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2014年SOCHI雑感

2014 年 3 月 24 日

執筆:岸本健(フォート・キシモト 代表)

 

●二度目のオリンピック

ロシアでのオリンピック開催はソチが初めてであるが、旧ソ連時代、1980年のモスクワ大会も含めると二度目。私自身も日本が不参加となったモスクワにも行っているのでオリンピックでは二度目の取材となった。初めてオリンピックを取材した1964年の東京大会から数えると連続26回目となる。当社の取材は総勢10名であったが、今大会ほど宿泊先の手配などの事前準備に苦労したことはなかった。私たちは、オリンピックやアジア大会などの総合大会の取材ともなれば、組織委員会からあてがわれるいわゆるプレスホテルではなく、独自に一軒家かマンションを借りて合宿生活を行うのを常としている。経費の件もさることながら、そうした方が、取材情報等を共有でき、チームワークもとれるというメリットがあるからだ。従って数年前から現地にスタッフを派遣するなどして情報を収集し取材拠点を確保するのだが、今回ばかりは開会ぎりぎりまで宿泊先が決まらなかった。というのは、ビザ取得のためには、マンション等のオーナーからの招待状が必要で、これを取得するのはかなり難しく、ホテルであっても予約の確認書だけでは事足りずに認定された旅行会社のバウチャーが要求されるのだ。結局直前になって日本の大手旅行会社に依頼し、何とか宿泊先を確保できたが、これまでのオリンピックに比べ相当高額になってしまった。聞くところによると、三つ星クラスのホテルで一泊10万円もしたところもあったようだ。

思えば、34年前のモスクワ大会の折には、外国人は6,000人も収容できるホテルに全員が宿泊させられ、監視も厳しかった。その後もスパルタキアードやその他の競技会の取材でソ連には数回行った。そして1989年のベルリンの壁の崩壊とそれに続く1991年のソ連解体で東西の冷戦構造に終止符が打たれ、ロシアも民主国家の道を歩み出したが、20年以上たった現在でも当時の負の遺産がさまざまなところに残っていることをこの宿探しでも感じた。

事前にマスコミ等を通じて、テロ対策による過剰警備や競技施設建設などの遅れが懸念されていたので、期待と不安の入り混じった気持ちでソチ入りしたが、案の定、入国やオリンピックパークなどへの入場時のセキュリティはかなり厳しかった。イスラム武装勢力によるテロ予告や、ソチが属する北カフカス地方には独立紛争が激化したチェチェンがあることなどから、プーチン大統領が大会成功のために過剰とも思える警備体制を敷いているのは、ある意味致し方ないことかもしれないが、競技会場への入場だけでなく、沿岸会場と山岳会場を結ぶ電車に乗るにもいちいち荷物チェックがあったのには閉口した。弁当やサンドイッチなどの食料が没収されたりもした。

会場等施設に関しては、何とか大会の開会に間に合った。ただし、山岳エリアで行われた雪上競技では、高温により雪の状態の確保が難しく、人工降雪機や雪面硬化剤などが使用された。ノースリーブのウエアで競技に臨んだクロスカントリー選手がいたのには驚いた。期間中、東京では2週連続して何十年ぶりかの大雪に見舞われたのと較べると、どっちが冬季オリンピックの会場かわからないといった状況であった。

一歩街中に出ると、至るところに絵画やデザインを施された壁面が目につき、その背後をのぞいて見ると、廃棄物などが山になって隠されているなど、開催準備が付け焼刃であったことが窺えた。

また、ソチには野犬が多く人間が噛まれれば狂犬病になる危険性があることから、これもオリンピック対策として3分の2の野犬を処分したそうだ。それでも街には野犬が目に付き、日本のプレス関係者が噛まれたという話を聞いた。

●大会が始まって

開会式は、2月7日、オリンピックパークにあるフィシュトスタジアムで行われた。「ロシアの夢」をテーマとし、広大な国土の開拓に始まり、革命を経て現代に至るまでの大国が歩んできた激動の歴史を壮大なスペクタクルで表現、音楽や舞踊など、ロシアの伝統文化も色濃く反映されていた。しかしながら、2008年の北京オリンピック開会式の折も感じたことだが、豪華絢爛の出し物と裏腹に、どことなく機械的で作られ過ぎの感じがした。私としては、30年前の冬季オリンピックサラエボ大会開会式に登場した美少女たちの純粋なまなざしが、その後サラエボが辿った悲劇的な歴史と相俟って、今でも心に沁みついて離れない。また、選手団については、最近の大会では競技を重視する選手の体調などを考慮し、少人数しか開会式に参加しなくなっているが、さらに入場行進の後、すぐに座席に移動してしまい、観客はほとんど選手の姿を目にすることができなくなっている。長時間立たせる必要はないが、プログラムの内容を工夫し、もう少し各国/地域の晴れの代表選手の雄姿に接することができるようにしたらどうだろうか。

2月10日には、やはりパーク内に設置された「ジャパンハウス」において、JOC、日本代表選手団、在ロシア日本大使館共催によるレセプションが開催され、私も出席した。会場には、昨年9月のIOC総会で、ジャック・ロゲ氏の後を受けて新会長に就任したトーマス・バッハ氏や、ウクライナのIOC委員でIOC理事も務めるかつての“鳥人”セルゲイ・ブブカ氏など多くのIOC委員が来場、竹田恆和JOC会長、橋本聖子日本選手団団長をはじめ、下村博文文部科学大臣(オリンピック担当)、2020年東京大会の組織委員会会長に就任したばかりの森喜朗元首相などと親交を深めていた。

IOCのロゲ前会長は、巨大化した大会の規模的抑制、反ドーピングの徹底、そして時代を担う青少年にスポーツへの参加を促すためのユースオリンピックの創設などを進めそれなりの成果を収めた。自身、1976年モントリオール大会フェンシング・フルーレ団体の金メダリストであるバッハ新会長は、どのような新機軸を打ち出すのであろうか。既に、実施競技や開催都市決定方法などを見直す案件にも着手しており、日本の得意とする野球やソフトボールの正式競技への復活にも、かすかな灯りが見えてきた。昨年10月に会長就任以降初めて来日した折りにもお会いしたが、哲学者的な雰囲気のあったロゲ前会長に比べると、私たちに対する接し方も気さくで、考え方もより柔軟な感じを覚えたのは私だけであろうか

2020年東京組織委員会の関係者としては、上述の森会長、竹田JOC会長(組織委理事)のほか武藤敏郎事務総長、そして大会の終盤には、東京招致に貢献した猪瀬前知事の辞職に伴う都知事選挙で、新知事に当選した舛添要一氏もソチ入りし、IOC関係者との面談のほか会場、運営などの視察を行った。夏と冬の大会の違いがあるとは言え、実際のオリンピック大会を目の当たりにする機会は貴重であり、この大会で学んだことを2020年の大会で是非生かしてもらいたいものである。

パーク内には開閉会式が行われたオリンピックスタジアムのほか、スケート、アイスホッケー、カーリングといった氷上競技の会場、表彰式会場、メインプレスセンターなどがコンパクトに配置されていた。また、コカ・コーラ、サムソン、P&GといったIOCのTOPパートナーが個性的な外見を持つパビリオンを構えていたのが目を引いた。日本企業としてはパナソニックが各競技会場に大型映像機器や各種ディスプレーなどを提供、大会の運営、盛り上げに貢献した。ローカルスポンサーとして参画したヤマハは、ゴルフカー、スノーモービル、4輪バギーなどを組織委に提供、選手、役員、スタッフや観客の移動、輸送をサポートした

期間中、パーク内に設置されていた「2018年ピョンチャン大会PRブース」にも立ち寄った。しかし、韓国の「美容整形」に関するパンフレットしか配布しておらず、ピョンチャン大会の競技や施設、韓国のスポーツなどを紹介した資料を期待した私は拍子抜けしてしまった。2020東京は、ジャパンハウス内でPR展示を行っていたが、開会までの6年間に、大会概要は言うに及ばす、世界中のより多くの方々に東京そして日本に足を運んでいただけるように、スポーツや文化、その他の有効な情報を継続して発信していかなければならない、ということをつくづく感じた。

●2020年に向けて

日本選手等の活躍ぶり、競技結果については、既に新聞、雑誌、テレビなどのマスコミを通じて繰り返し報道されているのでここでは多くは触れないが、日本は、海外での大会では史上最多となるメダル8個(金1、銀4、銅3)を獲得した。今大会のメダルの特徴は、前回のバンクーバー大会ではスピード、フィギュアの2種目にとどまったのに比べ、フィギュアにスキー各種目が加わって5種目に増えたこと。そして、ジャンプでレジェンドと呼ばれた41歳の葛西、スノーボードハーフパイプで銀メダルの快挙を果たした15歳の平野、と日本の冬季オリンピック史上最年長、最年少のメダリストが同時に誕生したことなどである。

金メダルが期待されたジャンプ女子やフィギュア女子シングル等でのメダル獲得はならなかったが、メダルの有無に関わらず健闘した全てのアスリート、そしてそれをバックアップした指導者や競技団体関係者、支えたご家族などに心から敬意を表したい。これらの活躍の陰には、2012年ロンドン大会に続いて、沿岸地域、山岳地域に設置された日本スポーツ振興センターのマルチサポートハウスの存在も忘れてはならない。

帰国便の機上では、6年後の大会がどのようなものになるのかに思いをはせた。1964年の東京大会が戦後の復興を内外に強くアピールしたように、2020年には、震災からの復興と成熟都市東京の魅力を世界に発信できたら良いと考える。また、オリンピック憲章では“文化プログラム”の実施が義務付けられているが、日本の伝統文化の紹介や文化・芸術分野での国際交流など、充実したプログラムが実施されることを望んでいる。

さらに、2020大会の開催をきっかけとして、各競技・種目における競技力の向上が図られるのは当然のことであるが、パラリンピック、障害者スポーツ、生涯スポーツ、地方スポーツの振興、指導者育成や競技施設の充実など、我が国においてより良いスポーツ環境が整備されれば、オリンピックを招致した意義は深くなる。

オリンピックのレガシーはスポーツに直接関係する事柄だけではなく、社会インフラの整備、政治、経済、文化・芸術、教育、環境などあらゆる分野に及ぶ。すなわち、レガシーを引き継いでいくことにより、将来に向け、健康で豊かな社会の実現や国際社会に貢献する日本の醸成に寄与することになるのだ。

また大会開催までの間に、2011年に制定された「スポーツ基本法」の前文の「スポーツは、世界共通の人類の文化である。」との共通理解の下に、各条文に謳われている事項が政策として具現化し、さらに念願である“スポーツ庁”が設置されればなお良い。

当社の今大会の取材は総勢10名で臨んだが、16年ぶりにメダルを獲得したジャンプ団体と同じように、“チーム・キシモト”として力を発揮することができた。冬のオリンピックとは考えられないぐらい日中には20度近い気温になることもあり、スタッフは時に半袖の衣服で頑張った。当社は、一昨年よりIOCとのプロジェクトをスタートさせた。当社の1964年以降のオリンピック関係写真をデジタルデータ化してIOCに納品。世界のオリンピック・ムーブメントのために有効に活用するという主旨である。今大会の取材によって得た多くの写真も、長年にわたって蓄積された当社の“オリンピック・アーカイブズ”に、また新たな一ページを加えることになる

 

 

 

 

 

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