会員レポート Vol.6_No.1
2010年バンクーバー冬季オリンピック大会観戦記
執筆:舛本直文(首都大学東京)
2010年2月11日から14日まで4日間バンクーバーに滞在し、冬季オリンピック大会の前半の市内の様子や会場を見て回ったので、雑感を含めて報告してみたい。
「不平不満だらけの大会」
今回の大会の前半の印象を一言で述べると「不平不満だらけの冬季大会」ということになろう。アスリートにとっては、雪不足・悪天候への不満、リュージュ選手の死亡による高速コースへの不満など。観客には、案内を含めた会場運営の悪さへの不満、順延によるチケット対応への不満、常設聖火台設置位置への不満など。カナダの文化大臣には、開会式の内容のフランス色不足への不満など。市民には、オリンピックグッズ販売店の狭さ、長蛇の列のイベント会場など。ドーピング検査によって大会開始前までに30名の選手が失格になったというニュースはIOCにとっての不満であろう。苦労して入手した高いチケット、法外な価格の宿泊代、バス移動の運営のまずさ。そのようにしてまで観戦したオリンピック。訪れた世界各国の観客の目にはこの冬季大会がどのように映ったのであろうか?
私自身オリンピック研究者としての不満は、文化プログラムや教育プログラムなどの情報の不案内と、会場や街中のイベントに子どもたちの参加がほとんど見られないことである。これはバンクーバーの組織委員会(VANOC)が従来の慣習を捨て、「一校一国運動」を展開していないせいでもあろう。子ども達の姿は、見た限りではロブソンスクエアの仮設リンクにちびっ子アイスホッケーとして動員されていたくらいであろうか。これもアイスホッケーフリークのカナダ人らしさ故といったほうがよかろう。VANOCは、子ども達に対してオリンピックの祝祭性と平和・教育メッセージを伝える好機を失ったといえよう。また、1994年リレハンメル大会から続いてきた「草の根の平和と環境メッセージリレー」も今大会で実施されず、その良きムーブメントの流れが途絶えてしまった。ただ、オリンピック・オーバルがあるリッチモンド市の市役所で子どもたちの教育・文化・倫理プログラムの展示があったが、滞在が土日で市庁舎が閉館。これを視察できなかったのが、返す返すも残念であった。これは教育・平和運動プログラムに関する事前情報不足の結果でもあるが、良いプログラムに参加して欲しいというVANOCの意欲の欠如のせいかもしれない。さらに、各国のナショナル・ハウスに関しても情報不足であり、今回はジャパン・ハウス以外、どこも訪問することができなかった。また、オリンピック研究者仲間にも会うことができなかった。滞在費が高額になり、オリンピック研究者達も大会開催期間中の調査や研究を敬遠してきているようである。
「開会式のメッセージは?」
大会開始前、グルジアのリュージュの選手が練習中に死亡するという悲惨な事故があり、グルジア選手団は喪章をつけての行進。ロゲ会長も開会式で黒いネクタイ姿でスピーチし、この残念な事故に触れて哀悼の意を表していた。
夕方5時からスペクテイターリハーサルが始まったが、最近の開・閉会式セレモニーでは観客参加型の演出が多い。白いポンチョは照明演出の都合のため。今回の鳴り物はドラム型のボックス。ペンライトが2種類。小道具をうまく使わせて、光の一大ページェントにするのがお決まりの「演ずる観客」という演出である。
セレモニー開始前にバンギムン国連事務総長のオリンピック休戦メッセージが英仏2ヶ国語で流れたが、テレビの国際映像ではこれが放送されないのが残念な限りである。
開会式のショーはインプレッシブなものであったが、全体のストーリーとメッセージ性が良く分からなかったのが残念である。スノーボーダーがオリンピック・シンボルマークをくぐり抜ける最初のジャンプの演出は、スキーのジャンプと思っていたため、サプライズであった。全体の演出は、1998年長野大会の御柱、2000年シドニー大会のアボリジニとの和解、2002年ソルトレーク大会の開拓民の歴史、2006年トリノ大会の空中サーカスのパフォーマンス、2008年北京大会の発光ダイオードの活用など、なじみのものを組み合わせたような演出であったといえよう。
今回は初めての屋内の開会。聖火を最後にどのように扱うのか興味津々であった。聖火の最終点火者は4人であったが、1本の聖火の支柱が起き上がらなかったため、点火できなかった点火者がいた。観ているときには気がつかなかったが、その時にグレツキーが彼女に声をかけて一緒に点火すれば、もっと印象的になったかもしれない。それはともかくも、聖火は競技するアスリート達の目に届く範囲にあって欲しいものである。ウォーターフロントのフェンスに囲われたIBCの中に鎮座するのは、なんとも見世物主義的ではないか。しかも市民が聖火をバックに記念撮影すれば必ずフェンスが写ってしまうのである(写真)。
さて、今回の開会式の演出で平和と教育のメッセージがどれだけ盛り込まれ、それがどれだけ伝わったのか。ショーで盛り上げる以前にオリンピック像を再構築しなくてはならないであろう。今回のように30人もドーピング検査で失格になる選手がいるのは、やはりメダル至上主義のせいであり、それを容認する空気のある競技界とそれを煽るメディア界、それがさもスポーツの姿であるようにメディアによって刷り込まれている視聴者、という構図が強固に作り上げられているのかもしれない。ここに大きな問題が潜んでいるように思われる。
〔「都政新報」2010年2月26日より転載〕