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パンデミック下での日本社会における「東京2020大会」の意義

2021 年 10 月 3 日

執筆:舛本 直文 (JOA副会長、東京都立大学・武蔵野大学客員教授、Virtual JOA HOUSE実行委員長、「オリンピズムの伝道師(自称)」

IOA  61st Young Participant Session
17th to 23rd of September, 2021
The Special Topic for this year’s Session: Olympic Games and the Pandemic: Opportunities, Challenges and Changes

Lecture Topic: The Significance of the Olympic Games of Tokyo for the Japanese Society
By: Naofumi Masumoto PhD (Vice President of the Japan Olympic Academy, Visiting Professor of the Tokyo Metropolitan University and Musashino University, Chair of the 2021 Virtual JOA HOUSE, Evangelist of Olympism in Japan: self-proclaimed)

第61回IOAヤング・パーティシパント・セッションが開催され、レクチャラーの一人として、以下のようにオリンピック競技大会を中心とした日本社会の状況に関して講演をしたので、それに一部加筆した日本語版を紹介する。

0.はじめに:映像チェック

先ず、YouTube の「東京2020大会」のオリンピック競技の映像をチェックしたい。
VTR: The #Tokyo2020 moments that gave us hope.❤(2:19min)*0
*0 https://www.youtube.com/watch?v=6ukU4Ym0vEE

 この動画は、東京大会でのオリンピアン達の輝きを映し出している。しかし、東京オリンピック大会を正確に評価するためには、その光と影の両面のインパクトを描くべきであろう。本稿でも、できるだけそのようなスタンスを保つようにしたい。
 また、「スポーツは世界を映す鏡」”Sport is a mirror of the world”と良くいわれる。「東京2020大会」の意義を判断するに当たっては、この大会を取り巻く国際社会と日本社会の問題状況を押さえた上で評価する必要がある。
 開催当時の国際社会は、新型コロナウィルスのパンデミック下で、健康・医療環境の格差、ワクチンの囲い込みのような自国中心主義に見られるような世界の分断と格差が露呈している。その中でオリンピックへの準備や練習体制の格差や予選会も十分に開催できない状況にあった。パンデミックとワクチン接種体制の整備に関して、国連とWHOの対応が十分とは言えない中、IOCのSDGsへの取り組みは、オリンピアンのみへのワクチン接種の補助対応のみで良かったのであろうか?
 その当時の日本社会は、コロナウィルスへの対応の遅れ、ワクチン接種の遅れに伴う感染者の増大と医療危機、国民の政府への不信と感染への不安、それらの混乱と不安に伴って、No Olympic Anywhereのようなオリンピック反対論の高まりが各地でみられた。そのような反対世論の高まりの中で開催に押し切った政府の非民主的な対応の仕方や意志決定の在り方が大きな問題になった。また一方で、森喜朗元TOCOG会長のジェンダー問題発言での辞任や開会式の演出チームの言動など、日本社会の人権感覚の低さが露呈されていた。
 このような国際社会と日本社会の状況下で、「東京2020大会」は世界と日本が抱える多くの問題を浮き彫りにしていた。このような認識のもとに、「東京2020大会」の意義について、少しばかり振り返ってみたい。
そのためには、以下のような参照枠が重要である。ただし、意義について考察することは、光の面のみに注目しがちであるが、陰の側面=負の側面も存在していることを忘れてはならない。
 1)「「東京2020大会」」が目指したビジョンと実際のイベントとの照らし合わせが必要である。2)照らし合わせるための参照基準が必要である。しかし、大会のビジョンやコンセプト、それに応じて展開された各種の営みは、今現在、検証することができるほど資料が出そろっているのであろうか? 
 そのために、ここでは「オリンピズム」という思想を参照枠とし、その3本柱である「スポーツ・文化・環境」と、その究極目標である「平和な世界の構築への寄与」という4項目を参照枠として設定することにしたい。しかしながら、まずは「東京2020大会」が目指して行おうとしたことが何であったのか、一応押さえておく必要があろう。

1.「東京2020大会」のビジョンと3つのコンセプト

  「スポーツには、世界と未来を変える力がある。 1964年の東京大会は日本を大きく変えた。2020 年の東京大会は、「すべての人が自己ベストを目指し(全員が自己ベスト)」、 「一人ひとりが互いを認め合い(多様性と調和)」、 「そして、未来につなげよう(未来への継承)」を3つの基本コンセプトとし、史上最もイノベーティブで、世界にポジティブな改革をもたらす大会とする。」*1と大会のビジョンとコンセプトが掲げられていた。
*1 東京大会website 
    https://olympics.com/tokyo-2020/en/games/games-vision/

 それでは、「東京2020大会」は、一体どのように日本や世界の社会と未来を変えたのであろうか?それは今すぐに評価できるのであろうか?また、3つのコンセプトに関して、1.「全員が自己ベスト」を尽くせたのか?2.「多様性と調和」はどのように評価できるのであろうか? また「調和」という状況はどのような状況のことを指し、それはどのように評価できるのであろうか?3.「未来への継承」は今すぐに判断することはできないものであるが、一体何年先を見越して判断するのであろうか?
 このように考えると、「東京2020大会」が掲げたビジョンと3つのコンセプトからの意義評価は、未だ難しい段階にあると思われる。
 このことは、「東京2020大会」の組織委員会が掲げた「アクション&レガシープラン」の評価についても同様のことが言えると思われる。参考までに、そのプランとは、以下の通りである。

「「東京2020大会」に一人でも多くの方に参画して頂き(アクション)、そして「東京2020大会」をきっかけにした成果を未来につなげる(レガシー)のための取組が、「アクション&レガシープラン」です。「東京2020大会」は、単に2020年に東京で行われるスポーツの大会としてだけでなく、2020年以降も含め、日本や世界全体に対し、スポーツ以外も含めた様々な分野でポジティブなレガシーを残す大会として成功させなければいけません。「東京2020大会」組織委員会は、多様なステークホルダーが連携して、レガシーを残すためのアクションを推進していくために、「スポーツ・健康」、「街づくり・持続可能性」、「文化・教育」、「経済・テクノロジー」、「復興・オールジャパン・世界への発信」の5本の柱ごとに、各ステークホルダーが一丸となって、計画当初の段階から包括的にアクションを進めていくこととしました。」*2
*2「東京2020大会」website:
      https://olympics.com/tokyo-2020/ja/games/legacy/

しかしながら、「スポーツ・健康」「街づくり・持続可能性」「文化・教育」「経済・テクノロジー」「復興・オールジャパン・世界への発信」の5本柱それぞれに、一体どのような活動をしたのかというアクションの客観的なデータとその後の活動の継続とその影響、及びそれらの定着の動向を確認していかないと、レガシー化したと言うことはできない。

2.参照枠としての「オリンピズム」

 オリンピズムとは、「スポーツと文化・芸術を通じて、心身共にバランスの取れた人間を形成し、世界平和に貢献する」という教育思想であり平和思想である。ご存じのように、オリンピズムの3本柱は「スポーツ・文化・環境」である。さらに、これらの3本柱にもとづいてオリンピック・ムーブメントを展開し、最終的には「平和な世界の実現」に貢献しようという平和運動である。
 そこで、これらの4項目を参照枠の項目として定め、それらに基づいて「東京2020大会」のパンデミック下におかれた様々な状況を概観してみたい。表1はこれらの4項目に対応したイベントや取り組みと、それらがパンデミック下でどのような影響を受けたのかを一覧表にしたものである。この一覧表に応じて、以下検討する。

表1.オリンピズムの3本柱と究極目標の平和運動に対するパンデミックの影響度

4項目

イベントや取り組み

パンデミック下での影響度

 

影響なし

少しの影響

大きな影響

中止

1.スポーツ

 

 

 

 

 大会のスポーツ競技

✔games

 

✔no audience

 

 ニューアーバンスポーツ

✔games

 

✔ no audience

 

 イニシエーションプログラム

 

 

 

✔cancel

2.文化

 

 

 

 

 文化プログラム

 

 

✔ many cancel

 

 異文化交流

 

 

 

✔cancel

 ホストタウン交流

 

 

✔on line

✔cancel

 教育プログラム

 

 

✔on line

✔cancel

3.環境

 

 

 

 

 水素ガス使用

✔Olympic village

 

 

 

 フードロス

 

 

✔no audience  Decline volunteer

 

 3Rs運動

✔recycle medal

 

 

 

4.平和

 

 

 

 

 オリンピック休戦

✔Olympic village

✔no audience

 

 

 聖火リレー

 

 

✔no audience

 No public road

 

 開・閉会式

✔dove release

 

 

 

 Peace Orizuru

 

 

✔no audience

on line

 

 難民選手団

 

✔ no audience

 

 

 LGBTQカミングアウト

 

✔ no audience

 

 

 人権プロテスト

 

✔ no audience

 

 

 

3.オリンピズムの3本柱と究極目標の平和運動に対するパンデミックの影響

1)スポーツ

 「東京2020大会」の参加者は、205の国または地域のNOCから11,092人の選手が参加し、33競技339種目で競った。93のNOCがメダルを獲得し、66のNOCが金メダルを獲得したように、多くの国や地域に競技力の向上が見られる。コロナ感染者の増加を受けて、ほとんどの会場が無観客となり、観客数は43,300人と予定された96.5%が観戦できなかった。「東京2020大会」は、スポーツ競技会としては開催に成功したかもしれないが、1兆6400億円(約150億ドル)と公表されている開催経費に比較すれば、コスト高の批判は否めない。

 「東京2020大会」から新たに導入された開催国枠の5競技のうち、スケートボード、スポーツクライミング、サーフィンは若者のスポーツへの関心を取り込むために導入された競技種目である。中でもスケートボードはストリートカルチャーとして、オリンピックの競技会場に新風を吹き込んだとメディアの評価が高かった。それは、国や勝敗を超えた若者たちのスケートボードへの楽しさ追求のスタイルが評価されたからである。*3伝統的なオリンピックスポーツに挑む選手達が、国や家族などからメダル獲得を期待され、背負いすぎともいえるようなプレッシャーにつぶされる中で、スポーツの持つ遊びや気晴らしという根源的な楽しみ方を思い起こさせてくれたと言われる。

しかし、それは通常のスケートボードの競技大会と何も変わらないプレースタイルであったのかも知れない。しかしながら、メディアが手放しで賞賛するように、それはオリンピックにふさわしいプレースタイルであったのであろうか?つまり、異文化理解や文化プログラムへの参加など、オリンピズムに基づいたパフォーマンスであったのであろうか?手放しで賞賛する前に、「たかがスポーツ、されどオリンピック」という観点から、オリンピズムに基づいた競技姿勢であったかどうか、彼らのプレーぶりを再考する必要があるように思われる。

*3「国も順位もなし」がスケボーの常識 このカルチャーで「五輪が変わる」日刊スポーツ(20210804)、他            
      https://news.yahoo.co.jp/articles/0c3b8ab860752b8405f304cba5b7b70f7062c493

 スポーツ・イニシエーション・プログラムは、子どもたちに対して未体験のスポーツに関心を持ってもらうように、大会会場近辺で直接体験してもらうために準備される予定であった。しかしながら、無観客の方針となったために、また感染防止の観点から、すべて中止となってしまった(パラリンピック期間中は感染対策を十分にとって予約制でFan Zoon やFan Parkで一部の種目の体感が可能であった)。こうして、日本の子どもたちへのスポーツへの誘いのルートが閉ざされてしまったのは、ニュースポーツの普及のためにはマイナス要因であったと言える。

2)文化

 「文化プログラム」は、選手達の心身の調和のとれた成長のためにも、世界中から集まる観客のためにも、日本の子どもたちにとっても、重要なオリンピックプログラムの一つである。2016年リオ大会終了後から5年間を掛けて開催されてきた文化プログラムもある。大会開催年である2021年にはTOKYO 2020 NIPPON FESTIVALが「Blooming of Culture」(文化は、出会いから花開く。)と題して開催された。
 これには、大きく分けてTOCOG主催のプログラムとTOCOGが共催するプログラムに分かれた。主催プログラムは、東北の被災地と東京および世界を結ぶことを目的とした「モッコ」、輪になって歌って踊る「ワッサイ」、共生社会の実現に向けてメッセージを発信する「ONE-Our New Episode: MAZEKOZE Island tour」の3つのイベントである。
 共催プログラムは、大会期間の前後まで含めて、日本各地で「日本が誇る文化・芸術を国内外に発信することを目的」として30のプログラムが開催された。元々は、もっと多くの文化プログラムが日本各地で開催され、日本文化を発信すると共に各地の観光PRによって、インバウンド増を狙うものであった。しかしながら、コロナ禍で多くのプログラムが中止となってしまった。
 同様に、パブリック・ビューイング会場での異文化交流プログラムや外国のチームを事前合宿に迎え入れてもてなしたり文化交流したりする「ホストタウン」交流イベントも、感染防止のために対面交流ができなくなり、多くが中止かonline開催となってしまった。
 小・中学校を中心としたオリンピック・パラリンピック教育プログラムも、直接観戦である「学校連携観戦」や対面での学習が制限され、一部の競技会場を除き、online交流や中止に追い込まれてしまった。
 クーベルタンが重視していたスポーツと芸術的素養を兼ね備えた全人的な人間教育のための文化プログラムがほとんど開催できなかったことにより、「東京2020大会」が片翼飛行のオリンピック大会であったと言わざるを得ないであろう。

3)環境

 二酸化炭素削減に向けて未来のエネルギーとして期待される水素エネルギーの利用は、TOYOTAを中心として展開された。有明地区の「夢の大橋」に設置された第2聖火台の灯火も、水素ガスを燃料としていた。選手村内では自動運転の移動ビークル(e-palette)も準備された。世界的にみて、自動車界が電気自動車に移行する状況にある中で、このような水素利用の方向性は日本独自のチャレンジであるといえる。しかしながら、水素ガス利用発電でも電気エネルギーへの移行であっても、その大元の電気を発電するために利用する資源が一体何であるのか、そこから見直すべきであろう。オリンピック・ムーブメントの一環として、どのようなエネルギー資源を活用していくのかは、今後も課題となろう。
 「東京2020大会」では、食品の廃棄や医療資材の廃棄などが大きな問題となった。感染拡大のために無観客となったことにより、ボランティア数の大幅削減も生じて、彼らの弁当の再調整などが不十分であったのが主な理由であったが、根本的には、TOCOGの配慮不足と適切な対応がとれなかったことが主因であった。
 3Rsのうちのリサイクルの面では、選手達に授与されたメダルは、携帯電話やPCなど「都市鉱山」と称されたミニ家電などのリサイクル金属から作られた。表彰台も廃プラスティックのリサイクル資材で作られた。大会ボランティアや日本選手団の公式ユニフォームもリサイクル繊維から作られていたが、無観客と感染不安により、多くのボランティアが辞退したことによって、ユニフォームが大量に余ってしまった。これを無償で再配布したことも税金の使い方や衣料が不十分な国々に提供するなどの国際的視野を持たない無配慮な対処であるとして、批判された。

4)平和

4-1)「オリンピック休戦」
 「東京2020大会」の「オリンピック休戦」は2019年12月の国連総会で決議された。実際の休戦決議の発動は、東京オリンピック大会の選手村の開村1週間前から東京パラリンピック大会の選手村閉村の1週間後までの約2.5か月に及んだ。しかしながら、その間にはアフガニスタンからのアメリカ軍の撤退に伴う紛争も生じてしまった。残念ながら今回も、休戦決議に賛同したアメリカをはじめ、「オリンピック休戦決議」は完全には遵守されなかった。
 開会式の開始前には、国連事務総長による「オリンピック休戦遵守のアピール」が流されるのが慣例であるが、日本のメディアは、これに一切触れなかったのも残念である。この「東京2020大会」の開会式は無観客であったために、この「オリンピック休戦」決議の意義が日本の観客に十分に伝わることはなかった。

4-2)「休戦の壁画Truce Mural」 
 オリンピックの選手村内には、日本の木造文化を記念して木製の「休戦の壁画Truce Mural」が設置され、7月19日にIOCバッハ会長をはじめ橋本聖子TOCOG会長はじめ、主な関係者が出席してサインセレモニーが開催された。これは、パンデミックにかかわらずオリンピック選手村で慣例となっているセレモニーであるが、日本のマスメディアはこれについて一切報道しなかった。日本人のオリンピック観は、マスメディアによって影響されることが大きいが、多くのマスメディアはオリンピックの平和運動にはほとんど関心を払わないのである。
 オリンピックの選手村内で、選手達の誰がどのようなメッセージを残したのか、今後はどのように平和教育に活用していくのか、など、マスメディアはしっかりと追跡して欲しいものである。さらに、東京都やJOCは、この「休戦の壁画」を今後のオリンピック教育や平和教育にどのように活用していくのか、その利活用の方針を示すべきであろう。
 ついでながら、触れておきたい。実は、TOCOGの「オリンピック休戦」の担当者は、この「休戦の壁画」について最後まで「休戦ムラール」という英語発音として間違った表記を使い続けた*4。当初はwebsite上で「休戦の壁」という2014年ソチ大会まで使われていた旧来の表記を使い続けていたので、訂正を申し入れたが、担当者からの回答は「これは壁画には見えないので「休戦の壁」という表記を使用すること、および「mural」の発音は「ムラール」と承知している」という珍回答であった。その後も、「休戦のムラール」では発音間違いであるし、一体何を指しているのか分からないので「休戦の壁画」に修正するよう知人のTOCOGの理事とも申し入れたが、最後まで頑なに修正されることはなかった。この間違った英語のカタカナ読みの表記は、IOCのサインセレモニーのニュースやTOCOGのニュースで世界に配信されてしまった。選手村内でもこの誤記が堂々と表示されていた。今後、レガシーとしてオリンピック教育や平和教育に利用する際には是非とも、「休戦の壁画」のような正しい表記に改められるよう希望する。
*4 TOCOGの「オリンピック休戦」のwebsiteニュース参照
 https://olympics.com/tokyo-2020/ja/games/olympictruce/

IOCのwebsiteニュース参照
    https://olympics.com/ioc/news/athletes-invited-to-show-commitment-to-building-a-peaceful-world-through-sport-at-tokyo-2020-by-signing-the-olympic-truce-mural

4-3)「聖火リレー」
 「聖火リレー」は、日本全国へのコロナの感染拡大によって、公道でのリレーがほとんど中止となり、また沿道での観覧や応援もできなくなってしまった。それでも、聖火リレーの公式スポンサー4 社による宣伝コンボイの車列が大きな騒音とともに日本各地を巡ったため、感染拡大の不安とともに商業主義との批判も多かった。
 そもそも「聖火リレー」の目的は一体何であったのであろうか?その計画段階から、日本各地で名勝地や観光地を巡り、有名人や芸能人を聖火ランナーに起用するなど、観光地のPRを中心としたインバウンドねらいの聖火リレーの計画であったのである。政府にも観光立国を目指すという裏の思惑があったのであり、聖火リレーの本来の目的である「平和のためのメッセージリレー」という意味は、あまり認識されてはいなかったのである。残念ながら、子どもたちの聖火リレーイベントへの参加もほとんど不可能となってしまった。

4-4)「象徴的放鳩」
 オリンピックの開会式では、以前はオリンピックが平和希求運動であることを象徴する「白い鳩のシンボリックな放鳩」が執り行われることが「オリンピック憲章」にも定められていた。今は開会式のプロトコルに定めることの変わってきてはいるが、今回もこれまでの慣例に従い、プロジェクションによって白い鳩が飛翔する様子や多数のオリズルが空中を舞うシーンが演じられた。これはパンデミックに関係なく実施されるものであるが、その平和希求のメッセージ性が、TV放映の中で十分に解説されたかと言えば、残念ながらそうではなかった。

4-5)「PEACE ORIZURU」 
 組織委員会が独自の平和希求プログラムとして展開したものに「PEACE ORIZURU」というものがある。これは日本社会では平和希求の象徴としてよく知られている「オリズル」を折って、その翼にピースメッセージを書いてInstagramなどSNSでアップして共有しようというものである。オリンピックのエンブレムが印刷されたオリンピックカラーの5色の折り紙が組織委員会のwebsiteからダウンロードできるようになっている。しかし、パラリンピックのエンブレム付きのものがないのは残念な限りである。その理由は、「オリンピック休戦決議」を遵守すべき期間には、パラリンピック大会の期間も含まれているからである。

4-6)「Paralympic Mural」 
 組織委員会は、パラリンピックの選手村では「Paralympic Mural」を設置した(ここでも「パラリンピック・ムラール」という間違った表記を使用している)。従来の壁画の名称は、「国連障害者権利条約賛同の壁画」であったのが、この「東京パラリンピック大会」から「Paralympic Mural」と名称を変えた*5。IPCもTOCOGもその変更理由を明示してはいない。また、このサイン壁画には障害者の権利だけでなくSDGsへの賛同も含むことになっている。そうすると、パラリンピックでは「オリンピック休戦」は忘れ去られてしまったのであろうか? 変更理由は謎のままであるし、残念ながら、日本のメディアは、この「Paralympic Mural」のサインセレモニーについても何も報道しなかったのである。
*5 https://olympics.com/tokyo-2020/ja/paralympics/news/news-20210822-02-ja

4-7)「難民選手団」
 2016年のリオ大会に続き、東京大会でも難民選手団が編成された。11か国出身の29名の選手が、開会式ではギリシャに続いて2番目に入場した。国連の資料によれば、IOCは東京大会に向けて、難民アスリート奨学生として56人の有望なアスリートたちをサポートしてきた。最終的な難民の代表選手は29人。出身国は、シリア9人、イラン5人、南スーダン4人、アフガニスタン3人、後は、エリトリア、イラク、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国、カメルーン、スーダン、ベネズエラ出身の選手である。*5 こうしてIOCは、たとえ難民であれ、スポーツをする権利を保証したといえる。しかしながら無観客となったために、彼らの活躍ぶりを多くの人がスタンドで見ることができなかったのは悔やまれる。
*5 国連UNHCR協会(2021)「難民アスリート、東京オリンピック出場で世界の舞台へ」
        https://www.unhcr.org/jp/38721-ws-210724.html

4-8)LGBTQ選手達のカミングアウト 
 LGBTQの選手達のカミングアウトは、2016年リオ大会から増加してきているが、東京大会では182人と大幅に増加した。IOCのオリンピック憲章の根本原則第6項が2014年に改正され、性的志向を含むいかなる差別も許さないというIOCやオリンピック界の大きな変化がうかがえる。メダルを獲得したLGBTQの選手も32名存在し、活躍する選手達も多い。しかしながら、この中に日本人選手は一人も含まれていないのである。「東京2020大会」開会前にも、自由民主党の反対によって「LGBT平等法(仮称)」の国会提出ができなかったように、日本社会における人権意識の世界標準からの遅れぶりが、ここにも示されているといって良かろう。

4-9)「人権擁護運動」としての抗議のボーズ
 オリンピックの競技会場や表彰式などで、オリンピアン達が人種差別や人権侵害に抗議するために何らかのポーズを取ることは、オリンピック憲章第50条第2項の違反になるとして、長い間IOCから禁止されてきた。近年IOCは、選手達の要望を受け、IOCのアスリート委員会を中心にこの問題を検討してきた。その結果、この「東京2020大会」では、セレモニーや表彰式を除いて一部が緩和され、女子サッカーの試合開始前ではニーリング(片膝付きポーズ)などで人権侵害に抗議するチームが見られることになった。このようなオリンピアン達の抗議表明ポーズは、政治的なプロパガンダであるというよりは人権擁護運動であると考えるべきであり、近いうちにオリンピック憲章第50条第2項の改正が必要となると考える。
 以上のような平和希求運動は、単に戦争や紛争がない「消極的平和」への希求運動だけでなく、人権や人間としての尊厳、あるいは自由などが保障された「積極的平和」への希求運動であると考え直すべきである。それは、「ヒューマン・レガシーHuman Legacy」を遺そうという運動に他ならない。IOCも日本もこのような「ヒューマン・レガシー」を重視してオリンピック運動を展開すべきであろう。

 

4.最後に:その他の「東京2020大会」の意義

1)大会の開催責任と意見の対立と分断

新型コロナウィルスのパンデミックの中で、世界からオリンピック・パラリンピック大会の開催を期待され、IOCからその開催を付託された「東京2020大会」の組織委員会は、国民の多くの反対にもかかわらず、政府と共に大会の開催を強行した。そのことによって、世界のオリンピアンやパラリンピアン、また関係者からは、多くの賞賛や感謝の声が聞こえた。その意味では、日本政府と東京都は、オリンピック・パラリンピックのホスト国、ホストシティとしての責任は果たしたといえる。それはある意味でナショナル・プライドを高めることにも通じたであろう。
 しかしながら、「東京2020大会」の開催に関しては、日本国内世論の反対が多く、多くの面で分断と対立をもたらしたといえる。それは、オリンピック評価、健康面、経済面などの側面も含めた分断と対立であるといえよう。その結果、日本政府の菅政権の崩壊にもつながったといえる。また、大会の招致段階から強調されてきた「復興オリンピック」というかけ声も、実際には被災地への支援等には反映されることがなく、招致段階から単なるスローガンに使われた感がある。

2)逆説的な人権感覚への認識

 「東京2020大会」組織委員会の森喜朗元会長の女性差別発言によって、彼は辞任に追い込まれた。さらに後任人事をめぐる対応にも、日本社会の男性中心で密室の中で決定するような古い体質が露呈された。また、オリンピックの開会式の演出に携わる中心メンバーにも、人権侵害となる言動があり、直前に辞任することになった。このような人権に関する言動に対する批判に見られるように、国民のジェンダー平等への認識が高まったことは意義深いといえよう。しかしながら、これによって大会組織委員会とJOCの役員の男女比に改善が見られたとはいえ、今後もレガシーとして人権課題への理解とともに、人権保護に関する行動変容や、それらの意識や行動が再生産されて引き継がれていくような制度としての確立が求められるといえよう。

3)「オリンピック好きの日本人はメダル好きの日本人であった」ということの確認

 近年は、オリンピック大会が開催されるたびに、日本から各大会のOCOGの公式websiteへのアクセス数が世界で一番多かったように、「日本人のオリンピック好き」は、世界にもよく知られているところである。しかしながら、今回の「東京2020大会」でも、開催までの世論では、反対や中止の意見が7割強もあったにもかかわらず、大会開始後のメダルラッシュによって、手のひらを返したようなメディアの報道もあり、開催賛同の意見が半数を上回った。このような極端な変化によって窺い知れることは、「オリンピック好きの日本人」の内実が、実は「メダル好き、メダリスト好きの日本人」であったことの証左である、ということを示すことになった。
 しかしながら、このパンデミックの中、マスメディアや人々の中には、日本でオリンピックやパラリンピックを開催することの意義を再考する流れも生じた。そのような流れによって、オリンピックの本来のあり方や今後のあるべき姿を含めた議論が数多く展開されたことは、好ましいことであったといえよう。このようなオリンピック観の変化を受け、オリンピック好きの内実が、真にオリンピズムの理解に基づいたものとなるよう期待したい。それなくしては、2030年冬季オリンピック大会を札幌市に招致しようというような運動も、根本的な理解を得られることにはならないであろう。

4)不完全なオリンピック教育と国際交流

 パンデミックのために、2020年当初、日本社会においては学校の一斉休校処置も執られた。そのために、通常の学業の遅れを補充するために、東京都内の多くの学校でオリンピック・パラリンピック教育に割ける時間が無くなってしまった。
 さらに、無観客方針となったために、学校行事としての「学校連携観戦」プログラムも大幅に縮小されてしまった。そのために、子どもたちがオリンピックやパラリンピックの競技を観戦して、そこで直に看取した様々な経験を自分達の将来に生かすという重要な機会を失うことになってしまった。
 さらに、ホストタウンとして外国の選手団を事前合宿で迎え入れたり、大会後の相互交流を計画していた地方自治体は、ほとんどの事業をキャンセルしたり、online交流に変更して限られたものとなってしまった。例外的に、地方で競技観戦できた子どもたちが少しはいたが、あまりに少ない人数であった。地方自治体の人々も、子どもたちと一緒に支援する国々の選手達との異文化交流の機会が制限されてしまった。しかしながら、僅かにonline交流の繋がりを可能にした自治体もある。これらの経験を今後とも生かして、異文化交流との相互理解のレガシーとなることを期待したい。

 最後に一言。「東京2020大会」では、スポーツ競技会を開催できたかもしれないが、それがオリンピズムに基づいたオリンピック競技大会であったかどうかは、もう少し時間をかけて検証すべきであろう。是非ともこの「東京2020大会」が、21世紀の「新しいオリンピック形」のスタートとなる大会であったと、後々に評価されるような大会であることを望みたい。
 日本がこのパンデミック下で、「東京2020大会」を開催することで学んだことは多かったが、それにしても、あまりに高い授業料を払うことになってしまったといえる。

 

付記:さて、オリンピック・パラリンピック大会の閉会式後に電光掲示板に映し出された「ARIGATO」であるが、これは一体誰に向けられた感謝の言葉なのだろうか?参加してくれた選手達にであろうか?陰で支えたボランティア達にであろうか?我慢を強いられた日本国民にであろうか?確実なのは、大会開催に際して批判が多く向けられた政府とIOCに向けた言葉ではないことである。IOCはそれに気付いているのであろうか?

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