会員レポート Vol.6_No.2
バンクーバー五輪、行き過ぎたナショナリズムと勝利至上主義
執筆:師岡文男(上智大学)
2010年2月12日(金)午後6時、配付されたポンチョを着て、厚紙の箱でできた太鼓を叩き、5万5千人のペンライトで光の海を作りながら観客全員参加型の「第21回オリンピック冬季競技大会開会式」を楽しんだ。素晴しい音楽と映像、パフォーマンス、飽きることのない演出であった。特に選手団の入場の際、(TV放送には映し出されなかったそうだが、)会場の大スクリーンに参加国の位置が地球儀上に示され、オリンピックは普段日本のニュースにはほとんど登場しない国の存在をも意識させる良い機会であることを痛感した。そして、オリンピックが良い意味での愛国心が自然に湧き上がる国際イベントであると同時に行き過ぎたナショナリズムに走りがちな危険性もはらんでいることを感じた。
カナダは多くの国から移民を受け入れている一方、イギリス系カナダ人とフランス系カナダ人の対立がいまだにある国である。開会式で、ハイチ出身のミカエル・ジャン総督による五輪史上初の黒人による開会宣言にはカナダの先進性を感じたが、フランスとイギリスの入場行進の際、立ち上がって熱狂的な応援を送るグループがはっきり分かれていたのは興味深かった。また、カナダ国歌演奏の際、明らかに意図的に起立しないカナダ人家族がいるなど、良い意味でも悪い意味でも「国」を意識するのがオリンピックの功罪といえよう。そういった事情があるカナダだからこそ「ファーストネーションズ」と呼ばれる先住民にスポットをあてたり、「表彰台を独占しよう!」といったスローガンが必要だったのかもしれないが、閉会式でのこれでもかと言わんばかりのカナダ紹介と英語だけのトーク
ショー、「We are all Canadians!」のしめくくりにはいささか閉口した。首都大学東京の舛本教授が指摘されておられるように、これほど子どもたちが登場しない開会式・閉会式も珍しく、長野から北京まで続いた「一校一国運動」が途絶えてしまったこともこうした風潮を作り出してしまった一因のような気がしてならなかった。
そして、ロシアのプーチン首相の「五輪の意義は参加することではなく勝つことにある」や石原都知事の「銅(メダル)を取って狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ」といったオリンピズムをまったく理解していない五輪主催国や招致都市の首長の発言には本当にがっかりした。こうした考え方がドーピングを蔓延させてきた過去を忘れてはならない。