それでは、これからの目標を教えてください。

五十嵐選手 国際大会に限らず、国内の小さな大会から大きな大会まで、一戦一戦、全力を尽くして、相手が強くても優勝できるように頑張っていきたいです。

その先にはオリンピックがありますか。

五十嵐選手 はい。幼稚園のときから柔道を始めて、小学生のころからオリンピックを見ていて、ずっとあこがれです。ロンドンはまだ厳しいかもしれませんが、リオデジャネイロ大会には絶対に出たいと思っています。

最後に、今回のユースオリンピックは日本ではテレビ放映されませんでした。竹田会長は、それをとても残念がって「日本の選手の活躍をもっと下の年代の子ども達に見てもらいたかった」とおっしゃっていましたが、それについては?

五十嵐選手 自分たちに近い年の人でも、ユースオリンピックであれば頑張れば出られるわけじゃないですか。テレビで見たことをきっかけに、「自分も頑張ってあのユースオリンピックに出られるようになろう」という子どもたちが増えてくれれば、日本のスポーツももっともっと発展していくと思います。

素晴らしいですね。では、今後ますますのご活躍を期待しています。

アジア競技大会の歴史と今後の課題

2011 年 4 月 12 日 Comments off


執筆:伊藤 公

第16回アジア競技大会は、2010年11月12日より27日までの16日間、中国の広州で開催された。この大会では42競技476種目が実施され、アジア・オリンピック評議会(Olympic Council of Asia=OCA)加盟全部の45の国と地域から14,000人を超える選手・役員が参加し、史上最大規模の”アジア民族のスポーツの祭典”となった。

 この大会に参加した日本代表選手団のことについては市原則之団長(日本オリンピック委員会=JOC=専務理事)がインタビューで別途総括しているので、ここではアジア競技大会の歴史を振り返りながら、今後の課題などについても考えてみたい。

アジア競技大会の歴史と日本の参加状況

 アジア競技大会(The Asian Games)とは、OCA加盟のアジア地域の国と地域の選手が集まって開く総合競技大会のことである。主催はOCA(ただし、1982年の第9回ニューデリー大会までの主催者はアジア競技連盟=Asian Games Federation=AGF)で、オリンピックの中間年(正式には夏季大会の翌々年)に、4年に1回行われる。現在の本部はクウェートに置かれている。

 OCAの前進のAGFが創立されたのは1948年である。第2次世界大戦終了後初の夏季オリンピックは、この年にロンドン(イギリス)で開催された。この時にアジア地域から参加した当時のインド、フィリピン、中国、朝鮮、ビルマ、セイロンの6カ国の代表が集まりAGFを創立し、第1回大会を2年後の1950年にインドのニューデリーで開催することを決めた。しかし、ヨーロッパへ発注した競技用具の到着が遅れたために、実際に開催されたのは翌51年3月のことだった。

 この記念すべき第1回ニューデリー大会では、陸上競技、水泳(競泳、飛込み、水球)、サッカー、バスケットボール、ウエイトリフティング、自転車競技の6競技が実施され、日本は水泳を除く5競技に84人の代表選手団(選手65人、役員19人)を派遣し、参加11カ国の中で、最高の成績を収めた。当時の日本は第2次世界大戦後、まだそれほどの年月が経っていなかったので国際オリンピック委員会(IOC)をはじめ各国際競技連盟(IF)などへの国際スポーツ界への復帰は果たしていなかったが、この大会への参加は、日本が世界へ再デビューする契機となったことで知られている。

 そこでまず、アジア競技大会(以下、単に「アジア大会」と表記する)は、いつ、どこで開催され、日本選手団の成績はどうだったかなどを振り返ってみることにする。各大会ごとの①は開催年月日、②は実施競技数、③は参加国・地域数、④は日本代表選手団数(選手数、役員数)、⑤日本代表選手団が獲得したメダル数(金、銀、銅メダル数)である。これらのデータはいずれもJOC調べによる。

■第1回大会 ニューデリー(インド)

 ①1951年3月4日~11日、②6、③11、④84(65, 19)、⑤60(24, 21, 15)

■第2回大会 マニラ(フィリピン)

 ①1954年5月1日~9日、②8、③18、④198(151, 47)、⑤98(38, 36, 24)

■第3回大会 東京(日本)

 ①1958年5月24日~6月1日、②13、③20、④337(287, 50)、⑤138(67, 41, 30)

■第4回大会 ジャカルタ(インドネシア)

 ①1962年8月24日~9月4日、②14、③17、④252(209, 43)、⑤155(74, 57, 24)

■第5回大会 バンコク(タイ)

 ①1966年12月9日~20日、②14、③18、④259(216, 43)、⑤166(78, 53, 33)

■第6回大会 バンコク(タイ)

 ①1970年12月9日~20日、②13、③18、④267(221, 46)、⑤144(74, 47, 23)

■第7回大会 テヘラン(イラン)

 ①1974年9月1日~15日、②16、③25、④328(290, 38)、⑤165(69, 49, 47)

■第8回大会 バンコク(タイ)

 ①1978年12月9日~20日 ②19、③27、④373(306, 67)、⑤178(70, 59, 49)

■第9回大会 ニューデリー(インド)

 ①1982年11月19日~12月4日、②21、③33、④463(355, 108)、⑤153(57, 52, 44)

■第10回大会 ソウル(韓国)

 ①1986年9月20日~10月5日、②25、③27、④551(439, 112)、⑤211(58, 76, 77)

■第11回大会 北京(中国)

 ①1990年9月22日~10月7日、②27、③37、④674(543, 131)、⑤164(38, 60,76)

■第12回大会 広島(日本)

 ①1994年10月2日~16日、②34、③43、④1,017(678, 339)、⑤218(64, 75, 79)

■第13回大会 バンコク(タイ)

 ①1998年12月6日~20日、②36、③41、④956(629, 327)、⑤181(52, 61, 68)

■第14回大会 釜山(韓国)

 ①2002年9月29日~10月14日、②38、 ③44、④985(658, 327)、⑤190(44, 74, 72)

■第15回大会 ドーハ(カタール)

 ①2006年12月1日~15日、②39、③45、④905(626, 279)、⑤199(50, 71, 78)

■第16回大会 広州(中国)

 ①2010年11月12日~27日、②42、 ③45、 ④1,078(726, 352)、⑤216(48, 74, 94)

財政・政治問題などで何回も開催の危機に

 以上のデータからもわかるように、アジア大会はこれまで16回行われているが、もっとも多く開催しているのはバンコク(タイ)で、その回数は4回にのぼる。バンコクが最初に開催地となったのは1966年の第5回大会だが、次の70年の第6回大会も、引き続き開催している。のみならず1回置いて78年の第8回大会の開催地にもなった。バンコクがどうしてこのように3回も開催地になったのかといえば、当時のAGF加盟国はいずれも財政的な余裕がなかったからだ。とりわけ78年の第8回大会は、開催に漕ぎつけるまでが大変だった。

 実は第8回大会の開催地には、ほとんどの日本人は忘れかけているが、福岡市も立候補している。その開催地を決めるAGF評議員会は72年のミュンヘン・オリンピックの際にミュンヘンで行われたが、この時は伏兵のシンガポールに軍配があがった。西欧にばかり目を向けている日本に対するアジア諸国の反感があったためと言われている。しかし、シンガポールは財政上の理由で間もなく返上、代替地に名乗り出たのはイスラマバード(パキスタン)だった。そこでAGFはイスラマバードに決めたが、パキスタンの国内の財政事情が良くなかったために、これまた間もなく返上してしまった。

 第8回大会は宙に浮く可能性があった。そこに救いの手を差し出したのは、過去に2回の開催経験を持つバンコク(タイ)。ただし、この時にタイ側が提示した条件は、開催には「300万ドルが必要。参加国が応分の分担をしてくれれば」というものだった。ちなみに15カ国が分担金を支払ったが、一番多いのはサウジアラビアで50万ドル、次のクウェートが25万ドル、日本と中国は各20万ドル、イラク、カタールが各15万ドル…と続く。これを見ても明らかなように、危機を救ったのは中近東の石油産出国だった。日本は自転車振興会から出してもらい、3回に分けて送金した。タイは以上の3回の他に、98年の第13回大会をバンコクで開催しているが、この時は過去3回とは事情が違う。

 なおアジア大会を2回開催している国はインド(いずれもニューデリー)、日本(東京、広島)、韓国(ソウル、釜山)、中国(北京、広州)の3カ国で、フィリピン(マニラ)、インドネシア(ジャカルタ)、イラン(テヘラン)、カタール(ドーハ)は各1回となっている。

 このようにアジア大会は、1回も中止されることがなく開催されてきたが、財政・政治問題などのために何度か難問題に遭遇し、その都度、中止または延期の危険にさらされてきた事実は否定することができない。主催者がAGFからOCAに変わった1986年の第10回ソウル大会以降は、かつてほどの深刻な悩みはなくなったようにも思われるが、別の面での問題も生じている。

1978年の第8回バンコク大会までは日本がアジアのNo.1

 次に、アジアにおける競技力の面に目を転じてみよう。

 1951年の第1回ニューデリー大会から78年の第8回バンコク大会までは、日本がアジアにおける”スポーツ1等国”で、金銀銅メダルの獲得率は断トツに多かった。ところが、92年の第9回ニューデリー大会からは様相が変わってきた。中国がアジアのトップを占めるようになったのだ。

 第2次世界大戦後、中国がIOCに加盟したのは54年のことである。だがそれから4年後の58年に中国は国内事情でIOCを脱退すると同時に、IFからも身を引いた。中国はその時から、国際スポーツ界とは無縁となった。中国が国際スポーツ界に復帰するのは、それから15年後の73年のことである。中国がIOCはもちろん、国際スポーツ界に復帰するにあたって、その仲介役を果たしたのはJOCだった。忘れてならないのは、当時のAGFが中国と仲間に迎え入れると同時に、台湾を追放していることだ(もっとも台湾は、間もなくAGFに復帰した)。そして中国は74年の第7回テヘラン大会に参加し、日本、イランに次いで第3位の成績を収め、次の第8回バンコク大会では日本に肉迫する。ただし当時の中国は、「友好第一、競技第二」をスローガンに掲げていた。

 中国が日本に変わってアジアのNo.1になるのは、82年の第9回ニューデリー大会の時だ。33の国と地域から4,635人の選手・役員を集めて21の競技が行われたこの大会で、中国は金61、銀51、銅41個のメダルを掌中にし、金57、銀52、銅44個の日本を追い抜いた。メダル総数はまったく同数の153個だったが、日本は金メダル数で4つの差をつけられてしまったのである。そして主催者がOCAになった86年の第10回ソウル大会から日本は、韓国にも後れをとるようになった。94年の第12回広島大会は、地元日本開催ということと中国選手のドーピング事件がぼっ発したために、何とか韓国に競り勝ち2位の座を確保したものの、98年の第13回バンコク大会以降4大会は、1位・中国、2位・韓国、3位・日本の順位は不動のものとなっている。今回の第16回大会のメダル獲得数は、中国が金199、銀119、銅98の計416個、韓国が金76、銀65、銅91の計232個に対して、日本は金48、銀74、銅94の計216個。その差は開くばかりで、残念ながら、”アジアNo.1″の座は過去のものになりつつある。

OCAが抱える問題とJOCのスタンス

 最後に、アジア大会が抱える課題について考えてみたい。

 60年前の1951年に11カ国から約500人の選手・役員を集め、6競技44種目の実施でスタートしたアジア大会は回を重ねるに従い大きくなり、AGF主催最後の82年の第9回ニューデリー大会では、33の国と地域から4,635人の選手・役員が参加し、21競技193種目が実施されている。主催者がOCAに変わった86年の第10回ソウル大会、90年の第11回北京大会を経て参加国・地域、参加人数、実施競技種目数は増加したが、特記すべきほどでもない。極端に多くなるのは94年の第12回広島大会の時で、43の国・地域から6,828人の選手団が参加し、オリンピックを上回る34競技337種目が実施された。広島の大会組織委員会は規模を大きくしたくなかったのだが、主催者のOCAに押し切られてしまった。参考までに紹介すると、その2年前の92年のバルセロナ・オリンピックでは25競技257種目が行われているので、それよりも9競技80種目も多い。

 このマンモス化にはさらに拍車がかかり、98年の第13回バンコク大会、2002年の第14回釜山大会、06年の第15回ドーハ大会へと進み、10年の第16回広州大会ではOCA加盟全部の45の国・地域から14,000人を超す選手団が集まり、42競技476種目も実施した。08年の北京オリンピックでは28競技302種目が行われているので、実施競技では14競技、種目では174種目も多い。OCAとしては、オリンピック競技種目以外にアジアで普及しているものをできるだけ採用したいとの気持ちがあり、それがこのような傾向になったと思われるが、歯止めがきかないほどにマンモス化してしまった。

 そこでOCAは猛省し、次の14年の第17回仁川(韓国)大会からは、オリンピックと同じ28競技に7競技を加え、35競技にしようと考えているようだが、まだ最終的な結論は出ていない。しかし、いずれにしても、ふくれ上がった競技種目は縮小せざるを得ないだろう。その場合、どの競技種目を残し、どの競技種目を除外するかは、各国内オリンピック委員会(NOC)や国内競技団体(NF)の思惑も入り交っての攻防になることが予想される。OCA加盟国の大半が「なるほど」と納得できるように決着して欲しいものだ。

 もう1つ、JOCとして考えて欲しいのは、アジア大会の位置づけである。JOCは「広州アジア大会はロンドン・オリンピックへのステップ」と言いながら、各競技団体は最強のチーム・選手を派遣しないところもあった。スケジュールの関係でそれができなかった事情は理解できるが、最強のチーム・選手を派遣しないと、もはやアジアの頂点に立つことやメダルに手が届かないことは目に見えている。

 日本のスポーツ界、とりわけJOC、NFは、アジア大会の位置づけを、高所大所に立って構築すべきだ。また国の全面的な援助がなければ、国際的な舞台で優秀な成績を収めることは不可能に近い。好むと好まざるとにかかわらず、今こそ国をあげてのスポーツ振興策の出現が望まれている。

第1回ユースオリンピック競技大会(2010/シンガポール)を振り返る

2010 年 10 月 17 日 Comments off


竹田恆和(財団法人 日本オリンピック委員会 会長)

聞き手:山本尚子(Olympic Review Online編集委員)

第1回ユースオリンピック競技大会(以下シンガポールユースオリンピック大会)の日本選手団団長を務められた財団法人日本オリンピック委員会竹田恆和会長に、全体の印象、文化教育プログラムなどの新たな試み、日本代表選手団の様子、今後などについてお話を伺いました。

新たな試みがいろいろと

これまでのオリンピック大会と比較して、強く印象に残ったのはどんなことだったでしょうか。

竹田会長
最近の傾向として、オリンピックは肥大化、ビジネス化、勝利史至上主義といった課題を抱えています。それらの問題に対し、このシンガポールユースオリンピック大会は、ジャック・ロゲIOC会長が「オリンピックの原点に戻り、その理念を今一度掘り起こそう」と、正面から取り組んだ大会と言えるでしょう。
その一環として、新しい仕組みがいろいろ見られました。男女混合種目や大陸別でチームが組まれた競技があります。例えばフェンシングでは、米国とキューバがチームを組み戦いました。これはスポーツが政治を乗り越えたいい例ですね。バスケットボールでは3人ずつでプレーする3on3が採用され、非常に人気を集め、今後、オリンピック競技大会でも取り入れてはという声も挙がりました。
もう一つ、通常の大会では競技スケジュールに合わせて選手村に入村・離村しますが、今回はIOCより、大会期間中の2週間滞在するようにという参加条件が課されていました。

日本選手が積極的に参加した文化教育プログラム

理由の一つは、スポーツに教育や文化交流を融合させた文化教育プログラム(CEP)があったことでしょうか。

竹田会長
そうですね。私もいろいろ見てきました。日本選手は言葉の問題が心配でしたが、みな非常に意欲的に取り組んでいました。全部に参加するとスウォッチ製の腕時計をもらえたそうで、選手71人のうち、競技が後半にあった選手を除く約40人は全プログラムを実施したと聞いています。

CEPは五つのテーマに沿って、7種のフォーマット、50の活動があったということですが、全プログラム実施とはすごいですね。

竹田会長
どこまで理解できたかはわかりませんが、努力して、世界の選手の輪の中にとけこんでいったことで、いい経験を積めたと思います。

語学に関しては、通訳ボランティアがつくということでしたが……?

竹田会長
数人はついていました。また例え通じなくても積極的に身ぶり手ぶりで伝えようとする選手もいたようですし、他国・地域の選手が全員英語が堪能なわけでもありませんから、お互いにボディランゲージを駆使して楽しくプログラムをこなしていたようです。競技後も選手同士でふれあい友情を深め合う、そんな2週間になったようです。今回の体験で、世界に通用する選手になるためには、強いだけでなくコミュニケーションが大事で、もっと英語の力をつけたいと悟った選手も大勢いるようです。

すばらしい気づきですね。どんなプログラムが人気を集めていましたか。

竹田会長
村内では、ブブカやイシンバエワなど金メダリストと直接話すプログラムですね。村外では、小さな島で1日活動するアドベンチャー・プログラムがありました。いかだをつくり、島へ渡って、いろいろ探検したようで、「こわさもあったけど、充実していた」という感想を聞きました。そのほか、参加した205の国と地域のブースがありました。そこに行けば、世界中の文化のエッセンスを一度に吸収できるわけです。それは一校一国運動のようなもので、地元の学校がそれぞれ担当を決めてやっていたようです。

チームジャパンとして一体になれた

バンクーバー冬季オリンピック大会のときに好評だった合同事前合宿「ビルディングアップ・チームジャパン」を、今回も行ったそうですね。

竹田会長
はい、出発前日の結団式後に実施しました。そこで、「オリンピックとは」「オリンピズムとは」「オリンピックの歴史」「フェアプレー」「アンチドーピング」「JOCの歴史」などのレクチャーをしました。

選手たちにとっては、予備知識を持つ機会をもらって、心強く感じられたことでしょうね。
では、チームの成績としてはいかがでしたか。

竹田会長
今回は、具体的な目標メダル数は示さず、選手たちには「持てる力を十二分に発揮してチャレンジしなさい」と伝えていました。その中で、選手たちはよくがんばってくれたと思います。大会第1号の金メダルはトライアスロンの佐藤優香選手で、本人もとても感激をしていました。メダルは金9個、銀5個、銅が3個で計17個でした。メダルを逃したもののそれに準じた成績の選手もたくさんいました。国際経験の浅い選手も多かった中で、みな堂々と、チーム一丸となって全力を尽くしてくれたと思います。
この大会はまた、役員の数が限られていました。14歳から18歳というデリケートな年代の選手たちに何かあってはいけないですし、競技によっては何種目もあるのにコーチ1名というチームもありました。監督・コーチの方々にはご苦労があったと思いますが、競技の壁を越えて、互いにほかの競技を手伝い、競技間連携でよく乗り越えてくれました。
具体的には、競技の終わったコーチが違うチームのサポートしたり、ミーティングを開く際には本部役員が何も言わなくても、準備・片付けをしてくれたり。あとはだれか騒いでいる選手がいると、自分の競技の選手ではないのに注意をしてくれていました。これまでの大会ではあまり見られなかった光景です。

それは、「ビルディングアップ」の効果が出たということでしょうか。

竹田会長
そうでしょうね。行く前から、懇意になれていた部分が大きかったと思います。印象的だったのは、メダルを獲得した選手の「出迎え」です。ドーピング検査があるので、選手村に戻ってくるのは、夜の10時、11時になってしまうのですが、帰村を聞きつけて、みんな降りてきて、並んで祝福していました。福井烈総監督を中心に、本当によくまとまっていました。

会長は、選手団の団長として選手村に滞在されたのですか。

竹田会長
私はIOCの会議や他NOCとのミーティングなどがあり、滞在はできませんでしたが、何度も足を運びました。それから、団長賞の授与もしました。金メダルを獲得した選手にいつもは最後にまとめて贈るのですが、今回は全部、会場で応援をして、その場で手渡すことができました。選手や指導者の方たちは、喜んでくれていたようです。

次代に伝えていくことが使命

では今後に向けて、何か課題や反省はありますか。

竹田会長
今回、日本ではテレビ放映がありませんでした。しかし世界のメディアは、166カ国でテレビ放映権を購入し、広く伝えていたそうです。ユースオリンピック大会で14歳から18歳の選手たちが活躍するのを見れば、子ども達はすごく興味を持つでしょう。「自分たちも数年後、こんな大きな舞台で活躍できるかもしれない。そしてその先にはオリンピックがあるんだ」と励みにもなる。今回も我々としてはメディアの方たちに理解を得るべく努力はしたのですが、次回は是非テレビ放映を実現させたいと思っています。

最後に、この大会は2012年のロンドンオリンピック、16年のリオデジャネイロオリンピックにつながる、あるいは影響を与えるものになりそうでしょうか。

竹田会長
チームジャパンが結束して一つになり、協力し合ったこの2週間は、今回参加した日本代表選手団にとって非常に貴重なものとなったはずです。そして、この大会でいろいろ経験したことを、選手は自分の仲間や後輩へ、役員・監督・コーチの方は他の指導者たちに伝えていくことが、非常に重要であると考えています。皆さんには解団の際にもお話ししたのですが、そうすることでこの大会の趣旨が広まり、オリンピックというものの価値の見直しにもつながると思います。それは、今回出場した選手団全員の使命ですね。

そのことが、子どもたちがスポーツの楽しさを知るきっかけにもなりますね。どうもありがとうございました。

ユースオリンピック

2010 年 10 月 17 日 Comments off


執筆:結城和香子(読売新聞社 運動部次長)

◇疑問

IOCが創始したユース五輪を取材するにあたり、疑問に感じていた部分がひとつある。

五輪やスポーツの純粋なすばらしさを、勝利至上主義を離れて若者に体験してもらおう–。ユース五輪はある意味で、今日の五輪の弊害へのアンチテーゼのような狙いを持っている。けれど現実には、勝ち負けを超えたスポーツの教育的価値の再発見と、大会存続のためにプレステージや社会の関心度を保つことは、容易に両立するとは思えない。

そもそも五輪は、アマチュアリズムなど理念を前面に奉じようとした時代を経て、サマランチ前会長が五輪運動存続のために商業主義を導入、プロを含む世界のトップ選手に門戸を開いて、世界最高のプレステージを持つ、しかし勝利至上主義やその弊害がついて回る、巨大イベントに成長した経緯を持つ。

ユース五輪の理念はすばらしい。でもそれだけでは、コストを支えるスポンサーやメディア、そして一般社会の高い関心は呼びにくい。存続には、どこかで理想と現実のバランスを取る必要がある。独自の道があり得るのか?

◇象徴

プルメリアが咲くシンガポールでの第1回大会。約250億円と国家の面子をかけただけあって、組織運営はしっかりしたものだった–選手村行きのバスが故障し、代替バスは道に迷い、結局2時間かかったことなどを除けば、だが。

ユース五輪のユニークさが浮き彫りになった、象徴的なシーンがいくつかあった。

シンガポールの摩天楼を借景に、これでもかという花火が打ち上がった開会式。異色だったのが、「SOS」の手旗信号の群舞だ。背後のスクリーンに環境破壊や戦争の悲惨さが、殺し合いや死者まで描くリアルな絵で展開する。未来のために若者が立ち上がり、地球を取り巻いて行く。明日を託す強いメッセージが、打ち出されていた。

ロゲIOC会長が、開会式のスピーチでこう呼びかけた。「最初にゴールラインを越えさえすれば、勝者にはなれる。しかしチャンピオンになるには、周囲の尊敬を得なければならない」。人間性を育み、人生の真のチャンピオンを目指して欲しい。ユース五輪創始への思いが、ひとことに凝縮されていた。

ユース五輪の特徴だった教育プログラムの目玉、「チャンピオンとの語らい」。選手村で行われた初回、セルゲイ・ブブカとエレーナ・イシンバエワには、ホール一杯に350人以上の選手が詰めかけた。多くの質問が、「(競技人生で)一番落胆したことは」など、トップを目指していくための心構えや体験を聞くもの。ブブカは「故障から復帰後、好成績が望めない大会に、自分に勇気がないと思いたくなかったから挑んだ。結果は悪く、誰にも評価されなかったが、大きな壁を乗り越えた思いだった」などと真剣に語りかけた。ブブカは後日のインタビューで記者に、「大事なのは、若い選手に、僕らも同じ人間なんだと、壁や失意を乗り越え、努力を続けたんだと実感してもらうこと。話を聞いた選手の一人が、悩みがあったが、その後ぐっすり眠れるようになったと言っていたという。何かを見つけたんだと思う」と述懐した。

◇現実

一方で、取材をするうちに多くの課題も見えた。ジュニアレベルとは言え真剣に勝利を追求する選手たちの中には、教育・文化プログラムを重荷に感じる者もいること。積極的に参加した選手でさえも、英語という言葉の壁があるために、セッションの真の狙いが伝わらずに終わっていること。郊外の島でイカダを作るなど共同作業に臨む冒険授業は、まるでサマーキャンプ。共通する印象は、「他国の若者と交流して楽しかった」だ。

『50』もある教育・文化プログラムは主題として、五輪理念や歴史を知り、心身の健康の意味を学び、競技者としてのキャリアを考え、社会的責任や義務を知る、などを挙げている。

選手はロールモデルとして、自分の周りの社会問題などにも目を向けて発言をする意識も必要–という狙いで、環境問題を取り上げたセッションをのぞいてみた。結局言葉の問題もあり、環境問題の議論も、ロールモデルについての話も、ゲストとして来たパラリンピックのマルチメダリストの体験談も生かさず、参加した選手は「え、そういうテーマだったんですか」。終了後若い赤十字のインストラクターと話をしたが、「教えるのではなく、楽しみながら自発的参加を促す」手法を取っているため、うまく流れを作れず難しい面もあると明かしていた。

◇IOC

IOCの自己評価は–。会長就任前からビジョンを持ち、ユース五輪創始を推進したロゲIOC会長は、言葉の壁などの課題は認識しながらも、これほどの成功は予想しなかったと強調する。他のIOC委員は、教育プログラムを重荷に感じる選手がいることを認め、改善も必要なことを認める。ただ、理念や目的はすばらしいので、長い目で真の成果を見極める必要がある、と語る。

スポーツを通じた人間教育の場を、という信条に加えて、ロゲ会長が「(創始の)機は熟した」と言う背景には、社会の変化がある。ゲームや携帯など娯楽が多様化し、若者のスポーツ離れが進んでいる現実だ。ただ単にスポーツ人口が減るだけの問題ではない。スポーツのすばらしさを実体験する人間が減り、ひいてはスポーツへの関心度や、五輪の社会的価値にまで影響は及びかねない。

昨年の五輪コングレスが、社会におけるスポーツの価値を主題に取り上げたように、変化する社会の中で、人や社会をより良くできる触媒としての、スポーツの良さや価値を再認識しようという動きが強まっている。ユース五輪はその一環だ。人間性などを育む教育効果という側面に、注目を集めたこと自体が、一つの成果だったとは言える。

◇結論?

商業論理の数字に変換しにくい「教育効果」に対し、どうやってスポンサー企業や、それらが判断基準に使う社会の関心を集めるのか。

可能性のひとつは、五輪やスポーツの力が、私たちの社会や人生を良くするために不可欠だという共通認識を広めること。現代社会で、誰も教育自体の価値を問わないように、スポーツが社会にとって動かぬ価値を持つと見られれば、それに対する支援も容易になる。五輪開催国で、五輪のもたらす社会への付加価値を実感し、社会や企業の関心度が増すように。
もう一つは、政府や国際機関の一層の協力を得ること。国威への意識や、五輪招致の布石も良いが、ユース五輪の価値自体がそれを促すようになれば理想的だ。各国で五輪・スポーツ教育、トップ選手と社会の交流などを広めることが、一つの契機になるように思う。

「まともな五輪を開くまでには数大会を要した。ユース五輪も成長し、永く続くだろう」とロゲ会長。理想というものは、信じる人がいなければ価値を持たない。その意味で、ユース五輪とスポーツの持つ力を信じてみることも、何かを生む第一歩かも知れない。

ユース五輪を視察して

2010 年 10 月 17 日 Comments off


執筆:阿部生雄(筑波大学理事・附属学校教育局教育長)

1.はじめに:筑波大学とオリンピック教育

8月13日から18日にかけて、シンガポールで開催された第1回ユース・オリンピック・ゲームズ(Youth Olympic Games、以後ユース五輪)を視察した。嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センターの企画による視察旅行に参加し、交流センターや日本オリンピック・アカデミー(JOA)の方々と楽しい、有意義な視察を行うことができた。
筑波大学の附属学校教育局教育長という立場で、シンガポールで開催された初めてのユース五輪を視察した理由は、平成21年の筑波大学の第二期中期目標・中期計画に係る大学全体の年次別実行計画の中で、オリンピック教育の実施を検討することを掲げたからであった。そこでは、附属学校教育局は、平成22年度と23年度に「大学と連携し、・・・国際平和教育としてのオリンピック教育の実施を検討」するとし、重点施策として「大学と連携し、附属学校の児童生徒を対象とする国際平和教育としてのオリンピック教育の実施を検討する」ことを掲げているからである。

第二期中期目標・中期計画と関連付けてオリンピック教育を掲げた理由を、思いつくままに列挙すれば次のような諸点を挙げることができよう。

①国際的な大学と附属学校をつくる上で国際平和に対する理解を深めておく必要があること
②筑波大学には教育、体育、スポーツの分野での伝統と学問的、教育的蓄積があること
③本学の前身校である高等師範学校の嘉納治五郎校長は、アジア最初のIOC委員として近代オリンピックの発展とオリンピズムの普及に積極的に取り組だこと
④クーベルタン男爵との強い絆を持っていた嘉納先生から、日本で最初のオリンピック教育を学んだという伝統を持っていること
⑤日本の最初のオリンピアンの一人であるマラソンの金栗四三、大日本体育協会の創設に深く関与した十種競技の野口源三郎をはじめ、その後も数多くのオリンピアンを輩出してきたこと
⑥筑波大学には小・中・高を網羅する普通附属学校6校、様々な障害に対応する附属特別支援学校5校があり、パラリンピックなどを含むオリンピック教育の先導的試みを発信できること
⑦筑波大学は総合大学であり、体育、芸術、教育、医学、国際、人文、社会等と協働して、単に競技力向上だけでなく、国際平和教育の観点からオリンピズムとオリンピック・ムーヴメントを推進し、支援してゆく体制を整えることができること
⑧将来的には生物、理工、情報等の関係する多様な科学オリンピックとも協調してゆくことも可能であること
⑨本学は、JOCやJOA のみならずIOCとの協力関係を保っており、すでに、大学で「オリンピック」という授業を一般教育として行っていて高い評価を得ていること

等である。

2.イラン選手の対戦・メダル受賞拒否について

ここでは筑波大学の企画している「オリンピック教育」や今回の「ユース五輪」視察に関して詳述することが目的ではない。「オリンピック教育」については稿を改めなければならないし、ユース五輪の視察については他の参加者が詳細に論じてくれると思うからである。ここでは「ユース五輪」を視察して最も印象に残った点について述べることにとどめたい。

8月13日に成田空港を発ち、8月14日夕方の開会式視察、8月15日バスケット3on3観戦、8月16日水泳競技観戦、シンガポール・スポーツ・スクール見学、ビレッジ広場と南洋履行大学でCEP(文化・教育プログラム)見学、メディア・センター訪問、8月17日SYOGOC(シンガポール・ユース五輪組織委員会)のブリーフィング、徳明政府中学(実際は中・高等学校)でのオリンピック教育視察、8月18日に帰国、というように個人ではとても計画できないような充実した視察であった。ここで論じようと思うのは、ユース五輪の可能性を感じさせてくれたSYOGOCのブリーフィングでの一場面についてである。

8月17日早朝、前日のテコンドーの48キログラム級決勝戦においてイランの選手が怪我を理由に試合を棄権し、表彰式も欠場して銀メダルの受賞を拒否したということが報じられた。この出来事に対して、イスラエルの選手側は、ある程度こうした事態を予測していたものの、イラン側が政治的理由によって選手を引き上げさせたと批判した。そして、イスラエル側は、イスラエルの選手が決勝戦でイランの選手と対戦できなかったことを残念に思っている、というコメントをしたのであった。

イランの選手の引き上げの政治的意味を解読するには、幾分かの両国関係の知識を要する。両国は、アラブ諸国との対抗上、軍事的に緊密な関係を保っていたが、1979年のイランでのイスラム革命後、イランはイスラム・イラン共和国へと移行し、反米とシオニズムを敵視する反イスラエル国家となり、シオニズム国家であるイスラエル以外の国々と対等・互恵の関係を築く政策に転換した。また、近年、核開発疑惑で国連安保理の制裁決議を受けたが、平和目的の核開発であるとしてその決議の受け入れを拒否している。イラン政府にとって、イスラエルはパレスチナを占領しているシオニズム国家であり、生存権すら認められるべきではないという立場をとっている。一方、アメリカのイスラエル離れの噂は、イスラエルによるイランへの単独攻撃の危険性を高めているとも言われている。

こうした両国の嫌悪な関係は、今までのオリンピック大会でも、対戦拒否となって現れていた。17日のザ・ストレート・タイムズ紙によると、2004年アテネ五輪では、柔道の予選で世界チャンピョンであったイランのアラシュ・ミレスマイリ選手が、イスラエルのエウド・ヴァクス選手との対戦を拒否した。また2008年の北京五輪の平泳ぎ予選では、イランのムハマド・アリレザイ選手は、イスラエル選手の含まれるそのレースを腹痛により拒否したという。特に2004年の柔道でのミレスマイリ選手の対戦拒否に関しては、イランのカタミ首相は、ミレスマイリ選手こそオリンピックのチャンピョンにふさわしいとし、「イラン人の栄誉の歴史に記録される」と称えたという。

こうしたオリンピックにおけるイランとイスラエルとの対戦拒否の歴史を考えると、ユース五輪のテコンドー決勝戦(48キロ級)でのイラン選手のイスラエル選手との対戦拒否は、起こるべくして起こったと言ってよいであろう。しかし、それがユース五輪でも繰り返されたことに、大きな失望を感じざるを得なかった。理想主義的に競技を行う場としてのユース五輪で、「オリンピックは勝つことにではなく参加することに意義があり」という最も初歩的な原則が通用しなかった、ということは大きな問題だと思うのである。

われわれ視察に行った者の一部は、17日の午前中にSYOGOCのブリーフィングに参加した。私はブリーフィングが始まる以前から、こうした政治的対立がユース五輪で発生した場合に、どのような対応を組織委員会、またIOCがとろうとするのかを質問しようと思っていた。

ブリーフィングを担当したディレクター、リチャード・タン氏はユース五輪の特色と招致の経緯、組織委員会の構成と機能、競技種目とその特徴、文化・教育プログラム、開催場等について1時間ほど説明してくれた。その後、質問を受け付ける時間があり、他の人からテコンドーの決勝不参加と表彰式におけるイラン選手の出席拒否に関する質問が出るのを待った。しかしこの問題に関する質問が出ないので、「政治的理由からユース五輪で今回のような決勝戦の拒否、銀メダル受賞拒否という事態が生じたが、組織委員会はどのように考えるのか、またどのように対応するのか」、という点を尋ねた。

タン氏は、特別のことは考えていない、今回の事件は、こうした問題について若者が考えてゆく一つの重要な機会を提供してくれた、と答えた。幾分か冷静な対応に安堵する一方、今後、ユース五輪で生じるかもしれない政治的紛糾の処理の体制に不安を感じざるを得なかった。そこで、組織委員会は、IOCとの協力で、今後、同様な紛擾に対応するために、若者(ユース)で構成される問題解決のための委員会を設置すべきではないのか、という趣旨の発言を行ったが、十分な共感を得られなかった。

少し理想主義的であったかもしれない、という反省もあるが、ユース五輪なのだから、若者たち自身による国際紛争や政治対立を乗り越えるための論議の場があってもよい、と本気で思っている。次代を担う若者たちが、大人たちの古びて膠着した常識を打破するような、既存の秩序や考え方にとらわれない、斬新な解決の方法を考えてゆくことこそ、ユース五輪に相応しいプログラムだと思うのである。

ピエール・ド・クーベルタン男爵は、イギリスのパブリックスクールにおける生徒の「自治的」な活動(真に大人になるための活動)を学び、世界に広めようとした。ユース五輪は、その意味で、そうしたクーベルタン男爵の近代オリンピック創始の根本的意義を再確認する最も相応しい機会であり、また場であると思う。ユース五輪を立ち上げたロゲIOC会長は、クーベルタン男爵の最も根底にあった考え方を非常によく理解していたように思うのである。

3.おわりに

ロゲ会長は、イラン選手の出場と銀メダル受賞拒否問題について、イラン選手が実際にひじに怪我をしており、病院で診断を受けていたことを確認し、それ故の出場拒否であったとして、それ以上の問題にしようとはしなかった。しかし、若者が自ら作り上げる国際的な機関や組織で、紛争を解決しようとする試みをユース五輪が実現させれば、国際平和教育としてのユース五輪の意義は極めて大きなものとなり、現在のオリンピック大会を逆規定するような大会に成長することになると思われる。ユース五輪に対する期待は大きい。

ユース五輪を取材し続けた読売新聞社運動部の結城和香子記者は、9月4日の読売新聞に「初開催ユース五輪の成果」と題する記事を寄せている。そこでは、①スポーツが持つ人間形成の力を印象付けた、②スポンサーなどの関心を今後どこまで集められるか、③大会継続へ国際社会に価値認識させる努力を、という3点を指摘している。「まともなオリンピックを開催するまで数大会を要した。ユース五輪も成長し、永続する」とロゲ会長はやや楽観的に述べているが、若者の祭典として大会を継続し、発展させるには目に見える形での成果や開催の意義を、国際社会に広く認識させる努力が不可欠である、と釘をさす結城記者の意見に同感である。また、シンガポールがユース五輪に費やした運営費は244億円に及ぶといわれ、こうした嵩む経費が今後のユース五輪にどのように影響を及ぼすかも注視していかなければならないと思う。大きな可能性を宿すユース五輪の成長を支援し、見守り続ける義務が、われわれ教育者にはあるように思える。

JOA会員がみたユースオリンピック

2010 年 10 月 17 日 Comments off


執筆者:
桶谷敏之(嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センター)
舛本直文(首都大学東京)
和光理奈(中京大学)
大津克哉(東海大学)
和田恵子(JOA専務理事)

Blazed the trail with the Singapore 2010!

今回JOA有志の皆さんと共に史上初となるYOGを視察した。大会モットーの「Blazing the Trail(開拓する)」の通り、シンガポールはオリンピック・ムーブメントの歴史に新たな道を切り拓いた。どのような大会になるのか、直前まであまり具体的な情報が発信されてこず、その成功が危ぶまれていたが、ふたを開けてみると大成功。参加したヤングオリンピアンたちからもポジティブな反応が目立ったように思う。
今回の大会中、筆者が感じた大きなテーマ、それは「チャレンジ」である。史上初の大会、通常のオリンピックと異なる大会システム、選手選考過程、スポーツと文化・教育の融合。どれも大きなチャレンジであったに違いない。しかも2年半のうちにこれを成し遂げたのだ。世界中から多くの不安の声が上がる中、準備に携わった関係者の熱意と献身には心から祝意を表したい。2年後の冬季大会がどのようなかたちになるかはまだ分からないが、今後YOGがオリンピック・ムーブメントの重要なイベントになっていくであろう。そういった情勢を見据え、我々も柔軟に、そしてベストの体制で対応できるようチャレンジしていかなければならないだろう。(担当:桶谷)

YOG開会式

8月14日夕方、シンガポールのマリーナ・ベイの浮き桟橋会場。セキュリティチェックを受けて入場する。チケットはVISAカードと一体式。これで公共交通にも無料で乗れる新システムである。オリンピック開会式恒例の「演ずる観客」の小道具を受け取る。今回は、ライト付のハートと羽ばたく鳩、大会旗と国旗の小旗である。雨が心配なためポンチョが入っているが、飲み水とマフィンも入っているのが驚き。飲食ゾーンに行き来する人もなく、スタンドに座る観客の邪魔にならない。会場は世界最大の海上浮き舞台。湾を囲む高層ビルからサーチライトが照らされ、水と光と音を駆使する舞台装置が整っている。

YOG開会式(撮影:大津克哉)

YOG開会式(撮影:大津克哉)

開会式は13のパートから成る。テーマはユースオリンピアンと世界の若者向け。演技はシンガポールの若い歴史から始まり、新しい物語を描いていく。ブレイクダンスが多用され、怪獣を退治するテレビ活劇のような勇士たちも登場。シンガポールスピリットは地元芸能で表現され、花火と高層ビルからのレーザー光も多用した新旧文化の混交が面白いが、少々陳腐ともいえなくもない。
選手は一団となって入場。シンプルで時間もかからなくスマートである。代わりに204の国・地域のNOCの旗手が1人ずつ入場するプログラムを導入。さすがにシンガポール旗の入場では大歓声が上がる。
終盤は公式儀式と平和メッセージ。今回初めてコーチによる宣誓が行われた。若者を指導する立場の人間としてのフェアな宣誓は新鮮であった。平和はやはり鳩で表現。舞台もスクリーンも鳩。空中には風船の鳩。しかし、国連の関与が何も見られないのが残念である。
フィナーレは聖火入場。電飾のフェニックス船が聖火を乗せて海から登場。”Blazing the Trail”よろしくジグザグの浮き桟橋をリレーし舞台に到着。最終点火で会場はクライマックスを迎える。マリーナ・ベイを赤々と照らし出すシンボルが誕生し、13日にOlympic Walkという遊歩橋が開通していたが、そこが絶好の聖火撮影スポットとなった。
ユース向けとして新奇な演出もあったが、初のユースオリンピック大会としてのメッセージはあまり強くはなかった。子どもの参加ももっとアピールしてもよい。姉妹校プログラムの紹介もあって欲しいところ。YOG大使のオリンピアンもスクリーン登場だけでは物足りない。
この開会式の盛り上がりでYOGに参加した若者たちの夢と希望はどのように鼓舞されていくのか?YOGのDNAがどのように形成されたのか、今後が楽しみである。(担当:舛本直文)

YOGにおける文化教育プログラム(Culture and Education Programme:CEP)

YOGでは大会趣旨に合わせ、50以上の文化教育プログラムが同時開催された。参加選手には、以下のプログラムが用意されていた。

①オリンピアンの話を聞く会
②展示やワークショップを通じて人生におけるチャンピオンとなるヒントを得る
③各国の伝統的な遊びや文化理解
④ダンスへの参加や、オリンピックを題材とした作品鑑賞
⑤地元協賛者と社会貢献について学ぶ
⑥エコ体験の旅
⑦ウビン島にてチームで課題をクリアする。

シンガポールの生徒たちによる各国のイメージFabric(撮影;和光理奈)

シンガポールの生徒たちによる各国のイメージFabric(撮影;和光理奈)

今回は、一般向けのプログラムのみ見学が可能だった。International Convention Center(ICC)においては、近代オリンピックの歴史、過去の大会ユニフォームや競技に関する道具、聖火フォルダー、今回の大会メダル(日本人デザイン)等が展示されており、その横ではテコンドーやヨーヨーの実演、遊び感覚で学べる健康に関するコーナーなどが展開されていた。また同じビル内には、シンガポール市内の生徒が各国のイメージを一枚の布にデザインしたSingapore 2010 Friendship Fabric Exhibitionが設置されており、その鮮やかな作品群に目を奪われた。チャンギ国際空港にもYOGに関するチャレンジコーナーが設置されていた。

カラフルに仕上げられた各展示物や、催し物内容に、一般の関心が寄せられたのではないかという期待が持てた。 (担当:和光理奈)

YOGに見る地球環境問題への啓発活動

IOCは、1990年代初頭から「スポーツ」、「文化」に続いて「環境」をオリンピック運動の3本柱とし、スポーツ競技団体の社会的責任として地球環境への最大限の配慮のもとでオリンピック競技大会を行うことを公表している。自然の保全、環境保全に向けた取り組みは、もはやスポーツ界も例外ではなくなった。当然、YOGでも各種取り組みが行われており、会場内や街中ではYOGロゴの付いたゴミ箱が多くみられ、ゴミの分別が徹底されていた。

YOG開会式前日の8月13日に、開会式会場からほど近いマリーナ湾のウォーターフロント・プロムナードで植樹セレモニーが催された。セレモニーでは、各国の国内オリンピック委員会と姉妹校プログラムを行ったシンガポールの学校の児童・生徒らが参加し植樹がされた。ちなみに、各々の木にはその国をイメージしたユニークなプレートが飾られている。

CEPに参加しているアスリートたち(撮影:大津克哉)

CEPに参加しているアスリートたち(撮影:大津克哉)

14日の開会式では、『S.O.S』と題したプログラムの中で、昨今問題となっている自然の破壊、環境汚染、資源の枯渇など地球環境問題について考えさせられる映像が流れた。

また、アスリートが参加できるCEPの中には環境問題について学べるワークショップがホートパークとマリーナ・バラージュで行われていた。ホートパークでは、庭園内を散策し自然の生態系の仕組みを学んだり、ガラス瓶の小さいプランターの中に草花を植えて選手村に持ち帰り植樹をする。そして、マリーナ・バラージュでは展示やワークショップを通じて持続可能な水管理という水をテーマにした講習を受けることができる。このような体験型のプログラムによって、地球環境に関する認識を深めることが期待される。大会期間中にどれほどのアスリートがこれらの環境プログラムに参加したのか、後ほどの報告を待ちたい。(担当:大津克哉)

SYOGOCブリーフィング

シンガポール・ユースオリンピック組織委員会(SYOGOC)は8月17日、24日の二日にわたって、海外からの希望者(申込制)に対して本部でブリーフィングを行った。

SYOGOCメインオペレーションセンター(撮影:和光理奈)

SYOGOCメインオペレーションセンター(撮影:和光理奈)

17日のブリーフィングには数十名が参加(日本からは8名)。出席者の中には、YOG開催予定のインスブルックからの関係者の姿もあった。SYOGOCリチャード・タン氏による開催決定から開会までの包括的なプレゼンテーションが行われた後、参加者はメインオペレーションセンターとテクノロジーセンターを見学した。
シンガポールYOGのビジョンは、オリンピックの価値に基づいたスポーツ、文化的、教育的な体験を通じて世界の若者を鼓舞すること、そしてシンガポール人がスポーツを楽しみ、卓越することを目指し、友情と尊敬の気持ちを持つことである。

オリンピック価値である文化、教育、スポーツを統合させた世界的なマルチスポーツ大会であるYOGの文化・教育プログラム(CEP)は、5つのテーマ(オリンピズム、スキル開発、健康的なライフスタイル、社会的責任、表現)に沿って、7種類のフォーマット、50の活動がオリンピックアスリートを対象に村内だけでなく、村外でも行われる。強制ではなく、楽しむことに重点が置かれたプログラム展開とすることを基本にしたという。

選手村でのCEPの視察はかなわなかったが、村外での選手を対象としたプログラムや一般向けのプログラムを見ることができた。開会直後の一部の会場の視察ではあったが、いずれの会場でもボランティアがプログラムの重要な担い手となって熱心に活動しているのが印象的であった。

どのくらいの数の選手たちがどのプログラムに参加し、どのような印象を持ったか、またシンガポールの若者がYOGをどのようにとらえ何を学んだか、第1回YOGの成果に期待したい。(担当:和田恵子)

ユースオリンピックと今後のオリンピック・ムーブメント

2010 年 8 月 15 日 Comments off


執筆:桶谷敏之(嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センター)

2010年8月、オリンピック・ムーブメントは新たな局面を迎えることになる。ユースオリンピック大会(YOG: Youth Olympic Games)の開幕である。これは14〜18歳のユースアスリートを対象に、スポーツと教育・文化を融合させ、正にオリンピック・ムーブメントが目指す活動を一つのイベント内で体現させようとする非常に野心的な試みであり、今後のオリンピック・ムーブメントを考える上で欠かせないエレメントになることは間違いないであろう。然るにその実情が今日に至るまでメディア等であまり報道されてこず、果たしてこのYOGがどのような大会なのかといったテクニカルな情報だけでなく、何故今ユースオリンピックなのかといった理念的な部分の周知も(少なくとも日本国内では)不充分なままきてしまったように思われる。そこでここでは、YOGが創設されるに至った経緯とこれから迎える第1回大会の特色などについて概略をまとめてみたい。

既に過去の報道でも伝えられたように、YOGは2007年7月のIOC総会(グアテマラ)にて創設が承認された。本人も認めているようにロゲ会長肝いりの企画である。この構想には「スクリーン文化」の悪影響により若者がスポーツから離れてしまっているという現状を打開し、何とか若者をスポーツに回帰させようという大きな目的がある。

その手始めとしてロゲ会長は、EOC(ヨーロッパ・オリンピック委員会)会長であった1991年にEurope Youth Olympic Festivalを創設した。これはヨーロッパの青少年を対象として、夏季、冬季それぞれが2年ごとに開催されるスポーツイベントで、創設者でもあるロゲ会長は現在も熱心に支援している。同種のイベントはシドニーオリンピックのレガシーとして、2001年より隔年で開催されているAustralian Youth Olympic Festivalが挙げられよう。これらの積み重ねがテクニカルな面を含め、IOCイベントとしてのYOG創設につながったといえる。

第1回ユースオリンピックの開催には実に11都市が名乗りを上げた。その後書類選考とビデオプレゼンテーションによる選考を経てモスクワとシンガポールがファイナリストとして選出され、2008年2月、IOC委員の郵便投票により栄えある史上初開催の権利はシンガポールへともたらされた。

さて、このYOGであるが、その特色は何といっても世界中から集結した次代のオリンピックヒーローらに文化教育プログラム(CEP)を体験させる点であろう。CEPは大きく分けて5つのテーマで構成されており、アスリートは競技の前後でこれに参加する。その内容をみると、座学ではなく体験学習や交流をメインにプログラムが組み立てられており、体を通してスポーツの価値、オリンピック・ムーブメントの意義を学べるよう配慮されている。

また競技の面では、男女混合種目や、NOC代表ではなく大陸ごとのチーム編成で行うものなど、スポーツを通した交流が自然と促されるような仕掛けが幾つか施されている。更にバスケットボールでは3 on 3を、サイクリングでは混合競技を実施するなど、オリンピックスポーツとしても新たな試みが実施され、IF側にとっても新たなオリンピックの姿を模索する大会となるであろう。

昨年JISSのイベントで講演されたシンガポール国立南洋理工大学(ここはシンガポールで選手村として利用される)のTeo-Koh Sock Miang博士は、「ユースオリンピックは全ての人にとってチャンスとなる大会としたい」とYOGの目指すビジョンを披露された。そのビジョンに従い、組織委員会は団長を含めた選手団役員もできるだけ若手を多く採用するようにNOCに依頼したそうである。なるほど、今回の日本選手団も全体的に若手の起用が目立ち、選手だけでなく若手役員の活躍の場にもなっているといえよう。

選手団だけではない。世界中の各NOCから推薦を受けて選出されたYoung Ambassador、各大陸NOC連合から選ばれたYoung ReporterもYOGの主役たちである。

IOCとしては、シンガポールに参加し、オリンピズムを身につけた若者たちが2012年ロンドン大会、あるいは2016年リオ大会でチャンピオンや大会を支える立場となり、その次の世代のロールモデルとして活躍することを期待しているに違いない。そういった好循環が生まれてくれば、オリンピック・ムーブメントがより深く、より実感できるかたちで社会に浸透していくことになるだろう。

以上のように、YOGの開催を通してかなり野心的な取り組みが行われるが、なかなかまとまって情報が発信されることがなく、特に新聞紙面などを通して折角の理念が周知しきれなかった点は否めない。通常オリンピックは7年の準備期間を経て開催されるものだが、今回組織委員会に与えられた時間はわずか2年半である。更にIOCにとっても初の試みであるため、組織委員会側も戦略的な国際PRがなかなか実現できなかったことに仕方のない面もあろう。もっとも、IOC組織委員会双方ともホームページを通した情報発信にはかなり力を入れてきた。また、より若者に直にメッセージが届くようにとのIOC側のコミュニケーション戦略もあり、FacebookYoutubeTwitterといったいわゆるソーシャルメディアを用いた情報発信はかなり積極的に行われてきた。今後こういった方向性はその他のオリンピック組織委員会にも引き継がれ、発展していくことは間違いない。

ところで、日本側としてはYOGがインターハイなど国内主要大会と日程が重なってしまうため、選手選考が相当に難しかったことと思う。今後YOGがオリンピックと密接に連動した大会となってくる場合、インターハイなど国内大会との関係性も再定義が求められるのではないだろうか。同じことは国際競技連盟主催の国際大会との関係性についてもいえる。

しかし、一番大きな課題はやはり言語であろう。現在の日本に英語を用いて支障なくコミュニケーションができる14~18歳のユースアスリートが果たして何人いるだろうか(まして仏語では・・・)。そのため、シンガポールでは組織委員会が現地在住の日本人などにサポートを依頼するなど、出来る限りの対策は講じている。我々としては寧ろこれを機会に外国語を含めたアスリートのコミュニケーション能力をユース世代から鍛えていく体制を整えるべきであろう。

来る8月14日に革新的な取り組みを詰め込んだ、史上初のYOGが開幕する(開会式は日本時間の20時30分スタート)。残念ながら日本でのテレビ放送はないようだが、ハイライトの映像はネット上にアップされるそうなのでぜひ確認されてはいかがだろうか。

参考サイト

・ CEPのイメージ
http://www.olympic.org/en/content/Media/?articleNewsGroup=-1&articleId=95904
・ 五大陸のユース代表が歌う大会テーマソング
http://www.singapore2010.sg/public/sg2010/en/en_multimedia/en_theme_song.html