80歳で他界した“フジヤマのトビウオ”古橋廣之進さんの思い出
執筆:伊藤 公
去る8月2日、”フジヤマのトビウオ”と言われた古橋廣之進さんが80歳で亡くなった。亡くなった場所はローマ(イタリア)で、国際水泳連盟(FINA)副会長として同地で行われた”世界水泳選手権大会”に出席中の出来事だった。
古橋さんは大東亜戦争終了直後の1947(昭和22)年頃から1~2年後にかけて、水泳自由形で次々に世界新記録を樹立し、敗戦に打ちひしがれた多くの日本人に、勇気と希望を与えてくれたスポーツマンである。そして昨年(2008年)は、スポーツ選手として、初の文化勲章を受章されたことは記憶に新しいところだ。
私が”フジヤマのトビウオ”こと古橋廣之進さんと知り合ったのは、あの東京オリンピックから2年後の1966(昭和41)年のことである。出版社社員より日本体育協会(広報課)の職員となった私は、広報委員の古橋さんを紹介され、知り合った。私は30歳で、古橋さんは私より7歳ほど年上だったので、37歳くらいではなかったかと思う。
だが、古橋さんと私の距離が縮まることはなかった。それが11年後、私は職場で広報部門より国際部門へ配置転換となり、国際担当参事(国際課長)に就任させられたことによって、古橋さんと一緒の仕事をすることになり、急に身近な存在となった。
その年(1977年)の夏にブルガリアのソフィアで開催される”大学生のオリンピック”ユニバーシアード夏季大会に行くことになったのだ。日本オリンピック委員会(JOC)常任委員で、日本ユニバーシアード委員会(JUSB)委員長だった古橋さんは日本代表選手団長に指名され、副団長格の総務は日本陸上競技連盟理事でJUSB名誉主事の帖佐寛章さん。私は日本代表選手団本部役員ナンバー3の人間として、古橋団長を補佐した。
日本選手団本隊を受け入れるために旅行エージェントのM・F君(彼も本部役員)と一緒に現地へ先乗りしていた私は、1週間後に古橋さんらと選手村で合流した。そこでの最初の本部役員・監督会議で、古橋さんから厳しい指示が出された。それは、「このような大会では、連日連夜、レセプションが開催されるはずだから、招待状を受け取ったら、万難を排しても出席するように」というものだった。
国際総合競技大会において本部役員(渉外担当)初体験の私には荷が重すぎたが、古橋団長の指示なので従わざるを得なかった。古橋さんはあとで、「日本人は一般的に語学が苦手なこともあって、レセプションには出席したがらないが、堂々と出席して、世界のスポーツ界の人たちと交流を深めることは必要なことだ。そしてホスト(主催者)に一言でもいいから挨拶をして帰るのがマナーというものだ」と語っている。その言葉は、私の心に深く刻み込まれた。
スポーツの国際会議に出席したのも、この時が最初だった。ユニバーシアード・ソフィア大会の開幕に先がけて国際大学スポーツ連盟(FISU)の総会が開催されたので、日本からは選手団役員の古橋さんと私の2人が出席した。
使用言語は英語とフランス語の2カ国語だけで、もちろん日本語の同時通訳など用意されているわけではない。現役選手引退後、大同毛織の社員としてオーストラリアに滞在経験のある古橋さんは「英語のヒアリングでは80%程度できる」と語るだけあって、自信に満ちあふれている。一方の私は、10%から20%程度のヒアリングができれば上出来で、どのような結論になったかについてはチンプンカンプンで、古橋メモに頼らざるを得なかった。
当時のFISU会長は、あとで国際陸上競技連盟(IAAF)会長、国際オリンピック委員会(IOC)委員にもなったプリモ・ネビオロ氏(イタリア)で、彼はFINA理事の古橋さんをFISUの執行部に迎え入れる画策をしていた。そしてこれが、1979年のメキシコにおけるユニバーシアードの際のFISU総会で実現する。
81年5月、FISU実行委員会はブカレスト(ルーマニア)で行われた。この時に私は、夏に当地で開催されるユニバーシアード大会の事前調査のために古橋さんに同行し、FISU実行委員会の様子を垣間見たことがある。詳細については省略するが、ネビオロ会長のラブコールでFISU実行委員(理事)に就任した古橋さんは、国際学生スポーツ界発展のために尽力し、FISUに欠かせない人間になっていることをヒシヒシと感じたものだ。
ちなみに、1980年の神戸、95年の福岡両夏季大会、91年の札幌冬季大会の日本開催は、古橋さんがFISU執行部にいたために実現できた国際総合競技大会だったことは間違いない。
その後古橋さんは、日本水泳連盟会長、FINA副会長、FISU副会長、JOC会長、日本体育協会理事など内外スポーツ界の多くの要職に就かれたが、偉ぶった素ぶりを示すことは皆無だった。
古橋さんと最後に会ったのは4月2日のことで、場所は古橋さんが会長を務める岸記念体育会館1階の日本スポーツマンクラブ。他に人がいないこともあって、約15分ほど1対1でじっくりとお話を伺うことができた。その時、古橋さんが心配されていたのは2016年の東京オリンピック招致のことで、日本スポーツ界の国際人不足を嘆いておられた。
古橋さんは、日本スポーツ界の数少ない国際人でもあった。それだけに古橋さんの死は痛い。