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第1回ユースオリンピック競技大会(2010/シンガポール)を振り返る

2011 年 4 月 12 日


五十嵐涼亮選手(日本代表選手団 主将)

聞き手:山本尚子(Olympic Review Online編集委員)

第1回ユースオリンピック競技大会(以下シンガポールユースオリンピック大会)の日本代表選手団主将を務めた柔道男子の五十嵐涼亮選手(私立国士舘高校2年・17歳)に、大会の印象、主将としての重圧、今後に向けての抱負等についてお話を伺いました。

 ビルディングアップ・チームジャパン

五十嵐さんが日本代表選手団の主将だよと聞かされたのはいつごろでしたか。

五十嵐涼亮選手 大会の1カ月ぐらい前でした。ある大会で優勝してシンガポールユースオリンピック大会への出場が決まって、少しして「主将に選ばれたぞ」と言われました。

 

表彰台の五十嵐選手

 

でもそのときはとくに、主将だからというプレッシャーはありませんでした。大会に向けては、主将だからというより、国際大会は日本人相手とはまた戦い方が変わってくるので、そのために徹底して組み手の練習をしました。

結団式での挨拶はうまくいきましたか。

五十嵐選手 あまり得意ではないのですが、緊張しながらもなんとかやりました。

そのあとに行われた、オリンピックについて学びながらチームジャパンとしてのチームワークを高める「ビルディングアップ・チームジャパン」はいかがでしたか。

五十嵐選手 環境についてなどのお話があったやつですよね。すごい難しかったです。

財団法人日本オリンピック委員会の竹田恆和会長が話された、オリンピズムやオリンピックの歴史についてはどうでしたか。

五十嵐選手 初めて聞く話ばかりだったので難しかったです。でも参考になりました。

いちばん印象に残っているお話は?

五十嵐選手 ドーピングについてですね。気をつけなければいけない食べ物や、ケガやカゼのときの薬でもひっかかる場合があるということなどです。

 ルームメイトと協力し合う

シンガポールでの大会期間中、文化教育プログラム(CEP)が数多く実施されていましたが、参加されましたか。

五十嵐選手 自分は試合日程が最後のほうだったので、毎日調整があって、それには参加できませんでした。競技が早めに終わった選手は、いろいろ参加して、バッグや時計などをもらっていましたね。ただ自分も、ちょこちょこと各国の展示ブースは回りました。それぞれの国の個性が出ていておもしろかったです。

他の競技の皆さんとコミュニケーションを深める機会は多くありましたか。

五十嵐選手 それは多かったですね。いろいろしゃべったり、トランプをしたりとか。

高校生同士で共感し合える部分は多くありましたか。

五十嵐選手 いっぱいありました。部活動をやりながらの学校生活とか、どんな練習をやっているのとか。競技は違っていても参考になることがありました。

部屋は何人部屋だったのですか。

五十嵐選手 全部、2人部屋でした。柔道は自分と女子の田代未来選手の2人だけだったので、同室になったのはトランポリンの棟朝銀河選手でした。かなり仲良くなりました。

今回は、監督やコーチの人数がほかの大会と比べて少数だったため、競技の壁を超えた協力がいろいろと見られたと伺いましたが、それは感じましたか。

五十嵐選手 はい、とても。たとえばトランポリンと柔道はほとんど練習の時間帯がずれていたので、自分が試合に行って洗濯物がたまっていたときは、棟朝選手が洗濯をしてくれていたり、その逆もありました。そういう協力は、あちこちであったと思います。

もっと戦いたかった団体戦

五十嵐さんが出場した男子100㎏級は大会10日目。苦しい試合はありましたか。

五十嵐選手 決勝戦ですね。初戦はベネズエラのピネラ選手に一本勝ち。準決勝ではキューバのガルシア選手に一本勝ちでした。でも決勝ではベルギーのニキフォロフ選手に、一本を取れず、優勢勝ちとなりました。相手にペースを握らせないよう序盤からずっと攻めていましたが、一本が取れないと技をかけ続けなければいけないので大変でした。

それは相手の選手が、守りがうまかったということですか。

五十嵐選手 というより、自分が得意な内股という技ばかりかけ続けたからですね。優勝しなきゃ、優勝しなきゃと気持ちが焦ってしまって。「オリンピックではアテネ大会と北京大会と、選手団の主将になった選手が続けて優勝を逃していたので、今回こそは金メダルを」と監督に言われていて、全力を尽くして頑張るしかないと思っていました。

試合後、監督からは?

五十嵐選手 「おめでとう」と。あとは「同じ技をかけ続けたら相手も返し技などをねらってくる。同じ技は3度までにする。それから技のバリエーションを増やしなさい」と。

それがこれからの課題ですね。団体戦はそのあとだったのですか。

五十嵐選手 2日後でした。男女4人ずつ計8人ずつの12チームに分かれての試合でした。チーム名は、自分はエッセン、田代選手は千葉チームでした。(注:柔道の世界選手権が行われた都市名がチーム名になっており、ほかにミュンヘン、カイロ、バーミンガム、ハミルトン、パリ、東京、ニューヨーク、バルセロナ、大阪、ベオグラードがあった)
自分たちのチームは2回戦からで、田代選手のチームと当たって負けてしまいました。田代選手のチームは優勝しました。

五十嵐選手はどうだったのですか。

五十嵐選手 個人戦の準決勝で勝った相手に反則負けでした。自分は8人目で、もうその前に2-5ぐらいで負けは決まっていたのですが、でも悔しくて、それは反省点です。

団体戦の雰囲気はどうでしたか。何がなんでも勝つんだみたいな感じでしたか。

五十嵐選手 いや、和気あいあいとしていてみんな笑顔でした。ただ他のチームを見たら、勝ちながら一丸となっていくのがわかり、自分たちももっと試合をしたかったです。

なるほど。コミュニケーションは英語でとったのですか。

五十嵐選手 いや、英語は苦手なので、ジェスチャーで。けっこう通じましたけど、もっと外国の人と話したいという気持ちはあるので、英語の勉強はしなければと思いました。

オリンピックに向け一戦一戦全力を尽くす

個人戦で優勝した日、選手村に戻ってどうでしたか。

五十嵐選手 選手村には毎日、結果が紙に貼り出されて、帰ったとき、みんなに「主将おめでとう!」と出迎えられました。それは別に金メダルだったからというわけではなくて、何色のメダルでもそうでした。メダルを取れなくても、みんなが「お疲れ様」と言ってくれて、「こういうふうにほかの競技の人たちとかかわれるっていいなあ」と感じました。

第1回のユースオリンピックで、初代主将として金メダルというのは素晴らしい巡り合わせですね。

五十嵐選手 たまたまです。

それでは、これからの目標を教えてください。

五十嵐選手 国際大会に限らず、国内の小さな大会から大きな大会まで、一戦一戦、全力を尽くして、相手が強くても優勝できるように頑張っていきたいです。

その先にはオリンピックがありますか。

五十嵐選手 はい。幼稚園のときから柔道を始めて、小学生のころからオリンピックを見ていて、ずっとあこがれです。ロンドンはまだ厳しいかもしれませんが、リオデジャネイロ大会には絶対に出たいと思っています。

最後に、今回のユースオリンピックは日本ではテレビ放映されませんでした。竹田会長は、それをとても残念がって「日本の選手の活躍をもっと下の年代の子ども達に見てもらいたかった」とおっしゃっていましたが、それについては?

五十嵐選手 自分たちに近い年の人でも、ユースオリンピックであれば頑張れば出られるわけじゃないですか。テレビで見たことをきっかけに、「自分も頑張ってあのユースオリンピックに出られるようになろう」という子どもたちが増えてくれれば、日本のスポーツももっともっと発展していくと思います。

素晴らしいですね。では、今後ますますのご活躍を期待しています。

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