アジア競技大会の歴史と今後の課題
執筆:伊藤 公
第16回アジア競技大会は、2010年11月12日より27日までの16日間、中国の広州で開催された。この大会では42競技476種目が実施され、アジア・オリンピック評議会(Olympic Council of Asia=OCA)加盟全部の45の国と地域から14,000人を超える選手・役員が参加し、史上最大規模の”アジア民族のスポーツの祭典”となった。
この大会に参加した日本代表選手団のことについては市原則之団長(日本オリンピック委員会=JOC=専務理事)がインタビューで別途総括しているので、ここではアジア競技大会の歴史を振り返りながら、今後の課題などについても考えてみたい。
アジア競技大会の歴史と日本の参加状況
アジア競技大会(The Asian Games)とは、OCA加盟のアジア地域の国と地域の選手が集まって開く総合競技大会のことである。主催はOCA(ただし、1982年の第9回ニューデリー大会までの主催者はアジア競技連盟=Asian Games Federation=AGF)で、オリンピックの中間年(正式には夏季大会の翌々年)に、4年に1回行われる。現在の本部はクウェートに置かれている。
OCAの前進のAGFが創立されたのは1948年である。第2次世界大戦終了後初の夏季オリンピックは、この年にロンドン(イギリス)で開催された。この時にアジア地域から参加した当時のインド、フィリピン、中国、朝鮮、ビルマ、セイロンの6カ国の代表が集まりAGFを創立し、第1回大会を2年後の1950年にインドのニューデリーで開催することを決めた。しかし、ヨーロッパへ発注した競技用具の到着が遅れたために、実際に開催されたのは翌51年3月のことだった。
この記念すべき第1回ニューデリー大会では、陸上競技、水泳(競泳、飛込み、水球)、サッカー、バスケットボール、ウエイトリフティング、自転車競技の6競技が実施され、日本は水泳を除く5競技に84人の代表選手団(選手65人、役員19人)を派遣し、参加11カ国の中で、最高の成績を収めた。当時の日本は第2次世界大戦後、まだそれほどの年月が経っていなかったので国際オリンピック委員会(IOC)をはじめ各国際競技連盟(IF)などへの国際スポーツ界への復帰は果たしていなかったが、この大会への参加は、日本が世界へ再デビューする契機となったことで知られている。
そこでまず、アジア競技大会(以下、単に「アジア大会」と表記する)は、いつ、どこで開催され、日本選手団の成績はどうだったかなどを振り返ってみることにする。各大会ごとの①は開催年月日、②は実施競技数、③は参加国・地域数、④は日本代表選手団数(選手数、役員数)、⑤日本代表選手団が獲得したメダル数(金、銀、銅メダル数)である。これらのデータはいずれもJOC調べによる。
■第1回大会 ニューデリー(インド)
①1951年3月4日~11日、②6、③11、④84(65, 19)、⑤60(24, 21, 15)
■第2回大会 マニラ(フィリピン)
①1954年5月1日~9日、②8、③18、④198(151, 47)、⑤98(38, 36, 24)
■第3回大会 東京(日本)
①1958年5月24日~6月1日、②13、③20、④337(287, 50)、⑤138(67, 41, 30)
■第4回大会 ジャカルタ(インドネシア)
①1962年8月24日~9月4日、②14、③17、④252(209, 43)、⑤155(74, 57, 24)
■第5回大会 バンコク(タイ)
①1966年12月9日~20日、②14、③18、④259(216, 43)、⑤166(78, 53, 33)
■第6回大会 バンコク(タイ)
①1970年12月9日~20日、②13、③18、④267(221, 46)、⑤144(74, 47, 23)
■第7回大会 テヘラン(イラン)
①1974年9月1日~15日、②16、③25、④328(290, 38)、⑤165(69, 49, 47)
■第8回大会 バンコク(タイ)
①1978年12月9日~20日 ②19、③27、④373(306, 67)、⑤178(70, 59, 49)
■第9回大会 ニューデリー(インド)
①1982年11月19日~12月4日、②21、③33、④463(355, 108)、⑤153(57, 52, 44)
■第10回大会 ソウル(韓国)
①1986年9月20日~10月5日、②25、③27、④551(439, 112)、⑤211(58, 76, 77)
■第11回大会 北京(中国)
①1990年9月22日~10月7日、②27、③37、④674(543, 131)、⑤164(38, 60,76)
■第12回大会 広島(日本)
①1994年10月2日~16日、②34、③43、④1,017(678, 339)、⑤218(64, 75, 79)
■第13回大会 バンコク(タイ)
①1998年12月6日~20日、②36、③41、④956(629, 327)、⑤181(52, 61, 68)
■第14回大会 釜山(韓国)
①2002年9月29日~10月14日、②38、 ③44、④985(658, 327)、⑤190(44, 74, 72)
■第15回大会 ドーハ(カタール)
①2006年12月1日~15日、②39、③45、④905(626, 279)、⑤199(50, 71, 78)
■第16回大会 広州(中国)
①2010年11月12日~27日、②42、 ③45、 ④1,078(726, 352)、⑤216(48, 74, 94)
財政・政治問題などで何回も開催の危機に
以上のデータからもわかるように、アジア大会はこれまで16回行われているが、もっとも多く開催しているのはバンコク(タイ)で、その回数は4回にのぼる。バンコクが最初に開催地となったのは1966年の第5回大会だが、次の70年の第6回大会も、引き続き開催している。のみならず1回置いて78年の第8回大会の開催地にもなった。バンコクがどうしてこのように3回も開催地になったのかといえば、当時のAGF加盟国はいずれも財政的な余裕がなかったからだ。とりわけ78年の第8回大会は、開催に漕ぎつけるまでが大変だった。
実は第8回大会の開催地には、ほとんどの日本人は忘れかけているが、福岡市も立候補している。その開催地を決めるAGF評議員会は72年のミュンヘン・オリンピックの際にミュンヘンで行われたが、この時は伏兵のシンガポールに軍配があがった。西欧にばかり目を向けている日本に対するアジア諸国の反感があったためと言われている。しかし、シンガポールは財政上の理由で間もなく返上、代替地に名乗り出たのはイスラマバード(パキスタン)だった。そこでAGFはイスラマバードに決めたが、パキスタンの国内の財政事情が良くなかったために、これまた間もなく返上してしまった。
第8回大会は宙に浮く可能性があった。そこに救いの手を差し出したのは、過去に2回の開催経験を持つバンコク(タイ)。ただし、この時にタイ側が提示した条件は、開催には「300万ドルが必要。参加国が応分の分担をしてくれれば」というものだった。ちなみに15カ国が分担金を支払ったが、一番多いのはサウジアラビアで50万ドル、次のクウェートが25万ドル、日本と中国は各20万ドル、イラク、カタールが各15万ドル…と続く。これを見ても明らかなように、危機を救ったのは中近東の石油産出国だった。日本は自転車振興会から出してもらい、3回に分けて送金した。タイは以上の3回の他に、98年の第13回大会をバンコクで開催しているが、この時は過去3回とは事情が違う。
なおアジア大会を2回開催している国はインド(いずれもニューデリー)、日本(東京、広島)、韓国(ソウル、釜山)、中国(北京、広州)の3カ国で、フィリピン(マニラ)、インドネシア(ジャカルタ)、イラン(テヘラン)、カタール(ドーハ)は各1回となっている。
このようにアジア大会は、1回も中止されることがなく開催されてきたが、財政・政治問題などのために何度か難問題に遭遇し、その都度、中止または延期の危険にさらされてきた事実は否定することができない。主催者がAGFからOCAに変わった1986年の第10回ソウル大会以降は、かつてほどの深刻な悩みはなくなったようにも思われるが、別の面での問題も生じている。
1978年の第8回バンコク大会までは日本がアジアのNo.1
次に、アジアにおける競技力の面に目を転じてみよう。
1951年の第1回ニューデリー大会から78年の第8回バンコク大会までは、日本がアジアにおける”スポーツ1等国”で、金銀銅メダルの獲得率は断トツに多かった。ところが、92年の第9回ニューデリー大会からは様相が変わってきた。中国がアジアのトップを占めるようになったのだ。
第2次世界大戦後、中国がIOCに加盟したのは54年のことである。だがそれから4年後の58年に中国は国内事情でIOCを脱退すると同時に、IFからも身を引いた。中国はその時から、国際スポーツ界とは無縁となった。中国が国際スポーツ界に復帰するのは、それから15年後の73年のことである。中国がIOCはもちろん、国際スポーツ界に復帰するにあたって、その仲介役を果たしたのはJOCだった。忘れてならないのは、当時のAGFが中国と仲間に迎え入れると同時に、台湾を追放していることだ(もっとも台湾は、間もなくAGFに復帰した)。そして中国は74年の第7回テヘラン大会に参加し、日本、イランに次いで第3位の成績を収め、次の第8回バンコク大会では日本に肉迫する。ただし当時の中国は、「友好第一、競技第二」をスローガンに掲げていた。
中国が日本に変わってアジアのNo.1になるのは、82年の第9回ニューデリー大会の時だ。33の国と地域から4,635人の選手・役員を集めて21の競技が行われたこの大会で、中国は金61、銀51、銅41個のメダルを掌中にし、金57、銀52、銅44個の日本を追い抜いた。メダル総数はまったく同数の153個だったが、日本は金メダル数で4つの差をつけられてしまったのである。そして主催者がOCAになった86年の第10回ソウル大会から日本は、韓国にも後れをとるようになった。94年の第12回広島大会は、地元日本開催ということと中国選手のドーピング事件がぼっ発したために、何とか韓国に競り勝ち2位の座を確保したものの、98年の第13回バンコク大会以降4大会は、1位・中国、2位・韓国、3位・日本の順位は不動のものとなっている。今回の第16回大会のメダル獲得数は、中国が金199、銀119、銅98の計416個、韓国が金76、銀65、銅91の計232個に対して、日本は金48、銀74、銅94の計216個。その差は開くばかりで、残念ながら、”アジアNo.1″の座は過去のものになりつつある。
OCAが抱える問題とJOCのスタンス
最後に、アジア大会が抱える課題について考えてみたい。
60年前の1951年に11カ国から約500人の選手・役員を集め、6競技44種目の実施でスタートしたアジア大会は回を重ねるに従い大きくなり、AGF主催最後の82年の第9回ニューデリー大会では、33の国と地域から4,635人の選手・役員が参加し、21競技193種目が実施されている。主催者がOCAに変わった86年の第10回ソウル大会、90年の第11回北京大会を経て参加国・地域、参加人数、実施競技種目数は増加したが、特記すべきほどでもない。極端に多くなるのは94年の第12回広島大会の時で、43の国・地域から6,828人の選手団が参加し、オリンピックを上回る34競技337種目が実施された。広島の大会組織委員会は規模を大きくしたくなかったのだが、主催者のOCAに押し切られてしまった。参考までに紹介すると、その2年前の92年のバルセロナ・オリンピックでは25競技257種目が行われているので、それよりも9競技80種目も多い。
このマンモス化にはさらに拍車がかかり、98年の第13回バンコク大会、2002年の第14回釜山大会、06年の第15回ドーハ大会へと進み、10年の第16回広州大会ではOCA加盟全部の45の国・地域から14,000人を超す選手団が集まり、42競技476種目も実施した。08年の北京オリンピックでは28競技302種目が行われているので、実施競技では14競技、種目では174種目も多い。OCAとしては、オリンピック競技種目以外にアジアで普及しているものをできるだけ採用したいとの気持ちがあり、それがこのような傾向になったと思われるが、歯止めがきかないほどにマンモス化してしまった。
そこでOCAは猛省し、次の14年の第17回仁川(韓国)大会からは、オリンピックと同じ28競技に7競技を加え、35競技にしようと考えているようだが、まだ最終的な結論は出ていない。しかし、いずれにしても、ふくれ上がった競技種目は縮小せざるを得ないだろう。その場合、どの競技種目を残し、どの競技種目を除外するかは、各国内オリンピック委員会(NOC)や国内競技団体(NF)の思惑も入り交っての攻防になることが予想される。OCA加盟国の大半が「なるほど」と納得できるように決着して欲しいものだ。
もう1つ、JOCとして考えて欲しいのは、アジア大会の位置づけである。JOCは「広州アジア大会はロンドン・オリンピックへのステップ」と言いながら、各競技団体は最強のチーム・選手を派遣しないところもあった。スケジュールの関係でそれができなかった事情は理解できるが、最強のチーム・選手を派遣しないと、もはやアジアの頂点に立つことやメダルに手が届かないことは目に見えている。
日本のスポーツ界、とりわけJOC、NFは、アジア大会の位置づけを、高所大所に立って構築すべきだ。また国の全面的な援助がなければ、国際的な舞台で優秀な成績を収めることは不可能に近い。好むと好まざるとにかかわらず、今こそ国をあげてのスポーツ振興策の出現が望まれている。