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2016 Games BidとTokyo 2016、そのレガシー

2009 年 12 月 5 日


執筆:桶谷敏之(筑波大学大学院)

2016年のオリンピック・パラリンピック開催をかけた戦いは、キャンペーン当初より「南米初」をスローガンに掲げたリオ・デ・ジャネイロに軍配が上がり、首都東京で挑んだ日本は三度連続の敗退を喫した。私は招致活動に直接的に携わった身であるが、オリンピック・ムーブメントの信奉者の一人として、未開催国、未開催地域での初の大会開催を心より祝福したいし、それに伴いオリンピック・ムーブメントが更なる発展を遂げることを固く信ずるところである。以下、今回の招致レースの概観に触れ、そして次にTokyo 2016が招致の過程で培ったレガシーについて簡単に振り返ってみたい。

東京は、2008年6月の書類選考でトップ通過し、またコペンハーゲンでの投票一カ月前に発表された評価委員会レポートでも高評価を得るなどその大会開催・運営能力は折り紙つきであったが、常に「何故いま東京なのか?」という問いに追い回された。特にリオが「南米初」という誰の耳にも分かりやすい理由を掲げていたため、なおさら一層東京の何故が注目されていたともいえよう。もっとも、リオ以外誰にとっても分かりやすい理由を提示できた都市はいなかったのも事実であるが・・・。(果たしてどれだけの人が、オバマ、サマランチといったファクターとは別に、他3都市のビッドメッセージをすぐに思い浮かべることができただろうか?)

東京は「Uniting Our Worlds」というスローガンを打ち出し、大会開催を通してアスリートを、人を、都市を、世界を結び合い、平和に貢献する成熟した都市における21世紀のオリンピック・パラリンピック像を提案、そのための具体的アクションを表現した「Setting the Stage for Heroes」で東京が安心・安全な都市であり、全アスリートが自己ベストを出せる環境整備を約束として掲げキャンペーンを展開した。東京の都市力、財政力を疑問視する関係者は皆無といっていいほどいなかったが、やはり、ではその先に何を東京は目指すのか、というもう一歩進んだ質問に「南米初」と同じレベルで分かりやすい回答をつくることはついぞできなかった。それはシカゴにせよマドリードにせよ同様であったと思う。東京、シカゴ、マドリードには開催能力があるものの、Whyにこたえるストーリーが薄かった。逆にリオには「南米初」というストーリーがあり、あとは都市力を証明する、ということが課題であった。事実、実際に大会オペレーションに携わる競技連盟関係者からはリオの大会運営能力を疑問視する声を多々耳にした。そういった現場の声がどこまで今回の意思決定に反映されていたのか、分からない部分も多い。しかし、書類選考の段階では4都市中最下位であったリオであるが、今年4~5月に行われた評価委員会の現地視察によって開催能力ありと認められると、一気に招致レースの中での存在感を増していった。

当初は大本命と目されたシカゴであったが、リーマンショックによりがた落ちした合衆国経済によってブレーキがかかり、更に懸案であったUSOC(合衆国オリンピック委員会)のテレビ放映権収入分配比率の問題が国際競技連盟、IOCとの間で悪化、NOCの支援どころかそのツケを払わされるかたちでシカゴは急転落していった。一方、評価委員会のお墨付きを得たリオであるが、テレビ放映の時間帯がアメリカと変わらないため、合衆国開催と同じような放映権収入が見込めるという地理的条件にも後押しされた。また、ルーラ大統領が公務の傍ら外遊先で招致アピールを積極的に行ったのもリオの大きな勝因の一つと言えるだろう。(とはいえ、ロンドンのケースと同じく、開催都市決定後に都市の安全性を脅かす事件が発生したのは何の因果であろうか…。)
いずれにせよ、IOCが大きな決断を下したことは間違いない。日本としては南米初の大会成功を全面的に支援して行くのが、同じオリンピック・ムーブメントの推進を志した者としての務めであろう。

招致レースに負けはしたが、Tokyo 2016もプラスのレガシーを多く遺した。まず挙げられるのがオリンピック教育の推進であろう。殆どの都市は開催が決定してからオリンピック教育を始めるが、まだ開催が決定する前から東京都と協力して専用のテキストを作成し、小中高の教育の現場で展開することができた。実践に協力してくださった公立学校では実に様々なかたちで授業が行われており、この事例の積み上げ自身大きな財産でもあるし、今後この結果を継承、発展させていく必要がある。

オリンピアンとパラリンピアンが手を取り合って招致活動を展開したことも大きな意味があったといえよう。近年のパラリンピックの発展により、オリンピックとパラリンピックは表裏一体である、という考えが世界で浸透してきている。招致委員会も「東京オリンピック・パラリンピック招致委員会」という名称にし、下部組織である招致委員会独自のアスリート委員会にはオリンピアンだけでなく多くのパラリンピアンにも参加してもらった。日本のオリンピアンとパラリンピアンが共通の目的に向かって力を合わせたのは恐らく初めてのことであったと思われるが、これをきっかけに全アスリートの交流を促し、彼らが協力してオリンピック・ムーブメントの推進に貢献していけるような体制づくりが進むことを切望する。

政府の全面的財政保障の表明も大きなレガシーであろう。財政が比較的盤石な東京であったからこそ、ということもあっただろうが、政府が文書にして財政保障を確約してくれた。周知のように大阪はこれを得ることができずに大きく減点された、という過去がある。前例主義の風潮が色濃い政府官僚機構にあって、本来的には民間の事業であるオリンピックに招致の段階で政府保障が出されたという意義は非常に大きいといえよう。

さて、幸か不幸かコペンハーゲン総会の前に政権交代が実現し、政権与党となった民主党は自公政権の政策見直しに着手し始めた。多くの政策にブレーキがかけられる中、鳩山総理はコペンハーゲン総会の現地に駆け付け、日本の首相として初めてオリンピック・パラリンピック招致のプレゼンターを務めた。更に麻生前総理が約束した財政保障を100%お約束する、とプレゼンの中で明言した。また同じプレゼン中、オリンピズムは総理の持論とする友愛の精神に合致し、全面的に支援するとも発言した。公の場で日本国のリーダーからオリンピズムへの理解についての発言を得られたことも重要なレガシーであろう。

また、スポーツ振興法を改正しようという動きが強まったことも見逃せない。招致の動きと連動して、自民党がスポーツ立国調査会を設立、日本のスポーツの在り方について議論を深めた。そしてそこでの議論を踏まえ、超党派でつくるスポーツ議員連盟によりスポーツ振興法をスポーツ基本法に改正しようという動きにまで高まった。何とか国会提出までこぎつけたものの、衆議院解散により廃案という結果に終わったのは記憶に新しいところであろう。しかしながら、1961年に制定されたスポーツ振興法がもはや時代の要求に応えていないのは明白である。また、行政サイドとしても行動の裏付けとなる法律の整備は必要不可欠である。理想を言えば、トップアスリート支援だけでなく、また草の根スポーツの普及だけに留まるでもなく、その両方を推進しつつ、更にスポーツの価値それ自身が高まっていくような体制づくりが必要であろう。そのためには「スポーツとは何か」、「我が国はスポーツを通して何を目指すのか」という国家戦略と連動した大きな絵を描き、単なる運動や競技ではないsportの価値を周知させていく動きが一方で求められているのも事実であろう。この点、JOAのような組織が果たさなければならない務めがまだまだ残っているのではないだろうか。

以上のように、目には見えづらいが着実に盛り上がったムーブメントが存在した。いずれも「オリンピック・パラリンピック招致」というきっかけが後押しし実現したことは間違いない。今後は、一旦盛り上がったこのムーブメントをどのように受け継ぎ、さらに継続的に発展させていくか、がスポーツ界だけでなく、日本全土で求められている。

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